ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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宗教のアウトラインとキリスト教―――『日本人のための宗教原論』を読んで①

宗教学的な視点からキリスト教イスラム教、仏教などを中心に分析した本。
著者は小室直樹(法学博士)。
徳間書店
2000年第1刷。



宗教の定義

宗教を定義することは、実はものすごく難しい。
この本では、マックス・ウェーバーの説をとっている。
その説では、宗教を「エトス(Ethos)」としている。簡単に訳すと「行動様式」つまり行動パターンである。
人間の行動を意識的にであれ無意識的にであれ突き動かしているもののことだそうだ。

アウトライン

啓典宗教と非啓典宗教

宗教は大きく分けると「啓典宗教」と「非啓典宗教」がある。
「啓典」とは最高の教典のことである。
イスラム教における『コーラン』、キリスト教における『福音書』、ユダヤ教における『トーラー』などがそれだ。

この意味での啓典は仏教にも儒教にも、ヒンドゥー教にも、道教にも法教にも、ゾロアスター教にもマニ教などにもない。

啓典宗教は存在論オントロジー)に貫かれているのが特徴で、キリスト教イスラム教、ユダヤ教においては神の存在が最大の問題である。

さらに、啓典宗教には教義(ドグマ)という絶対に従わなくてはならないものがある。
そして、神は絶対であるからドグマや神が「そうしろ」と命令すれば異教徒の殺戮などの<狂信>が発生する。

個人救済と集団救済

例を挙げると

個人救済→キリスト教イスラム教、仏教など。

集団救済→ユダヤ教儒教など。

旧約聖書』で神が救うのはユダヤ民族全体であって、個々の人間を救済しない。
儒教でも徳のある君主が良い政治を行えば経済も文化も人心も良くなり、作物もよく育つ。しかし、個人の救済はしない(孔子の高弟である顔回が象徴的な例)。


天国と地獄

キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教儒教、このなかでいわゆる天国と地獄がある宗教をすべて挙げよ。
答えは出ましたか?
正解は、天国と地獄があるのはイスラム教だけである。
(P.60)

どの宗教にも天国と地獄はありそうなものだが、何とイスラム教にしかないそうである。
キリスト教の文学作品には出てくるが、キリスト教自体が説いたものではないようだ。
神の国」も天国ではなく、この世がそのまま神の国になるのだそうだ。

仏教の場合だと、地獄や極楽も含めてすべてが仮説であり、例え話として伝播したものがイメージとして独り歩きした部分もあるという。


終末論

仏教では、罪がある限り人は輪廻を繰り返す。悟りを開いた人だけが涅槃に入り、もはや輪廻しないのだ。だから生まれ変わることもない。

キリスト教では、救われない人は「神の国」に入れず消滅してしまう。救われた人は永遠の命を得る。

仏教とキリスト教ではまったくの反対である。
キリスト教においては永遠の死とは最大の罰であるのに、仏教においては永遠の死が最大の祝福の状態となる。


規範の一致

イスラム教は「宗教の戒律」と「社会の規範」と「国家の法律」が全く一致する。
そのため、宗教学的に宗教の事を理解しようとすると1番よい見本となると筆者はいう。



神の命令のみに生きるキリスト教

まず神がある

キリスト教とは、まず神があり、その神の教えが法である。
それに対し仏教は釈迦の教えではなく、まず法(ダルマ)があり、それを発見し広めたのが釈迦である。

いわば、キリスト教は「神前法後」であり、仏教は「法前仏後」である。


原罪

アダムとイブが神の命令に背き、禁断の木の実を食べた罰として楽園から追放され労働せねばならなくなり、永遠の命を否定され土に還ることになった。その子孫である全人類まで連帯責任を負っている。

パウロの説では「キリストは、その罪を全汁いに代わって一身に負うために降臨した」となっている。

そこで疑問が2つ出てくる。

①キリストは、なぜ他人の罪まで負うことができるのか?
②罪が赦されたとすれば、人類は死ななくなるのではないか?


①に関しては、救世主の贖罪死によって、無条件、無限な愛(アガペー)が発動されて原罪が赦された。
これは第2イザヤの「苦難の僕(しもべ)」に基礎を置くものだという。


②に関しては、人の死は仮の姿であり、肉体は朽ち果てるが最後の審判のときに神が完全な肉体をくださるということだ。
最後の審判で有罪が下ると永遠の死となる。これが「本当の死」だ。


予定説

予定説とは、誰が救済され誰が救済されないかは、もう決まっているというものだ。
これは人間の論理でみると、理不尽にも見える。なぜなら、今からどんなに善い行いをしようとも悪い行いをしようとも、救済されるかどうかに影響を与えないからだ。もう誰が救済されるかは決まっている。

これを理解するのはキリスト教徒でも難しいらしい。
理解のためのポイントとなるのは、予定説では「人間の意志の自由を認めない」というところだ。

5世紀の初め、ペラギウスが意志の自由を主張し、アウグスティヌスと論争になった。
結局ペラギウスは弾劾され、神の意志のみを絶対視するキリスト教では人間に自由な意志を認めないのだ。
つまり、善い行いをする者も悪い行いをする者も、神を信じる者も、信じない者も、本人の自由な意志でそうしているのではなく、神が予めそのように決めていたという理屈らしい。



神義論

神義論とは、神が義であることを証明する理論。神の義(ただ)しさを弁証する方法という意味だそうだ。
ウェーバーは神義論を完全に解決したのはヒンドゥー教キリスト教であるといった。

