ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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無意識はどう表れるか?―――『無意識の構造』を読んで

無意識の働きについて書かれた本。
著者は河合隼雄深層心理学者)。
中公新書




無意識は形を変えて表に出る

声が聞こえない

ある40過ぎの主婦の事例で、急に耳が聞こえなくなったため耳鼻科にいったが、器官に異常がなかったため、精神科医の診療を受けることになった人がいた。

耳が聞こえないので筆談をするわけだが、精神科医の方が声を出しながら書いていく。

彼女がだんだんと筆談の中に引き込まれてきたと感じたとき、書かずに口頭で質問すると、不思議なことにそれに応答してきた。

しかし、これは決して仮病などではないのだ。

どうやら、リラックスしてるときは聞こえるのだが、そうでないときは確かに聞こえていないのである。


何が原因なのか

少しずつ改善されていき、医者や他の音は聞こえるようになってきたが、不思議なことに彼女の夫の声はどうしても聞こえなかった。

話を進めていくうちに彼女は大変なことを思い出した。

耳が聞こえなくなる少し前に、彼女は夫が外で浮気をしていることを知人から聞かされたという事実である。

彼女によると、その時は不思議に怒りも悲しみも感じなかったそうで、むしろ、どんな男でもそのようなことはあるだろうなどと思ったという。また、離婚をしても損をするのはこっちの方だろうとも思ったらしい。

ところが、治療として話を進めていくと悲しみと怒りがこみあげてきて、絶対に離婚したいと言うようになった。

これは考えてみると、彼女が夫の浮気を知るという心の傷を受けたとき、そんなことは何でもないことだと思い、忘れてしまうほどだったにもかかわらず、その古傷の痛みによって、彼女の耳が聞こえないという症状がでてきたのではないかと思われる。
(P.5)


本当は傷ついていたけれど、その時、本人も自分では傷ついていることに気が付いていなかったということらしい。
しかし、その傷は無意識の内に残ったままで、それが「耳が聞こえない(夫の声なんか聞きたくない)」という形で表に現れたと解釈される。
そして、本人にも「耳が聞こえない」理由がなんなのかは最初は分からずに、急に出てきた症状に驚いたのだろう。


機能に異常が出る

心理的な問題が身体的な症状に転換しているという意味で、上記のような例を転換ヒステリーと呼ぶこともあるらしい。

身体的症状といっても、身体の器官には障害がなく、その機能に障害が出ている場合のことだそうだ。
ストレスによって生じる胃潰瘍などの身体器官がおかされる場合とは区別される。


言葉につまる

著者はユング派に属している心理学者であり、そのユングは「言語連想検査」を思いついた人でもある。

その方法は、あらかじめ定められた100個の単語があり、検査者は相手に対して「いまから単語を1つずつ順番に言っていくので、それを聞いて思いつく単語を1つだけ、できるだけ早く言ってもらう」というもので、相手の反応した単語とかかった時間を記録していく。

ある女性の場合、「イカリ」という語に対して「沈める」と反応したが、時間が長くかかってしまった。
その人は「錨(いかり)」に対して「沈める」と反応したのだったが、反応時間の遅れに対して自分で内省しているうちに、それが「怒りを沈める」ということにも通じており、自分はまさにそのことについて大きい問題を持っていることを発見したという。

この例では「怒り」ということが、ひとつのこだわりになっているために、連想の流れが妨害されることを示している。


言葉だけではない連結

人は感情的なこだわりをもつとき、意識の働きの円滑性が失われる。

意識の中で物事や概念を知的に分類(人間、動物、植物など)していても、強い感情的な出来事によって知的には結び付かないものを恐怖心などで結び付けてしまう場合がある。

例えば、ある人が馬にけられた恐ろしい体験をもっており、父親もこの人とって恐ろしい人であるときは、知的には結び付かない父親と馬とが恐怖という感情によって結び付いてしまう。しかも、そのよううな連結は次々と拡大されて、馬にけられたときに、馬がつながれていた松の木に、あるいは、父親と同じく髭のある先生に、とかんれんずけられる。

この連結の強度が強くなると、松の木を見るとなぜか知らないが嫌な気分になったり、先生が実は優しい人であるのに、わけもなく怖がってしまったりする。


コンプレックス

上記のように感情によって結合されている心的内容の集まりが、無意識内に形成されているとき、それを「感情によって色づけられたコンプレックス」とユングは名付けたそうだ。

