ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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世間と、どう折り合いをつけるか?―――『「世間」とは何か』を読んで

個人が世間とどう向き合っていくかという視点から社会の在り方を考えた本。
著者は阿部謹也(元一橋大学学長、専攻は中世ドイツ史)。
講談社現代新書


1. 世間と社会は違う

明治以降、世間という言葉は徐々に消えていったが今でも会話の中に「そんなことでは世間には通用しないよ」「世間の口にとは建てられぬ」など出ることから十分生きていると著者は言う。


世間は所与とみなされ、個人の意思によってつくられ、個人の意思でその在り方も決まるとは考えられてない。

2. 説明の難しさ

「世間」の説明の難しさについて、経験から自分の関わった世間を知っているだけなので普遍的な観点を持ち込めないため理屈を超えたものとなっている点を指摘する。


著者の提示する作業仮説としての定義はこうだ、「世間」とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。


日常生活の中で実感をもって仲間と考えているのは自分の世間の中の人だけであり、名簿などはなく誰がその世間に入っているか必ずしもはっきりしないが、おおよその関係で分かるものとも言う。

3. 世間の縛り

世間に属している人の中に不名誉な者がでると、その世間全体が汚名を受けるため、その世間から排除される動きがあるという(らいてうの除名、P.18)。著者は日本の歴史に伝えられる「ケガレ」が生き残っていると指摘する。


「自分は無実だが、世間を騒がせたことについては謝罪したい」という言葉を英語やドイツ語に訳すことは不可能であるとし、日本人は自分の名誉より世間の名誉の方を大事にしていると著者は述べる。

4. 分析するために

世間とはいわば「非言語系の知」の集積であり、これを顕在化し対象化することで、世間の持つ負の側面と、正の側面の両方が見えてくるはずであるとし、新しい社会関係を生み出す可能性を模索するという。

5.感想まとめ1 (文学作品を通して見ていく世間)

万葉集古今和歌集源氏物語、……近代文学までを通して、作品の中での自己と世間の距離の置き方、身の処し方が取り上げられるが噂話をされたり、男女の仲のことであったり、移ろいやすい無常観だったり、現代の我々と同じように当時の人も思うようにならない煩わしさに囚われていたらしい。とはいえページを割きすぎのようにも思えた。途中、仏教からの影響などもはさまれるが、ほとんど最後まで文学作品の紹介が続く。歴史を見るのはとても大事なことだと私も考えるが、それは現代と結び付け関連させることによって意味を帯びてくるものであるから、関連させるやり方が妥当であるか不当であるかは、さておくにしても、あの時代はこう書いてある、この時代はそう書いてあるというだけでは「だから何?結局どうすればいいの?」としかならない。著者は本書の結びで、日本人はごく例外的な人を除いて個人であったことはほとんどなかったとし、その例外的な人は世間との間に抜き差しならない関係を保っていたと語る。実際そうだったのだろうし、中世から近代の文学作品によってもそのことは描かれていたが、現代にどう当てはめていくのか、という所までの踏み込みが浅いという印象をぬぐえない。「人々の目は新しいものにそそがれるので、古いものは見えなくなることがある。しかし古いものは消え去ることなく生き続けており、私たちの行動を規定し続けている。(P.256)」というが、そう言うだけでは何も言っていないのと同じではないだろうか。現代社会、あるいは現代の世間を”どのように”規定しているのか?過去のそれは現代の”何と”対応関係にあるのか?について具体的に取り上げ深く分析しなくては意味がない。著者の示唆的な指摘にとどまるケガレや呪術的な関係についても、もっと突っ込んだ取り組みを行ってほしかった。「昔も今も世間の問題に気付いた人は自己を世間からできるだけ切り離してすり抜けようとしてきた。かつては兼好のように隠者となってすり抜けようとしたのである。しかし現代ではそうはいかない。世間の問題を皆で考えるしかない状況になっているのである。(P.258)」とは言うが兼好のような人物は当時としても珍しい人であり、多くの人は世間の中で暮らしていた。そして現代でも、ごく少数の珍しい人は世間との関りを断ってすり抜けながら暮らしているはずだ。状況はそれほど大きく変わっているのだろうか?(変わっているのなら、そのことも詳しく分析してほしかった)。最後の結びは当たり障りのないまとめのようにも見える。結局、世間とは明確の条文規定があるわけではないが、自分の意思で作ったり在り方を変えたり出来るものではない最初から与えられたもので、おおよその人間関係として人々(内面的および外面的な)行動規範を強く規定する「何か」であり、「何なのか」はよく分からないけど「個人によって作られる社会」とは違う「何か」が日本には確かにある、と。これくらいのことしか言っていないように思えた。

6. 感想まとめ2(著者の他の著作に期待)

