ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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どうやって責任とる?―――『「責任」ってなに?』を読んで

責任ってどういうものなのかを考えた本。
著者は大庭健専修大学文学部教授)。
講談社現代新書



このように、現在の身体的な特質や心理的特質のうち、私の心がけしだいで「他のようにも」ありえた部分については、私に責任がある。他方、それ以外の部分については、私の責任を問われても答えようがない。しかし、そのように「他のようには」ありえない心身の特質があるからといって、私は「他のようには」行為できない、ということにはならない。(P.105)

著者自身「答えようがない」と言っている通り、これでは何も答えていない。しかし仕方がないとも思う。なぜなら、これは「他のようには」行為できないということだけでなく、同時に「他のように」行為できたということでもないからだ。問題はその場合の責任(呼応可能性)の在り方に無限のバリエーションが存在するということである。




大勢の人がいたときに将棋倒しが起こって、死傷者がでた、としよう。(略)もちろん、引き金をひいた個人の責任は問われる。しかし、むしろ主要に問われるべきは、そうした行為が引き金となって悲劇が起こってしまうような状態が放置されてきたのは、どうしてなのか、今後どう改善していくのか、ということである。(P.117~P.120)

つまり、管理責任ということなんだろうけど全てを人間がコントロールできるのか疑問が残る。(誰が管理者責任者かは横に置いとくとして)前提に人間の制御能力への過信があるのではないか。完全なコントロールが不可能であったことを認めるとすると、問われるべき責任はとても小さなものとなってしまうだろう。




しかし、個人として責任を負うということは、そのつど・すでに呼応可能な間柄において生きている者として、その事実を与件として間柄を引き受けなおしていく、ということに他ならない。(P.24)

「引き受けなおす」のは良いのだが、「その事実を与件」とすることに関して無条件には承服できない。




しかし、より積極的には、責任を担うということは、応答を期待しにくい時でも、呼びかける努力をやめず、応えきれないと感じても、応えようとする姿勢を崩さない、ということである。(P.25)

その呼びかけが妥当なのかどうか、的外れではないのかどうかも検討されなければならない。




当面、応答が期待できなくても呼びかけるということは、(略)むしろ、返事か戻ってこないと分かりきっている新生児にたいして、あれこれ呼びかけるのに似ていよう。(P.25)

逆にこうも言える、まだ上手くしゃべれない新生児の呼びかけに意味のある言葉で返事はできない。ミルクを上げたりおむつをかえたり泣かないようにあやしたりする応答しか出来ないだろう。あるいは身勝手なわがままで駄々をこねる子供の呼びかけには、叱りつけるか要求を拒否するといった対応をしなければならない。この変な例え話(P.25の新生児云々…)でも、呼びかけに適切な妥当性があるかどうかという視点が抜け落ちている。



責任(リスポンシビリティ)とは、第一次的には、互いに応答(リスポンス)が可能だという、間柄の特質である。(略)そもそも互いに、自他の行為の理由(わけ)を理解できなければならない。(略)自分の行為に正当な理由がなく、むしろ、そう行為しない理由があった、と判断したならば、率直にに詫びなければならない。しかし、それは、第一次的には、とりわけ倫理的には、過失を埋め合わせてフリーになることではなく、関係修復へのコミットメントの引き受けなのである。(P.28~P.29)

「自分の行為に正当な理由がなく、むしろ、そう行為しない理由があった、と判断したならば」という事に関しても、そう行為しない理由など無限にあるし、どう判断するかにも無限のやり方がある。時間の経過や、状況の変化、新事実(という解釈)の発見によっていかようにも変わりうるので、どのような「責任の引き受け方」であろうと確実に正しいとも確実に間違っているとも言えない。結局、呼びかけの妥当性と、返事の妥当性について双方が検証し続け、折り合いをつけられそうな妥協点を”暫定的なもの”だと自覚したうえで模索していくしかないだろう。




しかし、厄介なのは「他のようにできたか」という判断が、きわめて多様であり、ときには、「あのときは、ああしかできなかった」という言い方が責任逃れのために濫用される、という現実である。(P.73~P.74)

「他のようにできたか」という判断が多様であることは、別に「ああしかできなかたった」という判断に必ずしも結び付くわけではない。むしろ、その判断の多様さは「どのようにもできた」ということに結び付き、「ああもできたはずだ」「こうもできたはずだ」と、行為の結果に対しての責任追及が如何様にも出来ることによって、「呼びかけ」が単なる「言いがかり」に堕してしまう可能性が開かれているのだ。ここでの問題は「”責任逃れ”のために濫用される」ことではなく「”責任追及”のために濫用される」ことである。




感想まとめ

責任=呼応可能性とし、何らかの関係性を持った間柄にある個人や集団が応答することにより、その関係性を未来に向けてより良いものに編み直していくということを中心に論が展開されていく。それは良い、それには同意できる。しかし、現在の関係がどのようなものであるかは、解釈によって様々なバリエーションを持つ。(特に後半部分の戦争責任について)著者は揺るがない事実がすでにあり、それに基づいて果たすべき責任(応答すること)の形が定まっていると信じて(日本は果たすべきそれを果たしていないと主張して)いるようだが、私にはそんなもの無いように思える。ニーチェを引用するなら「事実などない、あるのは解釈だけだ」といことになる。現実はあまりにも複雑であり、関係者双方の間に「これは事実だ(という解釈)」という合意があったとしても、そのカッコ付きの事実に「どのような意味」があるのかもまた解釈しだいである。つまり、責任=呼応性はどのような形にもなりうる。結局、私達は手探りで責任の形を探り、その形はあくまでも絶対的な正しさがないことを自覚しながら、互いに合意できる解釈をカッコつきの事実としつつ一応の納得できる妥協点で折り合いをつける努力を”双方”が行い続けるしかないだろう。

呼応関係の前提となるカッコつきの事実に対し
①双方の合意があるか
②(それを「事実」と見做すことに)適切な妥当性があるか
は常に検証され続けねばならない。この本の弱い点は関係者双方がそれを「事実(という解釈)」として合意を結ぶためのプロセスをどう実践していくのかの方法論と、それを適切な「事実(という解釈)」として認めるに足る妥当性を検証するプロセスに関する方法論を示せていない点である。