ヒステリー患者の語ることは、そのままが外的な事実ではないにしても、「心の中の真実」であると考えられる。

コンプレックスは、一般に劣等感という意味で通っているが、本来はそうではなく、感情のしがらみであり複合体のことをいう。

劣等であることを劣等であると認識することは、コンプレックスとは無関係なのである。

私達はいろいろな劣等な部分をもっているが、それが劣等コンプレックスと関連しているものと、いないものがある。

例えば、語学が出来ないことは自分も認めていて、別になんとも感じていないのに、数学が出来ないということにはこだわってしまう。他人から指摘されるとイライラしてしまう。といったとき後者はコンプレックスに関係しているのである。


解釈

はきものが見つからぬので、裸足で歩いてゆこうとする夢を見た人がある。この人は、これを「よい手段が見つからぬので、無茶なことをしようとする」と考えた。しかし、これは「常識とは異なっているかもしれないが、自分の足を直接地につけて行動しようとする」とも言うことができる。このように、イメージは多義的なものである。そして、そのときにそのいずれをとるかは、そのときの状況と本人の決断にかかっているものである。
(P.42)

多義的であるから解釈もまた多様になる。ここが深層心理学のやっかいなところで、どうとでも解釈することが可能である。プロでも難しいことだから、素人なんかが簡単に出来るものではない。解釈は、何かか絶対に正しくて、何かが絶対に間違っているとは言えないということだろう。


シンボル

ユングは、象徴(シンボル)を記号や標識と区別している。

言葉やイメージはそれが明白で直接的な意味以上の何ものかを縫合しているときに、象徴なのである。

それは無意識の側面を有していて、けっして正確には定義できたり、説明できたりするものではないそうだ。


元型的イメージと元型そのもの

ユング派精神分裂症者の幻覚や妄想を研究するうちに、それらが世界中の神話や昔話などと、共通のパターンや主題を有することに気が付いた。これを元型的イメージというが、元型そのものと混同されやすいため気をつけなくてはならない。

元型そのものは「先験的に与えられている表象可能性」なのであり表象ではないのである。
(P.87)

どんな人でも統合された人格として生きているとき、そこには必ず「生きられなかった半面」が存在するはずである。それが「影」ということらしい。

そして、影には個人的影と普遍的影があるという。


アニマとアニムス

男性が、男らしいペルソナ(人格)を身に着けるとき、彼の女性的な面は無意識界に沈み、その内容がアニマ像として人格化される。

逆に、女性の場合は女らしいペルソナを身に着けるとき、男性的な面はアニムスとして無意識界に沈み、その内容がアニムス像として人格化される。


アニマもアニムスもそれぞれ影ということだと思われる。男性は自身にアニマを女性に投影し、女性は自身のアニムスを男性に投影する。

そして、世の中にはその投影を受けやすい人がいるらしい。

アニマ女性という女性が存在する。自我というものをほとんど持たないため、男性のアニマの投影をどのようなものでも引き受けやすいので、外見的には男性によく「もてる」ことになる。その自我のなさは同姓から見ると、まったくつまらないので、どうしてあれほどつまらない人が男性にもてるのかと、同性からは不思議がられる。このようなタイプの極端な人は、ただ男性のアニマの鏡となるだけで、自分本来は生きていないと言ってもよいほどなので、不思議に年をとることがない。
(P.121)

思秋期

ユングは人生の後半の重要性を強調していたようだ。

人生の前半はその人にふさわしいペルソナを形成するため、社会的地位や財産などをつくるために、エネルギーが消費される。しかし、人生の後半は内的な旅の要請、つまり死ぬことも含めた人生の全体的な意味を見出さねばらならい。このような時期に多くの人は中年の危機を迎えるという。

中年までは順調にすすんできた人が、中年になって荒れたり、失敗をしたりすることがよくある。思春期という用語と同じように、「思秋期」という用語もあっていいのではないかと思うほど、両者は似た関係にある。
(P.181)


著者は臨床の人なので、おそらく実際にそのような中年患者を診てきたのだろうと思われる。
そして、思春期にたいして思”秋”期という造語をしているのは面白いと感じた。