ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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仏教、イスラム教、儒教―――『日本人のための宗教原論』を読んで②

宗教学的な視点からキリスト教イスラム教、仏教などを中心に分析した本。
著者は小室直樹(法学博士)。
徳間書店
2000年第1刷。



仏教

実体はない

仏教とはブッダ(悟りを開いた者)の教えではない。
法(ダルマ)という道徳法則のようなものだけがあり、これを悟った者が仏となる。
仏教の場合はすべては空である、実体を考えてはいけない。
魂もなければ、地獄も極楽もない。

死んだあと肉体は亡んでも、何か滅びないものが残っている。心のどこかにあるこの希望が霊肉二元論の背景となっている。
バラモン教ヒンドゥー教では、肉体が死んでも、その根底にあるアートマン(本来の自我)という実体を想定した。
このアートマンという実体が生まれ変わり、実在し続けるというのが輪廻転生の思想だ。
仏教は輪廻転生の思想を受け継ぎながらも、その主体であるアートマンは否定した。
魂を否定するというのは「魂」という実体が存在することを否定しているという意味である。


仏教哲学の解説書

難解無比な仏教哲学の手ごろな解説書として著者は三島由紀夫の『豊饒の海』4部作を挙げる。

松枝清顕(第1巻)→飯沼勲(第2巻)→ジン・ジャン(第3巻)→安永透(第4巻)と生まれ変わっていくのだが最後に大どんでん返しがある。
4人を観察していた本多繁邦は、清顕のかつての恋人の綾倉聡子を訪ねると、こう言われてしまう。
「松枝清顕さんという方は、(略)実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
この言葉と本多が大切にしてきた清顕の夢日記を透が焼いてしまったことを的確に理解できれば三島のいっていることが分かると著者はいう。
つまり「魂」の輪廻転生はない、ということを。

仏教でいう地獄と極楽、魂の輪廻転生などは分かりやすくする例え話なのだ。


唯識

唯識とは正しくは「唯識所変」といい、「ただ(唯)識によって変じだされた所のもの」であり、私達の識(心)こそがものごとを作り上げ、決定しているということになる。

唯識論では五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)に加えて第六識として意識がある。
さらに無意識の底まで降りていって我執の正体を見極める。この我執の本体を末那識(まなしき)という。
末那識のさらに奥深くに阿頼耶識という識がある。この阿頼耶識の発見こそが唯識論の最大のものだとされている。
人間が行為(現行)をすればその痕跡が残る。これを種子(しゅうじ)といい、種子は阿頼耶識の中に残って蓄積される。
この蓄積を熏習(くんじゅう)という。
まとめると「現行の種子は阿頼耶識に熏習される」ということになる。



罪と輪廻転生

仏教の「罪」はキリスト教の「罪」とは違う。
キリスト教の「罪」は原罪に根本的原因をもっている。律法を守らないという「神への反抗」から生じたものだ。
それに対して、仏教の「罪」の源は煩悩である。

罪(煩悩)を断じた人は、死ねばそれっきりとなり生まれ変わることはない。罪(煩悩)があるから輪廻転生するのだ。
輪廻転生では六道に転生する。六道とは、天道、人間界、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道である。
つまり、天道のいる仏教の神(キリスト教の神とは違う)ですら罪(煩悩)ゆえに生まれ変わっている。
天人・天上の神といえど、まだ修行中の身であり、六道輪廻から自由ではない。


空は理解しにくい

空観(空の理論)は、形式論理学を否定した1種の超論理学を使っている為に理解することが途方もなくこんなにである。
しばしば「空」のことを「無」と混同された用い方がみられる。
空が虚無と同一視されると、空観を信奉する人をニヒリストだと誤解してしまう。

正解を先にいうと、無というのは有に対立する概念であるが、空はその両者を超えた概念である。
形式論理学でいえば全く在り得ないこの論理が仏教の最も大切で重大な論理なのだ。

これを理解するために『愚管抄』の著者でもある慈円の歌を見よう。

ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり

この歌は明快に「空」を説明している。
庵は、あるのか、ないのか。
柴を結べば庵はある。結び目を解けば庵はない。
したがって、庵はあるともいえるし、ないともいえる。
それと同時に、あるともいえないし、ないともいえない。
庵の存在、有無は、「結び」にかかっている。
結べば庵はあるし、結ぶまではなかった。結びを解けば庵はなくなる。
これが空である。
空は確かに無である。しかし、それと同時に有でもある。

