ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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古い概念に新しい役割を―――『思考の用語辞典』を読んで①

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。




はじめに


著者はこの本を古い概念たちのために、新しい舞台をつくりだしてやれるよう考えてみる機会を読者にあたえたいようだ。

でもドゥルーズにとってだいじだったのはそういうことじゃなかった。すでにできあがった概念に、もとの意味やまえの機能に反するようなふるまいを強いてもいい、それでもあたらしい意味と役割を演じさせたかったんだ。哲学ってなんだろうと考えるとき、だからぼくは思う。哲学のいとなみは、ふるい概念たちのために、あたらしい舞台をつくりだしてやることかもしれないと。
(P.3)


「もとの意味やまえの機能に反するようなふるまいを強いてもいい」と言ってもらえると少し気が楽になる。難しい本を読んでいるとき「正しい意味」を探そうとしたり、「間違った解釈」をしていまわないかを恐れたりすると”読む”ということに対し尻込みしてしまうので、なんだか励まされた気分だ。(自分は間違っているかもしれないということを忘れずに)自分なりの”読み”をしていくのは無意味ではないし、楽しいことだと思う。
哲学というとどうしても難しそうなイメージがあるが、「考える」ということを楽しめればいいなという気持ちで読んでいこうと思った。



アンビヴァレンス

アンビヴァレンスとは、ひとつのものに正反対の意味がそなわっていること。
これはAであり非Aでもある、といっているので排中律にも引っかかってしまう。
論理学では手に負えないが、フロイトは人間の心のプロセスとして正反対の感情が同じ対象に共存するとした。

つまり、もっともな理由のある愛情と、それにおとらず正当な増悪というアンビヴァレントな葛藤が、おなじ人間にむけられているのである。(フロイト「制止、症状、不安」)

ベイトソンはさらに展開をみせて「ダブルバインド」という、特に母子関係であらわれる概念を提示した。
例えば、母が子に「あなたはわたしを抱擁してくれない」ととがめる。子がじっさいに母を抱擁しようとすると、身体的な表現でそれをきらっていることを示す。
つまり、母の言葉のメッセージを子が無視すると、母から愛情がないと非難される。言葉のメッセージにしたがうと、今度は無意識の母親から拒否される。

Aであり、Aでないという相手と議論したいとは思わないが、だからといって「人間の心的プロセスの矛盾した在り方」を無視するわけにもいかない。

人間の錯綜した心の構造にふさわしい論理学はあるのか?
著者は「じつはまだない」という。

フロイトの「シュレーバー症例」で描かれている、人間の無意識の部分ではたらく論理は、単なる異常な論理として無視するわけにはいかない。

ドゥルーズはこう言ったそうだ。

そして自然の法則に反するなにかを感覚し、思考の法則に反するなにかを思考する。・・・思考そのものの核心に、思考できないものが存在することを否定できるだろうか。そして良識の中心に錯乱が存在することを。(ドゥルーズ『差異と反復』)


こういった「愛と憎」や「Aと非A」などは、互いに反する概念であるが、同時に互いの存在を成立させるための前提や相補的なものになっているのではないだろうかと考える。



意識

意識の語源は「ともに(cum)知る(scire)」というラテン語の動詞にある。(略)ひとつ。意識する主体は世界と「ともに」、世界にむかってひらいている(意識は事物なしにはなりたたない)。ふたつ。そして意識は、自己とは違う誰かと「ともに」なりたつ(意識は分裂せずには、そして他なるものなしにはなりたたない)。
(P.46)

意識を動詞としてとらえると「意識」という実体はまだ想定されてない。
意識は名詞としてとらえると「意識」は意識する状態として実体が想定されてくる。
それは「意識する自我」が根源にあるべきだという信念を導く。

そして現象学では、純粋な意識こそが哲学の根本にあり、すべてのものの基礎になるという。
しかし、現象学が意識だけをよりどころにするかぎり、無意識の意味は考察できない。

哲学の根拠が、ぼくたち自身の意識と思考であることはたしかだ。でも指向性としての意識は、もう哲学の最終的な場としての地位をうしなっている。ぼくたちは意識哲学の失敗の地点から考えはじめることを求められている。
(P.50)


