ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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文明の向かう先は絶望なのか?―――『保守の真髄』を読んで

現代文明に対する批判の本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社現代新書




文明の紊乱(ぶんらん)

紊乱の意味

「老酔狂で語る文明の紊乱」というのが副題となっているが、まず私は紊乱(ぶんらん)という漢字が読めなかった。あと当然ながら意味も知らなかったので、それについて書いておこう。


ググったら

ぶんらん
【紊乱】
《名・ス自他》(道徳・秩序などが)乱れること。乱すこと。
(グーグル検索)

と出た。
つまり、文明の紊乱とは「文明が乱れている」ということのようだ。

著者は「序に代えて」でこう述べている。

紊乱とは「文がもつれた糸のように乱れる」状態をいう。文が明ではなく暗に近づいているのだとすれば、高度文明などという表現すらが虚しくなる。(略)これを絶望の境地といえばそう言えなくもないが、「絶望するものの数が増えることだけが希望である」(J・オルテガ)と考えるならば、これから述べ立てる紊乱論も希望の書といえなくもない。
(P.13~P.14)

文明の先行きに対して暗い見通しを立てているようだ。
文明の「明」を「暗」と言い換えることで「文暗」と表現しているのは面白いと思った。


自由貿易

かつての経済学が自由貿易を礼賛してコンパラ・アドヴァンテジ(比較優位)の説を強調していたのは、資本と労働という生産要素が国際間を移動しない場合についてのみいえることである。もう少し言うと、そういう場合には、資本の相対的に多い(少ない)国が資本を比較的に多く(少なく)使う商品の生産と輸出に傾くことによって貿易国双方がいわゆる「ウィン・ウィンの関係」を保つことができるとされてきたわけだ。しかし、資本と労働が容易に国際間を移動しうるいわゆるグローバルな時代にあってはそうはいかない。
(P.28)

現代のようなグローバルな時代では「比較優位」は成り立たない。なぜなら、それを成立させている前提条件の「資本と労働という生産要素が国際間を移動しない」が崩れているから、ということか。
TPPなんかを推進する根拠に「比較優位」を使うことは間違っているようだなと思った。


伝統

物事を選択するに当たって最初に参照すべき基準が伝統であると著者は言う。

伝統は慣習と混同されがちだが、慣習には良習も悪習もあり、何が良習で何が悪習かを仕分ける基準もまた伝統である。

まだ、よく理解できてはいないが、おそらく「慣習」というのは具体的な行為で、その良し悪しを「伝統」という抽象的な規範みたいなもので仕分けていくということだろうか。

伝統とは理想と現実のあいだのバランス感覚を国民が無自覚にせよ共有しているということにかかわっている。そいういう感覚が、歴史の流れの中で形成され来たった慣習体系のなかに、包蔵されているはずである。だが、それを具体的に表現するには、現在のシチュエーション(状況)がどのようなものであるかを、明らかにしなければならない。
(P.186)

徳義のバランス

徳義には簡単に解決できない矛盾が含まれているので、その解決のためにも伝統が必要とされるという。

著者は「ギリシアの四徳」を例に挙げて説明する。

正義のみの過剰はかならずや横暴に堕ちていく。逆に正義を掣肘するものとして思慮、それのみが過大に追及されると正義の反対としての卑劣に堕ちていく。
(略)
同じようにして、勇気ばかりを追求すると野蛮に堕ちざるをえない。反対に勇気を制限するものとしての節制にのみこだわりすぎると、勇気の反対たる臆病にはまる。
(P.39)


著者は上記の矛盾を人間の合理的判断では解決できないと考え、「伝統の英知なるものが今現在において具体的に確定されるわけではない」ことを踏まえつつ、今という状況のなかで時と所と場合に応じてその英知を具体的に判断し、決断し、実行していくのが保守思想の立場だとしている。


①人間の認識と徳義がつねに不完全である
②社会というものが人間ごときの合理では把握できないほど複雑性を帯びている。
③不合理が余程に目立たないかぎり、変化は漸進的であるべき。

と保守思想の極意をまとめている。


これらのバランスのとり方は、単に中間をとるという折衷主義でない。矛盾するものの中間をとるだけの、やり方では理想を弱め現実を軽んじるだけの半端な妥協に陥ってしまう。
おそらく、必要とされているのは矛盾を内包したまま、悩みながら議論を重ね、判断と実践を決定していく試行錯誤によって達成される平衡のことなのだろうと思われる。


自由と権”理”

