ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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昔の死体の扱い方は?―――『大江戸死体考』を読んで

江戸時代の刑吏と死体の扱われ方についての本。
著者は氏家幹人(日本近世史家)。
平凡社新書


1.私達と死体との距離感

1.身体の展示会


江戸時代の薬屋が虫干しを兼ねて薬材を一般公開していた様子を記録した『遊歴雑記』には、現代の私たちの感覚からすると驚かされるものが展示されていた。

「人の陰茎」「人の陰嚢」「人の頭」「ミイラ」などの品々。

現代では、死体は速やかに隔離され処理されるのが当たり前で、日常生活の中で私達が死体を見る機会はそれほど多くない。死体を見ることが少ないのが当たり前のようになっているが、人間がこんなに大量に暮らしているのに、その人間の死体や体の一部がそのへんに落っこちていない方がむしろ不自然である、という趣旨の話を以前に別の本で読んだ気がする。
確か、養老孟司(解剖学者)の本だったはずの記憶だ。現代社会では「死」も「死体」も隠ぺいされる。
こんなにたくさんの人間が生きているということは、その分だけたくさんの人達が死んでいっているはずだ。人が死ねば死体が残る。しかし私達は、普段の生活で道を歩いているときに死体に出くわすことなんて、ほぼないだろう。社会システムとして死体は速やかに隔離され処理されるようになっているのだ。死体がその辺に落ちているなんて非常識だと思うのが現代を生きる私達の常識ではあるが、常識は時代によっても変化していく。


2.すぐこそにある死体


江戸時代の常識では死体は、もっと身近なものだったらしい(明治の初期も東京では身投げの水死体がよくあったそうだ)。


『経済話』でも江戸の有様が「浮死ハ江戸ニ甚多シ。海ヘ出レバ(略)」など記述されていた。


通常は発見された死体は幕府の目付に届け出ることになっていたようだが汐入の水死体は多すぎるので引き上げずに突き流してもいい、というよりも突き流すのがしかるべき処置とされていたようだ。

投身自殺であれ首吊りであれ、あるいはその他の行き倒れであれ、これほど多くの変死体の発見が報告されるとなると、幕府や藩の検死官は多忙を極めいていたと想像されます。(略)異変が生じた際に出張する役人は(略)「検死」ではなく「検使」と呼ばれていたとか。
(P.26)


死体検分や現場検証を行う役人は忙しかったようだ。理由はもちろん死体が多すぎるからだ。

あと、「検死」ではなく「検使」と呼ばれていたのは「死」を穢れたものとして、おそらく当時の言霊信仰が働いた結果なのだろうと思う。現代でも結婚式などではケーキを「切る」ではなく「入刀」などと言い変えたりしているくらいだから江戸時代であれば尚更だろう。この辺の事情は『逆説の日本史』の井沢元彦の本の方が詳しく語ってくれそうである。

3.検使マニュアル

当時、『検使階梯』というマニュアル本があったそうだ。

それによれば、死体が仰向けに倒れていた時は、たとえ身体の7割までが進行方向の村の区域に入っていたとしても頭がある方の村で処理し(検使の出張をねがいでたりその他必要な措置を講じる)、うつ伏せの場合は逆に足がある方の村が受け持つのだとか。
なぜそうなるか理由も記されていて、すなわち仰向け死体は絶命して倒れるとき前方にすべったはずであり、うつ伏せ死体は前方につんのめったはずだから、というのです。
(P.28)

マニュアル化されているということは、それだけ境にまたがって倒れている死体が多かったということだろう。それを考えると路上の変死体の数は更に多かったと想像できる。


しかし、何でもかんでもマニュアル通りに厳密に行っていたわけではないようだ。

『検使雛形集』には腰縄の掛け方について、心中に失敗した男女の傷の妨げにならないよう緩く掛けてやるのが良いと「縄を掛ける」という形だけ守っておけばいいといった感じだったそうだ。


このあたりは、法の条文がいつの間にか形骸化して、現場の慣行が実質をもつといった現代日本の在り方とあまり変わらないような印象を受ける。


2.山田浅右衛門

1.様斬(ためしぎり)

江戸時代では刀の切れ味を確かめるために「様斬(ためしぎり)」が行われていた。


基本的に処刑された罪人の死体が使われていたようだが、それだけでは”品不足”が生じていたようで、路上の行き倒れや川の水死体などを勝手に持って行って試し切りに使おうとする人もいたようで、「しかるべき手続きを踏まずに勝手に用いてはならない」という趣旨の禁令も出されていたほど”死体捜し”が過熱していた。


禁止されていたとはいえ、道端や川にいけば死体が落ちてて手に入るほど珍しいものではなかったことが窺える。


2.変化する気風

江戸時代といっても長い期間があるので戦国時代の雰囲気がまだ残る初期の頃と、太平の世を謳歌する後の頃とでは状況も違っていたようだ。

水戸黄門で有名な水戸光圀(1603~1661)も若いころ試し斬りをしたそうだが、これは同伴者に臆病者と嘲笑われたため行ったことだそうで、後に後悔してその同伴者とも絶交したという。

