ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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現代文明社会で子供はどう育つ?―――『絵になる子育てなんかない』を読んで

現代文明社会の中での子育てについて考えている本。
著者は養老孟司(解剖学者)と小島慶子ラジオパーソナリティ)。
幻冬舎
2011年第1刷。



「子育て」はコントロールできない

母親は子供が生まれた途端、これからは常に「正解」を選び続け、一歩も間違えてはいけないというプレッシャーにさらされる。
どうしてこんなに苦しい子育てになってしまうのだろうか?
それは「意識」で、ああしよう、こうしようと考えるからだという。
私達ホモ・サピエンスが誕生したのは約25万年前で、「意識」ができたのもちょうどそのころらしい。
それに対し(意識することなく)動物として子育てがはじまったのは1億年前~6千万年前ほどだと著者は見ている。
つまり、少なくとも6千万年以上やっている「子育て」をたかが25万年前にできた「意識」でどうにかコントロールしようというのが無理な話だそうだ。



胎児は母親の身体の一部なのか

著者の1人である小島は2人目の子を産んだときパニックに陥り不安障害という精神疾患を患ったという。
自分が親になることで無意識の内に親との関係をもう1回追体験するそうで、小島の場合、母に対する抑圧されていた感情が表出しパニック発作を引き起こされたようだ。
女の子の場合、母と娘が似ているところが困った点で、小島も母から「母と娘は地続きだ」と言われ続けていたことが実は苦痛であったという。

小島は働きながら子供を持ってみて、日本では子供は親の私有財産あつかいだと気づいたそうだ。
「子供が病気なので会社を休みます」は、お前の持ち物の不都合で会社を休むとはどういうことだ、という考え方がまかり通っているという。

小島:(略)企業の理屈に合わないということなのか、とにかくすべて個人のわがままということになってしまうんです。


養老:この問題も奥が深いですよ。たしかに日本では子供は母親の一部なんです。それは中絶問題を考えたらわかります。鎌倉の長谷寺の階段を上がっていくと踊り場のようなところがあって、そこは一面、水子地蔵だらけです。そこに外国人を連れていって時増の説明をすると、みなショックを受けて10分以上黙り込んでしまいます。キリスト教圏でもイスラム教圏でもあれだけ問題になる人工中絶が、日本では一切問題になっていない。なぜ倫理問題にならないのか。
(略)要するに、日本では胎児は母親の身体の一部なんです。だから、自分の身体をどうしようが自分の勝手だろうという考えが根底にあるんですよ。しかも胎児だけでなく、生まれた子供も母親の一部なんですね。だから母子心中はアメリカでは普通の殺人より重い罪になりますが、日本では悲劇として涙を誘います。こういう特殊な日本の社会の構造を指摘したのが歴史家の故・阿部謹也さんでした。
(P.28)


子と母と日本社会をめぐる問題は、そう単純なものではないようだ。
日本の歴史を通して形作られてきた私達の価値観や行動規範に深く根差すことによって、構造化されたものとなっている。



親と子は見ているものが違う

同じ家で一緒に生活をしているからといって、親と子が同じ環境にあるかというと、それは違うという。
四六時中いっしょにいたとしても、親は子供の顔を見ているし、子は親の顔をみている。つまり、見ているものが違うのだ。
そして、違うものを見ていることに気が付かないのはテレビの影響があると主張している。
カメラが撮っている映像を全視聴者がみているという、いわば目を共有している異常な状態ともいえる。
それ故に、「どうして私が良いというものをあなたは良いと思わないの」「同じものを見ているのだから分かっているはずでしょ」という間違いや勘違いが起こってしまうというのだ。
同じ目で同じ世界をみているなんて、現実にはなく、テレビでしかありえない。
そのような影響を受けて、「親子は同じ家にいるのだから同じ環境にいるんだ」と錯覚してしまうのだという。



自分を追い詰める母達

小島:もう1つ、テレビが引き起こす間違いとして、「絵になるものに価値がある」という刷り込みがあると思います。子育ても「絵になる子育て」を目指すお母さんがとても多いんです。
テレビに映し出されるのは、ステキに着飾ったきれいなお母さんとかわいい子供が仲良くご飯を食べていて、叱るときも理性的に叱って、子どもも聞き分けがよろしいという絵。これを子育ての正解だと思ってしまう。
(略)「幸せな子育て」という正解の絵から自分の子供がズレているのは、自分がダメだからだと思い込んでしまう。
(略)本当にそんな絵になる子育てなんてどこかに存在するのだろうか。いや、ないのではないか。ないものに縛られ、苦しめられているなんて、バカみたいだ。・・・・・・と、私は、思ったんです。