福沢諭吉は「自由は不自由の際において生ず」と言ったそうだ。
自由は過剰な抑圧や、過剰な恐怖、過剰な貧困からの解放を意味する言葉である。
つまり、「○○からの自由」という消極的自由ということになる。
逆に「○○への自由」という積極的自由は放縦をもたらすことになる。
前者をリベラリズム自由主義)、後者をリベルティニズム(放縦主義)とでも分けておこうか。


また、諭吉は「ライト」を「権理」と訳した。もともとは「権利」ではなく「権理」だったらしい。

著者はその点についてこう述べいている。

ライトの元々の意味は「正しい」ということであるが、その正しさをどこからやってくるのか。人々によって切実に欲望されたり希求されたりすることが正しさの基準ではないのだ。公徳の示す道理というものがあるはずで、その理(ことわり)に反していないかぎり、人々は何をやってもよいというのが自由だ、と彼はみたのである。
(P.107)

なるほど、こちらの説明のほうが権利についても筋が通っているように納得できた。
欲望にまかせるままに権利を行使すれば、必ず他者の権利とぶつかり、どちらかの自由が抑圧されることになる。
となれば、衝突した権利同士や自由同士を調整する必要が生じる。
何によって調整するのかを考えた時、それは「公徳の示す道理」ということになるだろう。
おそらくだが、その「公徳の示す道理」とやらも伝統を「判断の基準」とするのだろうと思われる。


国際社会の問題

①国際社会において理想など、はたしてあるのか。
②国際社会にはたして秩序といえるほどのものが整っているのか。

著者は「わずかずつだがイエス」といっておきたいそうだ。

しかし、国際法は不完全であり、違反する国家があっても制裁を加える公的機関が国際社会にはほとんど存在しない。
国連決議などには実力が伴っていないし、大国の拒否権により機能障害に陥っている。実力が伴っている多国籍軍にしても、それは大国の恣意に基づくものでしかない。

国際社会の秩序には
(1)協調主義
(2)覇権主義

2つの対立がある。
前者は、国際間の政治的折衝を通じて、国際秩序を暫時的に形作っていこうとするものであり、
後者は、大国間の覇権争いが国際秩序を形成するとみる考え方である。

どちらが正しいのだろうか?
著者は2者択一を迫るのは無理筋だという。

実力を伴わない折衝は空語の積み重ねに終わり、実力のみに頼るのはかならずや弱小国の側からの(非合法のものを含めた)反発を招来するに相違ない。
(P.116)

どちらか一方を選ぶことでは上手くいきそうにもない。国際調整力と対外的実力の2つともを両立させなければならないという難問を日本も含めた世界中の国々が抱えているというのが現状ということか。国際社会はまだまだ不安定な状態が続きそうだ。


独立と協調

世間ではポピュリズムというと人気主義という意味で通っているが、元々の意味は違っていたらしい。
アメリカの中西部で大企業からの不当な搾取に苦しむ農民が立ち上がって結成したポピュリスト・パーティー(人民党)が始まりであった。だから、それはグレンジャリズム(農民主義)とも呼ばれるそうだ。
ゆえに、著者はポピュラリティ(人気)が物を言う世論状況を「ポピュ”ラ”リズム」と造語している。

そして、このポピュラリティ(人気)の作り出すムードによって世論は過剰な独立と過剰な協調の間を揺れ動く。

国家が独立の構えをもつことは当然のことであるが、そのことだけが過剰に追及されると排外主義に堕ちてしまう。

逆に、協調だけが過剰に追及されると国際主義の欺瞞へと堕ちてしまう。

国際主義は往々にして世界連邦主義の空想へと上昇したり、自らの国柄への軽視という錯誤へ下降するため、その反動でまた過剰な独立があらわれ、排外主義へと揺り戻される。

こうした主義主張の循環をポピュラリズムは繰り返してしまうのだ。


市場

経済学では市場のインフラストラクチャー(下部構造)をなす公共財が、市場の失敗をもたらすとしている。つまり、集合的消費を必要とするインフラがあると市場交換の効率性が損なわれるという。そのことに対し著者は「何という錯乱した言葉遣いであることか」と反駁する。「市場の失敗」の前に「市場の不成立」が論じられなければならないのだ。

あっさりいうとインフラがなければ市場をエスタブリッシュ(設立)することが叶わぬのである。(略)そして人々のあいだに信頼をもたらす共有の価値観などがなければ、そもそも自由な交換が、いわんや公正な取引が、順調に進むわけもない。
(略)そのことを社会学的にいえば、ゲゼルシャフト(利益調整体)の前にゲマインシャフト(規範共有体)がなければならないという論理になる。
(P.141~P.142)