善人が辛苦にまみれた人生を歩んでいたり、悪人が安逸をむさぼっているような現実についてもこう答える。

恩恵を与えて救済するか、恩恵をあたえないで救わないかは、神の自由な選択による。神に選ばれるか選ばれないかは、人間には少しの関係もなく、如何ともすることは不可能なのである。というこの予定説によれば、義人の苦難も悪人の栄えも、神がかくのごとく決めたもうたと説明できるので、神義論として完璧なのだ。
(P.110)

神の意志は、人間ごときの倫理観や論理では推し量ることができないということだろうか。
理屈として筋は通っていても心情として納得するのは確かに難しいものがあると思う。


キリスト教に戒律はない

福音書』に記された神の命令は、すべて人間の心の持ち方、考え方、心構え、良心に対する命令であって、外面的行動に関する命令はない。

外面的行動であれば規範を守ったか守ってないかが客観的に分かるが、内面的規範は守ったか守ってないかがはっきりしない。
神を信ずるということについても「心でただ信ずる」ということであって外面的行動で判別は出来ないのだ。
この点が、同じ啓典宗教でもイスラム教やユダヤ教とは異なっている。

ユダヤ教でもイスラム教でも信仰は重要だが「信仰だけ」ではなく外面的行動によってその戒律を守らなければならない。
仏教でも釈迦が定めた「戒」と、僧伽(サンガ)の「律」を守る必要がある。


ユダヤ教の一派から独立した宗教へ

ユダヤ人から見ると、イエスの律法遵守の仕方は正しくない。律法遵守の解釈は「タルムード」に拠らなければならないが、イエスはそれを尊重していない。

パウロは、律法を正しく守ったからといって神の前に正しい者とされることはないと律法遵守を否定した。というよりも人間はいくら努力しても律法を守ることは出来ない。正しい人は1人もいないと言ったのだ。

人々はみな正道を離れて、腐敗・堕落に身を任せている。善をなす者はいない、ひとりもいない。
(「ローマ人への手紙」第3章 12)

誰も神の前に正しい者とされることはなく、律法はただ、人々の心に罪の自覚を起こさせるにすぎない。
福音書』は、ここまではっきりと書いているわけではないが、この趣旨を分かりやすく意識的に明言したのがパウロである。

このことでキリスト教は、ユダヤ教の一派ではなく、はっきりと独立した1つの宗教となった。
ユダヤ教の異端ではなく、異教となったのだ。



宗教改革は原点回帰だった

中世カトリック教会ではおかしなことに信者たちに聖書を読ませていなかった。
他の啓典宗教である、イスラム教は物心つくかつかないかの頃から真っ先に『コーラン』を読ませ暗記させる。
ユダヤ教でも子供の教育の最重点は『トーラー』を読ませ暗記させることにある。

1つ目の理由は、各国語訳が大分おくれて、その成立はプロテスタントによってなされるまで待たなければならなかったことである。

2つ目の理由は、中世ヨーロッパの民の識字率はきわめて低く、10%にも満たなかったという説や2%以下だったという説まであるという。
それに対し、11世紀のサラセン諸国では、識字率は100%に近く、ギリシア語を解する人までザラにいたそうだ。

このような理由で聖書が読まれていなかった為、多くの人が正しい教えを知らないままだった。
多くの人々が正しい教えを知らないのをいいことに、カトリック教会は自分たちの都合のいいことばかりを民に吹き込んでキリスト教は曲がっていった。

免罪符に憤慨したルターが宗教改革を行ったのは間違いないが、カトリック教会の腐敗はそれよりももっと早くから始まっていたのだ。

ルターの功績は、むしろ予定説への回帰を促したことだろう。
アウグスティヌス派の修道士として徹底的に戒律を守り修行に専念してきたマルティン・ルターは、ついに、修行や善行の積み上げのような行動によって救済に至ることは不可能であるとの真理に到達した。
人間に自由な意志はないのだから善行を行うことはできない。もし行うとすれば、それはすべて神の恵みのおかげである。

キリスト教が近代文明を作った

キリスト教宗教改革で本来の姿に返り、ヨーロッパに広がった。これが近代資本主義、近代デモクラシーの精神の基礎として動き始める。

契約

キリスト教の契約は絶対神と人間の契約であるから、現在使われている「契約」とは意味が異なる。
これは一方的に降りてくる命令のようなもので、いわばタテの契約である。
これを人間同士の対等なヨコの契約に転換することによって近代デモクラシー(社会契約)や近代資本主義(売買契約)が発生していくことになる。

契約は文面だけが問題であって、社会関係(身分の上下、力の大小、仲の良し悪し・・・)によって解釈が変わる約束とは異なるものである。

労働

修道院のテーマは「祈り、かつ働け」であった。
パウロが、この行動的禁欲(大事なことをするために他の事を断念して全身全霊で打ち込むこと)を最高の義務としたことで労働と救済が結び付き、目的合理的な考えを発芽させる契機ともなった。

そして、修道院にあった上記の厳しい規範が世俗にも適用されるようになる。
それを象徴するのがベルーフ(beruf)という言葉だ。
現在では「職業」と訳されるが、宗教的な直訳だと召命(神から与えられた使命、天職)という意味だ。
神が使命として与えた職業義務の思想である。

このことによって行動様式(エトス)が変わった。
経済活動は利己的動機ではなく、神と隣人とを愛するための方法であると信じられるようになったのだ。




キリスト教によって資本主義の精神が発芽したのだった。