養老:よくわかっているじゃないですか(笑)。
(P.35~P.36)

子育ての「正解」がきっとどこかにあるはずだ。そこに到達していない自分はダメなんだ。という考え方が間違っているということだろう。「正解」など初めからどこにもない。まずはそれを認めることが必要になってくるのだと思う。



コントロールできなくても、正解がなくても

コントロールができないことや、正解がないからといって野放しにすればいいというわけではない。
制御できない<子供=自然>には「手入れ」が必要なのだ。

養老は「日本人本来の自然に対する姿勢は自然との折り合い」だという。

相手が自分で作ったものではないことを認めたうえで、できるだけ自分の意に沿うように「手入れ」をする。

その例として、田んぼのある里山風景は設計図通りに作ったものではなく、なるべく良い米がとれるよう長い時間をかけて手を入れてきたもの。
相手は自然だから予定通り、思い通りにはいかないながらも努力・辛抱・根性で手を入れ続けたら、いつの間にかあの美しい風景になっていた、と述べる。
いつイナゴが発生するか分からない、雑草も生える、畦も壊れる、何かが起こるたびに手を入れてやらなければならない。

子育ても同じで、親はまず相手が自然であることを認めて、毎日ガミガミ言いながらも手入れをし、しょっちゅう見ていなければいけない。「ああすれば、こうなる」が成り立たないから努力・辛抱・根性が要るという。

そのことで、長男・次男と向き合ってきた小島は「手入れ」について、あっと思うことがあったという。
長男へ「人に話しかけるときは相手の様子を見て大丈夫か確認するように」と言い聞かせていたという。
8年間のあいだに通算2万回は言って聞かせてるんじゃないかというくらいだそうだ。

小島:ところが先日、いつものように「ねえ、ママ」と言いかけたと思ったら「違った、違った。相手の様子を見てからだ」と言葉を引っ込めた。おおっ、ついにできるようになったなと、胸がうち震えました。(略)そうか、「手入れ」とはこれか。手を入れていけば、子供はその子供なりのタイミングで結果を出すんだとわかった瞬間でした。(略)地味な単調な作業の繰り返しのなかで、子供が勝手に育っていくんだと思い知らされました。


養老:ね、だから自分のためになるんですよ。


小島:自分のためになる?


養老:手入れをやっていると、努力・辛抱・根性がひとりでに親自身の身につく。どれも身につけようと思って付けられるものではないでしょ。手入れができるということは大人になること、成熟することなんです。
(P.40~P.41)

地味で単調な作業の繰り返しによって、親と子の双方が身につけられるものがあるということのようだ。
正しい答えな無い中でも、努力・辛抱・根性を伴った試行錯誤が実を結んだということか。


子供との距離

養老:子育てが苦しいという人は、子供との距離がなくなってしまっているんですよ。


小島:そうですね。子供のためを思ってと言いながら、実は親が自分の人生において充足しなかった部分を子供の人生で補完するような子育ての構造がよく見受けられます。


養老:(略)まあ、しょうがないとしか言いようがない。
(P.42)

養老:そうです。昔はそれがどうやって解消されたかというと、「大家族」だと思うんです。家族が大勢いると、無責任な叔父さんというのが必ずいて、適当に悪いことを教えてくれていた(笑)。


小島:「お母さんはああ言っているけどさ」って。


養老:そうそう、それが大事だったんだと思うんです。(略)
(P.43)

これは、「無責任な叔父さん」だけに限らず、「親以外の誰か」との関係によって、親だけが全て、子だけが全てとはならないようにする効果があったということだろう。
例えば、昔は兄弟の数も多く、近所付き合いも親密だったので人間関係が「親ー子」だけに限定されず多様であった。そのため、愛憎も分散されており、誰かとの関係の1つが良くなくても思いつめる必要はなかった。
それに、大きい兄や姉が、小さい弟や妹の面倒を見たり、遊び相手になったりすることで親の負担も減っていた側面はあると思われる。
親のエネルギーが1人の子供だけに集中したり、子のエネルギーが親だけに集中したりするような関係だと、その「親ー子」関係が悪いものになったとたんに生活の全てが逃げ場のない暗いものに感じられてしまうことになる。
親と子の距離をとれる環境が必要になるわけだ。

しかし、核家族化や少子化そして都市化が進んでしまった現代社会で、そのような機能を担ってくれるものがあるだろうか。
今更、大家族を復活させたり、近所付き合いの濃密なコミュニティを形成していくのは難しいように思われる。
現代文明社会と子育てのミスマッチは簡単には解決しそうにない。