意識というものは、そもそもまだ広く信憑性を勝ち取れるような定義をもっていないと、どこかで聞いたような気がする。だから科学の分野でも、扱うことは嫌がられていて「そんなもの研究するの」とか言われるんだとかってことを何か別の本で読んだ覚えがある。それなら、この問題については哲学に期待できるのかと思っていたら哲学でも難しい問題のようだ。


隠喩

隠喩(メタファー)は「~を越えて(メタ)運ぶ(フェレイン)」という意味からきている。
記号と似ているように思えるが、使われたときその意味を失うかどうかの違いがあるようだ。

ただ記号では、記号としてつかわれるものは意味をうしなう。たとえば駐車禁止の標識はめだたないとまずいけど、標識そのものに関心があつまると、本来の機能からずれてしまう。でも隠喩では、隠喩の<器>につかわれる記号は、その本来の意味をうしなわない。<器>そのものの意味と、それが記号的にさししめすものの意味が重層する。
(P.66)


気を付けなければならないのは隠喩でものを考えているのに、それを意識しないまま知らず知らずのうちに思考の方向性が規定されてしまう場合があることだ。
論理学や、体系的な思考、形而上学的な思考は隠喩が苦手だ。

それをよく示したのがデリダとサールの論争だそうだ。

サールは日常言語学派のオースティンの思想をつぐひとで、哲学の領域から隠喩を排除しようとした。隠喩のような表現は、日常生活のうちでも「まじめでない」もので、哲学的な考察では無視するべきだって。無責任で、真理に反するっていうことらしいんだ。
でもデリダはこれに異議をとなえる。デリダニーチェとおなじように隠喩は、哲学のシステムにはとりこめないにもかかわらず、哲学的な概念の根底にあるものじゃないかと考えるんだ。
(P.69~P.70)


つまり概念や理論が生まれてくる根っこのところに隠喩がひそんでいるということらしい。
言葉を使っている以上、隠喩から逃れることはできない。
時間などについて考えたりするときも、空間のメタファーを使わずにそれをすることは難しいだろう。


概念

「概念concept」は「一緒につかむconcipere」という動詞から派生した言葉だそうだ。
漢字の概は、升で粉などをはかるとき、あまった部分を掻き落とす棒のことで、認識という「升」に合わせて調整するということだ。

人間は様々な事物に共通するものを取り出して認識している。だから人間が事物を概念として把握するとき、それは世界をどう分節しているかが示されているというわけだ。

カントは人間の思考の共通性を生み出すものとして「悟性のアプリオリな概念」としてのカテゴリーを想定した。
それによって人間の思考は普遍的で客観的なものになると考えたようだ。

ヘーゲルは自然の事物、とくに生命体にはその概念が萌芽としてあると考えた。
この潜在的な本質のようなものを概念と考える。

ニーチェは、そのような「概念」を批判する。
どれもひとつの分化体系において、はじめてその「普遍性」を維持しているだけで、実は固有の歴史を帯びている。

デリダは、この西洋形而上学の地方性に「ロゴス中心主義」があると鋭く指摘した。
ヨーロッパの表音文字の記号体系に最高度の人間性が現れているという思想だ。

ロゴス中心主義とは、表音的なエクリチュール形而上学である。それは根本的には、歴史的な相対主義では解明できない謎めいてはいるが本質的な理由のために、このうえなく独自で強力な民族中心主義である。今日ではこれが地球全体におしつけられているのである。(デリダ『グラマトロジーについて』)

私達が西洋哲学の概念でものを考え始めたとたん、ニーチェがいったような意味での「体系」と「文法」の枠組みに書き込まれ、その枠組みでしか考えられなくなる。

それぞれの歴史や風土によって形成された知の体系という枠組みを持つと、その枠組みに沿ってしか考えられなくなるというのは言語相対性仮説(サピア=ウォーフ仮説)に似ているように感じられた。
意識的にであれ無意識的にであれ、<知の体系=世界の分節様式>というものを背負っている主体が属している固有の文化からは自由ではありえないのだろう。例えば、いま私がこうやって日本語で考えているということも含めて。