まだ、よく理解できてはいないが私なりに嚙み砕いてみる。
「市場の成立」には無条件に前提としているものがあって、それがインフラや規範共有体などである。
しかし、経済学の理論モデルでは、それらを「市場の失敗」と見做したり、「市場交換の効率性を妨げるもの」として合理性の名のもとに排除しようとしている。
その結果、そもそも市場を成立させている前提条件を破壊することになる。経済学は理論モデルの構築に夢中になるあまり合理主義や設計主義に傾きすぎて、そのことに気が付いていない・・・と、ひとまず解釈しておくことにする(間違っているかもしれないけど)。


核武装

著者は核武装論者でもあり、その必要性として2つの理由を挙げる。

①日本が核武装諸国に囲まれていること。
アメリカから実質的に独立するには個別的自衛力を強めるほかない。

とくに②を重視しているようで、アメリカの武力侵攻に付き合わねばならぬ破目に陥る可能性や、そのアメリカは中国と事を構える体力も気力もない点を指摘している。

著者は単に武装強化したいのではないようで、核武装に条件を付けている。

「核による先制攻撃は絶対にしない」と憲法に明記せよということである。つまり、プリヴェンティブ・プリエムプション(予防的先制攻撃)は核については禁止せよということだ。
(P.205)


「報復核」に戦略を限定するということは、先制攻撃を受ける覚悟を必要とすることを意味する。

なお、現在の日本の防衛費がGDP1%ということに関して、西欧諸国が2%~3%であることを考えれば異常である。
著者は、「軍事費倍増の下での核武装」があるべき基本像だと主張している(この点で私も同意し、納得する)。


憲法と伝統


イギリスには成文憲法がない。それは、歴史の流れを重んじ、伝統の精神に鑑みて筋の通った議論をすれば、十分に憲法意識を貫いたと考えているからだという。憲法とは「おのれの国柄を確認すること」であり、そこには「国柄」は「作る」ものではなく「成る」ものであるという国家規範にかんする真っ当な見方が表明されていると著者は述べる。成文法としてよりも不文法として憲法はあるべきだと考えているようだ。


そして、アメリカの修正条項方式(元本と修正条項が矛盾していても歴史の行程の変遷を反映するものとして認めておこうとするやり方)には批判的だ。なぜなら、その運用においては検事や弁護士が自分に都合のいい稀な判例を見つけ出して、自己正当化のために用いている実態がある。卑劣な経験論の悪用だからだ。


一部の例外を全体であるかのように見せかけるのではなく、飽くまでも歴史の全体を見渡した上での伝統の精神を重んじるべきということだろうか。
天皇の地位を正当なものにする「国民の総意」に関しても、現在世代の国民の世論なんかではなく、歴史上の総世代を含めて「総意」と解釈するべきだという趣旨の記述もある。


普通選挙のために奔走した、チェスタトンの「死者たちには自分らの墓石を担いで投票してもらおう」という言葉を引用して世論ではなく輿論こそが投票の基礎だと主張する。つまり、死者たちの残した意思にも投票権を与えよということだ。

輿論とは国民の有する(というより死者たちの残した)常識のことだそうだ。

そして、著者はチェスタトンが、なぜ未来の子孫たちについて言及しなかったのかをこう見る。

それは、やはり、「過去のほうが未来よりも重い」、なぜなら「言葉の用法とそれに含められる意味合はかならず過去からやってくる」、そして「未来への想像力すらが過去の経験にもとづいている」からだとしか考えられない。
(P.233)

このように話されると「死者たちの残した意思にも投票権を与える」の意味も理解できたような気がする。
実際に投票するのは、紛れもなく現在を生きている私達ではあるが、現在は単に独立して「現在」としてあるのではなく、「過去から続いている現在」としてある。だから、私達は過去を無視することをしてはいけないのだ。

最期に、伝統に対する深い眼差しを感じさせる著者の言葉でこの記事を締めくくることにする。

伝統は左翼人士がいうような人間の自由にたいする拘束衣などではないことはむろんのこと、右翼がいうようにそこに座していれば安穏としておれるような岩盤でもない。それは「危機の綱渡りにおける一本のバランシング・バー(平衡棒)」のようなものなのであって、その棒自体は凡庸きわまりない代物だが、しかしそれがなければ綱から転落すること必定といった貴重な代物だとみなければならない。
(P.235)