私は別の著書(養老孟司の本だったかと思う)で阿部謹也がいうには西洋の「個人」の発生はキリスト教の懺悔の制度にあると主張されている、みたいな記述を読んで本書の著者(阿部謹也)に強い興味を持った。懴悔の告白のなかで「私は…」「私は…」「私は…」と言うことにより個人という意識が強くなっていったそうだ。これが本当に正しいか間違っているかは確かめようがないものの非常に面白い説だと感じた。養老孟司阿部謹也の説を補強するかのようにこう続けていた。英語のamという動詞には必ず「I(アイ)」が来る、それなら書かずに省略しても問題なく分かるはずなのに決してその主語を省略はしない。それほど主体意識が強いということだが、ヨーロッパの多くの言語の元となるラテン語では必ずしも主語を必要としなかった。デカルトの有名な言葉「Cogito ergo sum(コギト・エルゴ・スム)」には主語が存在しない(Cogitoは動詞)。つまり社会における人々の意識が変化したということだ。本書は正直いって期待外れだったを言わざるを得ないが、著者である阿部謹也への興味は、まだ衰えてはいない。他の著作も、そのうち読んでみたいと思う。もう一度いうが私は阿部謹也には強い興味をもっている。

7.おまけ

世間とは何かについて、それほど関係はないが面白いと思った記述内容を取り上げてみたい。

その1.神判

鎌倉幕府の時代、民事事件では自分の主張の正しさを証明するために、現代から見れば非常にユニークな方法が行われていた。定期的に神社に参篭し、その間に起請人の身辺に特定の現象(神の怒り)が生じなければ証明されたことになるらしい。その現象とやら9つを引用する。

一、鼻血出づる事。

一、起請文をかくの後、病の事。<ただし本(もと)の病を除く>

一、鳶(とび)、烏(からす)尿を懸くる事。

一、鼠の為に衣装を喰はるる事。

一、身中より下血せしむる事。<ただし楊枝を用いる時、ならびに月水の女および痔病を除く>

一、重軽服の事。

一、父子の罪科種辛いの事。

一、飲食の時、咽ぶ事。<ただし、背を打たるる程をもつて、失と定むべし>

一、乗用の馬斃るる事。

右、起請文を書くの間、七箇日中その失なくば、いま七箇日を延ばし、社頭に参篭せしむべし。もし二七箇日なほ失なくば、惣道の理につきて御成敗あるべきの状、仰せによつて定むる所件のごとし。

文暦二年閏六月廿八日

『「世間」とは何か』阿部謹也講談社現代新書)P.66~P.67


鼻血が出たり、鼠に服をかじられたり、食事のときにむせぶとダメらしい。私はこれを面白いとは思うが、馬鹿にして笑うつもりはない。当時の人々にとっての合理性はあったはずだからだ。現代の私達の社会システムや規則も後世の人々からみれば不合理に感じられるものが多々あるはずである。人間は時代によっても地域によっても異なる文化を持っているのだ。上記の例以外にもJ・G・フレイザーの『金枝篇』などに見られるような様々な文化的儀式やしきたりは、独特な様式を持っていて面白い。これらの文化的差異は飽くまでも形式の違いであって、質の優劣に還元できるものではないことはレヴィ=ストロースを引き合いに出すまでもない。


その2.漱石による博士号の受け取り拒否

漱石夫人の「漱石の思い出」によると手紙の中で「博士なんて専門分野については知っているが、その他のことは何も知らないという不名誉千万な肩書であるから、そんな称号はもらわない。女房のおまえも、そのことを理解しておくように。」という内容があるようだ。阿部謹也はこれを、自己一人によって立つと考えていた漱石が、文部省という官の世界によって認めてもらう事を拒否することで世間への身の処し方が推測できるとしている。確かに世間から身を引いている部分もあるのだろうが、私が面白いと思ったのは、この時代からすでに専門化しすぎて全体性を見失っていた学問の世界に対する批判的な視線を持っていたという漱石の鋭さである。ヨーロッパでいえば、オルテガが『大衆の反逆』の中で大衆人(マス・マン)の筆頭に専門人としての科学者を挙げていたことにも通じるものを感じる。漱石の問題意識は現代でもそのまま通用する。やはり文学者の感性は侮れない。


その3.名言

蕉雨は巴里で画家としての関港を勝ち取った後で、思いがけず空虚が押し寄せてきたのである。それを「人間の最大不幸は、其の成功を意識した瞬間から始まる」といっている。

『「世間」とは何か』阿部謹也講談社現代新書)P.211


確かに目標を達成してしまうと虚しさが残ってしまうことは経験的に理解できる(私が達成したことのある目標は大したものではないが)。何かを達成するよりも、それを目指して努力してるときが一番充実している時間なのかもしれない。蕉雨のこの言葉は含蓄に富むものだと思う。