ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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価値・還元・換喩・狂気・空間―――『思考の用語辞典』を読んで②

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



価値

価値とは何か?と問われたときに、どのように答えればいいだろうか。
価値というような根本概念を説明するために「価値」という語を使う羽目に陥ってしまう。
他にも「真理」や「善」を説明しようとすると、どこかで「真なるもの」や「善きもの」についての了解を前提としなくてはならない。
このような概念は互いに循環的な性質や自己言及的な性格をそなえている。

価値(value)はラテン語valorで、これは動詞valereからきている。価するという意味のほかに「能力がある」とか「意味する」という意味をもっている。このような価値という語には「本源的な力」とか「妥当する」という二重の意味があるようだ。

価値という語の二義性についてはプラトンの『クラテュロス』で「言葉そのものに価値があるのか、それともただの記号にすぎないのか」ということが語られていた。そこでは明確な答えはでなかったけれど、ずっと後になってからはっきりと説明を示したのがソシュールだ。

その答えとは「言葉は他の言葉との間の差異の関係のうちだけで意味をもつ」だ。これを「価値」という概念で示した。
その語の価値は、そこ語自体に備わっているのではなくて、ある言語体系の中での関係性によって発生するものだそうだ。
ソシュールは価値を体系とその要素の関係としてとらえた。
価値は実体的に存在するものでも、何かに還元できるものでもないのだ。



還元

還元、リダクション(reduction)は「連れ戻す・ある状態に変える」というラテン語の動詞reducereからきた言葉である。
reの「もどす」には2つの意味がある。
①変化するまえに戻す、元に戻すという意味。
②形作られるよりも前に戻す、要素の段階にまで戻すという意味。

①は削り落とすという還元で、長所はそれまで見えていなかったものが見えるという点だ。
短所は、下刷り落とした部分が見えなくなってしまうという点になる。
例えば、ヒトは人間である前に動物でもある。そこから社会性を削り落としてヒトを見てみると人間に備わっていた社会性によって隠されていたものが見えてくる。だけど、欠点として削り落とされた社会性を見失ってしまう。

②は構成要素にまで分解するという還元で、長所は明晰で厳密な知識が得られる点だ。
短所は、構成要素にまで分解してしまうと元のものとは違う状態になり、全体性を失ってしまうという点になる。
こちらの方の還元は科学の分野でよく行われる。

哲学でよく使われる還元は①の「削り落とす」方だ。

哲学として還元という操作を一番深く追求したのはフッサールだと思われる。
彼は「現象学的還元」と「超越論的還元」の2つを提起した。

でもフッサールがこの操作をわざわざ「還元」とよんだのはなぜなんだろう?世界観の根底には、ある純粋な認識機構が存在しているはずだとかれが考えいたからだろう。還元という操作によって社会的な差異を超越し、すべての人に共通な純粋な認識機構を、意識の「核」としてとりだせるという信念。
(P.128)

意識は還元できるものだとう前提や信念があり、それを踏まえた上で2つの還元的操作を提起したということらしい。

現象学的還元」は人間が世界を認識するときに、それまで素朴に前提されていた世界への見方や世界観などを排除することだ。何かを認識するときに当たり前とされているものを「削り落とす」というわけだ。

「超越論的還元」は現象学的還元をしてもまだ残っている心理的な自我としての要素を更に還元して世界を構成する超越論的な主観性をとりだすものだそうだ。

ただこの還元という手続きには、還元のあとでなにかのこるものがあるという考えをひきだしやすいという問題がある。『イデーン』第1巻の頃のフッサール自身、還元のあとで純粋な自我がのこり、これが超越論的な自我として、現象学を遂行する根拠になると考えていた。こういうものを想定してしまいがちなところに、還元という手続きの落とし穴がある。
(P.130)

この点を指摘したのが晩年のメルロ=ポンティだったそうだ。
還元を行う際にどうしても切り離せないものがあったり、還元そのものの可能性を提供するものがあるのではないかと考えたらしい。それは人間の了解そのものの土台になる「野生」的な領域で、言語的なものだそうだ。

人間の間主観的な領域である「ことば」を十分に考慮に入れず、主体と他者を結ぶ言語の役割を無視して純粋な意識の「核」のようなものがとりだせると思うこと自体に無理があると考えられる。



換喩

換喩は「近いものに置き換える、すりかえの例え」だといえる。
例えば、「やかんが沸く」などと言うとき、実際に沸いているのは水だが私達は普段の生活の中で自然にそういう言い方をしている。