そして、江戸時代も17世紀半ばを過ぎると光圀のように思う武士たちが増えてきて、血なまぐさい処刑や試し斬りに携わるのを忌避する風潮が強まってくる。


3.試し斬りの専門家

試し斬りの携わることが「穢れ」として忌避されるので誰もやりたがない時代になった。そんな中から試し斬りや処刑を専業とするプロフェッショナルなるが出てくる。現在では山田浅右衛門ばかりが有名だが、最初は他にもいたらしい。


山田浅右衛門だけが一手に引き受けるようになったのは、多くの競争相手を蹴落としてきたからではなく、ライバルたちが次第に姿を消していった結果にすぎなかった。

わが身の”罪業”を感じ続けられなくなる者や、力量が足りずに務められない者などが理由でどんどん減っていき最後には山田浅右衛門しか残らなかったようだ。


4.罪の意識

その山田家も”罪業”の念からは逃れられなかったのだろうか。
三代目から俳諧を学び始めてた。理由は「斬首された罪人たちが最後に詠んだ辞世の歌や句を理解してあげなければ、切り手として恥ずべきことだと痛感してのことらしい。


5.確かな目と腕

実際に人を斬った経験を持つ武士が減ってくると刀の良し悪しを見極められる人材も少なくなる。そんな中で確かな目をもった人物には希少価値がつく。もちろん山田浅右衛門だ。

山田浅右衛門へ試し斬りや刀の鑑定を依頼する大名や旗本は多かったらしい。

実際、腕は確かなようで、もはや試し斬りなんかしないでも刀の出来や切れ味まで推し量り、殿様の所持品としてふさわしいかを見極めたようだ。


6.令外官の穢れと誉れ

山田浅右衛門は事実上、幕府の刑吏である。しかし、これは正式な役職として存在していない。代々、山田浅右衛門は形式上では浪人である。

なぜなのだろうか?

「不浄性」や二代目が屋敷や扶持をもらう「チャンスを逃した」という説もあるが、著者には別の見解があるようだ。

どちらもいま一つ説得力に欠けるのではないでしょうか。(略)真義共に充実していなければ容易に成功しない業。まして将軍家の所持品を試し斬りするとなれば、その精神的・肉体的な重圧は私たちの想像を絶するものだったのではないでしょうか。だからこそ、試し斬りの家は山田家しか残らなかったのでしょうし、(略)いずれにしろ稼業継続の確実な保証はない。そこで幕府としては、ことさら山田家を幕臣に取り立てず、浪人のまま同家の試し斬りの技術を(それが水準に達している限り)随時利用しようとしたのだと思うのです。
(P.122~P.123)


私には、上記の著者の説の方が説得力に欠けるように感じられた。
「稼業継続の確実な保証はない」ことで困るのは山田家のみならず幕府側も困ることになる。なにせ罪人が出ても処刑できる人材がいなくなるわけだから、これは統治行為に支障をきたすことを意味する。
それなら取り立てて刑吏の家系として存続させる基盤を整えてやった方がいい。その方が合理的だ。
しかし、出来なかった。なぜなら合理性を超えた価値観や信仰上の問題が横たわっていたからだ。
それはやはり「穢れ」の思想であろう。この問題は根深い。日本は江戸時代のみならず平安時代にも軍隊を廃止したことがあるし、現代でも自衛隊は(少なくとも憲法上)軍隊(戦力)ではなく実力(?)と解釈されている。穢れ(血なまぐさい事柄)に携わるものを「法の形式上」無いことにしておいて、しかし、現実問題には対処しなくてはならないから事実上その存在は確固たるものとして存続させる。法の建前と本音の乖離は過去も現在も変わっていないように思える。結論を言えば、おかしいのは現実ではなくて法なのだが。


7.穢れに携わる特権

戦国時代の雰囲気も薄れて、死穢を忌避する感覚が強くなった江戸時代には、好き好んで死体を扱おうとする者はいなくなった。それ故に罪人を処刑する職務につく山田家は、ある特権を手にしていた。それは人の胆を材料に薬を作り売る権利だ。当時、人体の一部を薬として用いる民間療法が強く信じられており、高値で取引されていたらしい。しかし、積極的に死穢に触れようとするものはいないので、山田家の独占状態となっていた。
幕府から正式な役職を与えられていない山田浅右衛門にとっては大事な収入源、生活の糧になっていたと思われる。
犯罪につながるかもしれないからという理由で、製造方法は決して外部にはもらしたりせず、家にはキモ蔵という貯蔵庫まであって、乾燥させた胆を吊って保存までしていたという。