リスクを引き受ける

子育てに限らず、生きていくことにはリスクはつきものだ。
情報を出す側は確実で正確な情報を出すべきであるという要求は当然ではあるが、受け手の側には、その情報が自分にとって望ましい「正解」であってほしいという要求もある。それによって自分の生活からあらゆるリスクは取り除かれるべきであるというふうに。

小島:そこには「正解」を他人に決めてもらって楽になりたいという気持ちがあるように思うんです。正確な情報のなかから何を「正解」とするかは自分が決めるしかないのに、自分ではリスクを引き受けない。
(P.59)

これは鋭い指摘だと思った。
現代社会では何でも「予測と制御」が可能であるべきだという意識中心主義の管理社会となっているため、(私を含めた)誰もがリスクを引き受けることを避ける傾向がある。
「正解」が分からない時代において、それにもかかわらず自分で決断する覚悟は必要なものだと思う。
子育てでも、それ以外のことでもリスクは引き受けるしかない。



誰も褒めてくれない

小島:私の世代のお母さんたちには、自分はおしゃれにも手を抜かず、子供の教育にも夫にもベストを尽くしているのに、子供の成績は思ったほど伸びないし、夫も姑も褒めてくれない。「どうして誰も分かってくれないの!」という不満が渦巻いているんです。これは単なるわがままんでしょうか。


養老:いや、見当が外れているだけですよ。見当はずれの努力をする人はいっぱいいますよ。
私だってそうです。(略)
(P.67)


この見当はずれの努力が子供に向いてしまうと、子供は迷惑してしまう。

養老:子供の行く末をきっちりと決めたがる人は、己の人生を揺さぶられた経験がないんでしょう。(略)


小島:よく早期教育に熱心なお母さんは、「子供は何も判断できませんから、親がきちんと判断していい環境を与えてやらないと子供のときの選択が、その後の人生を左右しかねないので、私は責任を持ってそれをやっています」という言い方をします。(略)


養老:いや、子供はよく分かっていますよ。表現できないだけなんですよ。
(P.68~P.69)

子供は考えていないわけではなく、うまく言えないだけで親はそのことも知っておかなくてはいけない。
大人が勝手に、子供は何も考えていないだろうと判断してしまいがちだということは心に留めておきたい。


自分が肉体だということ

小島:私は子供を産んでようやく、自分が肉体だということに気が付きました(笑)。


養老:女の人は幸せなのは、それがあるからですよ。男はそこを体験できないから、抽象的に、バカになるんです。


小島:子供を産めないんだったら体を動かせということですね。
(P.91)

<内なる自然=肉体>ということは大人(特に男)が忘れてしまいがちなことである。
養老は体育(スポーツではない)の必要性を強調しながら「教育論というのは、みんな子供の話だと思っているけれど、結局つまるところ、親自身の話なんですよ。」と述べている。


子供は多い方がいい

人は親になった瞬間に子供にとっての「世界」になってしまう。
親は子を支配してしまうことから逃れられない。1対1だと完全に支配できてしまう。
だから、子供は複数いたほうが、親にとっても子供にとっても安全だという。
複数いれば完全にコントロールしようなんて思わなくなるから。



完璧な人はいない

子供に対しヒステリックに罵声を浴びせたり、手を上げてしまったことが表にでたら母親失格の烙印を捺されて、もう生きてはいけないと思い込んでる親達もいるだろう。
そんな悩みを口にすることもできず子育て上手を演じ続けるのは親にとっても子にとっても不幸なことだ。
だから、子育てをするにあたっては自分の野蛮な面や合理的でない面を当たり前だということを認めていた方が良い。
自覚がある方が酷い虐待の防止にはなるはずだ。

小島:(略)以前住んでたマンションに、(略)まったく隙のないお母さんがいました。(略)
ところがある日、彼女が子供を怒鳴る声がうちまで聞こえてきた。「私をなんだと思ってるのよ!」とかなり感情的になっていました。
このとき、私は安心したんです。窓が開いていたから。隙のない人だったけれど、子供を怒鳴り散らしているのを隠さなかったことに安心したんです。
でもきっと隠している人もいるはずで、(略)そのほうがはるかに怖い。だからみなさんも、子供を怒鳴るとき、窓を開けたままにしてほしい。


養老:僕の姉貴がおふくろと大喧嘩をして、包丁を持っておふくろを追いかけたことがあった。


小島:ええ~!


養老:(略)こんなの、昔は不思議な風景ではないですよ。


小島:母親は、自分が不完全だということを知っていていいし、不完全であることを隠す必要もないんですね。


養老:当り前じゃないですか、そんなこと(笑)。
(P.152~P.153)