こういうすり替えは論理学にはなじまない。なぜならやかんは沸かないのだから。

とはいえ、そもそも人間の判断の根底には比喩の働きがあるのかもしれない。
ニーチェがいうように、総合的判断は人間の経験的な認識そのものだから、私達の認識は根本的に換喩と誤謬推理でなりたっているようだ。

「これは樹である」といったとき、概念と事物の換喩を行ったことになる。なぜなら樹は人間の認識における1つの分節方法であって、自然のありようと同一だという保証はないからだ。

認識において、言語よりまえに比喩や象徴がはたらいているということをカッシーラーも『シンボル形式の哲学』でいっていたそうだ。

フロイトは精神病の置き換えパターンを分類していたようだ。
ヒステリーは連合による置き換え。
強迫神経症は概念的な類似性による置き換え。
パラノイアは因果関係による置き換え。

ヤコブソンはソシュールの統合と連合の区別に基づいて、統合は換喩のはたらきであり、連合は隠喩のはたらきであるとした。
そうすると人間の語る文は、隠喩によってささえられた言語の豊かな世界の中を、換喩による置き換えの力で進むといえるだろう。

ラカンフロイトの洞察を引き継ぎながら欲望論を展開し、置き換えは換喩によって行われ、圧縮が隠喩によって行われると考えた。
しかし、ラカンフロイトのように換喩が単に意識の検閲をごまかすためのメカニズムとは考えない。この換喩をつくりだすのは欲望の力だと考える。主体はみしらぬ欲望の力に動かされ、正体がわからないものを欲望し、そのものに到達しようとする。でも主体の欲望の対象がないために換喩に頼らざるをえないのだ。


狂気

かつて狂気は神聖なものであったそうだ。少なくともプラトンの時代には両義的なものだったようだ。
プラトンにとって詩人とは一種の狂気によって神と交流する通路をもった存在だったらしい。
狂者のふるまいは、中世までだと、ある社会においては予言者や集団のリーダーの素質とみられることがあったようだ。
しかし、近代に入ると理性が良いものとして尊ばれる一方で、狂気は悪いものとしてその地位を落としていった。

フーコーは、狂気が文化的な現象であり、その社会の歴史と伝統によって何が狂気で何が狂気でないのかが決まると考えた。
近代西洋哲学では理性的でないものを排除することによって、狂気は理性の他者として「心理学的な地位」を得たという。
フーコーの視点からは西洋哲学において普遍的なものだと考えられてきた絶対的な理性のようなものが無いということや、それがある歴史性のもとで、ひとつの地方的区分の結果として生まれたものだったということを明らかにした。

フーコーとは違う視点からバタイユこう考える。
理性が思考するためには、自分の外部に排除せざるをえないものがある。でもそれを狂気と考えることはできないと。
狂気は理性そのものに棲みついているのかもしれない。

フロイトは誰もが、ある程度は精神疾患と倒錯をかかえているという。
しかし、フロイトは「なぜ狂気が発生するのか」と考えるのではなく、逆に「なぜ私達は狂者にならないのか」と考えた。

ドゥルーズフロイトを引き継ぎつつも批判する。
精神分析の理論は主体の欲望を吸い上げ、社会的な秩序へと収斂させてしまうと。



空間

現代で空間というと抽象的で均質な科学的空間を考えてしまうが、実は、この空間概念はかなり新しい考え方らしい。

原子論を提示したデモクリトスは、空間を原子運動が可能になるための条件として「空虚」を考えていたようだ。

プラトンの空間は、事物を存在させる母胎のようなものとして想像していた。『ティマイオス』ではイデアに基づいて物質を作り出す場が必要だとしていた。この場が「コーラ」と呼ばれるプラトンの考えた空間だという。

カントは空間を人間が外部の事物を認識するために必要な条件だといっている。そして、空間と時間はすべて経験にさきだち、人間の経験そのものを可能にするという意味でアプリオリなものと呼んだ。

ベルグソンによると空間で物質を認識する運動は、概念でものを考える運動と同じで、人間が言語をつかって抽象的に判断できることが、空間において物質を把握し、物質において空間を認識するための条件だという。
そして、空間や概念の認識よりもっと手前に、もっといきいきとした生そのものみたいなものを純粋持続と呼んだ。

メルロ=ポンティは、この純粋な持続を身体の比喩で考えた。
認識の手前に人々の認識の<地>になるような共通の媒体みたいなものがあると想定し、これを世界の<肉>と呼んだ。これは、さまざまな個人を貫いて存在する<大きな身体>みたいなものとして想定されている。