結べば有となり「空即是色」であり、解けば無くなり「色即是空」である。


ミリンダ王の問い

ミリンダ王とナーガセーナの逸話も空の理解の見本となる。

「大王よ。もしもあなたが来るまでやって来たのであるなら、何が来るまであるかを告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車ですか」
ナーガセーナが問うと、王は「そうではない」と答える。では、軸か、車輪か、車体か。それらの合したものか。それら以外に車があるのか。王はナーガセーナの問いにすべて否と答えた。では、そこに車はないのか。そこに存在する車は何ものか。名前だけのものか。
ミリンダ王はここに来て、空を悟る。
「轅に縁って、車体に縁って<車>という名前がおこるのです」
(P.256)

このように車を車輪などのいくつかの構成部分に分解してみせて、車という実体はないと観ずる説明を「析空観(しゃっくうがん)」という。これは小乗仏教の説く空である。
これに対し、大乗仏教では空のみしか見ていない析空観を「但空(たんくう)」であるとし、一切の事物を空であると見なしながら、同時に空でない面も見る「不但空」、すなわち中道空を明らかにするという。


縁起=因果、因縁=原因

仏教理論の専門用語として、縁起とは、まず初めには因果のことである。
庵という果(結果)は、庵を結ぼうとする人の意志を因(原因)とする。

因縁とは、「因」を直接の原因とし「縁」を間接の原因とする。
庵についての縁は、柴や縄などである。
因縁がなければ、庵は存在しない。因縁によって「結ばれ」たからこそ庵ができて存在するのだ。


ナーガールジュナの「中論」

ナーガールジュナは縁起を「縁によって起こること」と解しているだけでなく、もっと広い論理的な依存関係の意味にとっている。
つまり、単純因果関係ではなく同時因果関係を考えている。

単純因果関係では、A→BなどのようにAがBを決めるということになる。
同時因果関係では、A⇔Bなどのように互いが因となり果となる。両者とも相互依存関係を通して同時に決まる。

諸事物も相互に依存することによって成立しているという「空」の構造である。


イスラム

神髄はひたすら『コーラン』にある

イスラム教は「宗教の戒律」、「社会の規範」、「国家の法律」が全く一致しているだけでなく、ユダヤ教キリスト教、そして仏教を知る上でもこの上ないテキストになると著者はいう。

キリスト教の三位一体説のような曖昧で分かりにくいことはなく、イエスは神ではなく優れた予言者にすぎず、マホメットは最も優れた予言者にすぎない。
神=アッラーはただ一人に決まっていて、三人が一体であるというようなことはない。

また、仏教のように実体を否定するような難解な理論はなく、天国や地獄などを実体的なものとして述べられている。

イスラム教は、ユダヤ教キリスト教を高く評価しているが、最終的な正しい解釈の仕方はすべて『コーラン』にあるとしている。

これをこう信じ、こう表しなさいと具体的に全てが決まっているということが大変重要な点である。


六信

イスラム教では何をどう信じればいいかがはっきりと決まっていて、これを六信という。

第一に神(アッラー)であり、『コーラン』には99の特性が記されている。

第二に天使(マラク)であり、キリスト教と違い天使の位置がはっきりしている。

第三に教典(キターブ)であり、『コーラン』を筆頭に『トーラー』、『詩篇』、『福音書』の4書となる。

第四に預言者(ナビ―)であり、特に重要なのは最後にして最大の預言者マホメットである。

第五に来世(アーキラット)であり、仏教の輪廻とは違って、最後の審判の後に赴く天国と地獄である。

第六に天命(カダル)であり、「天地間のすべてのことは、神の意志による。例外はない」との命題を信じることだ。


五行

イスラム教では勤行(修行)も明確に定まっており、この点もキリスト教とは違う。

第一に信仰告白であり、「アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である」と絶えず口に出して唱えることが定められている。

第二に礼拝であり、毎日5回、決まった時間にメッカの方向に向かって礼拝しなければならない。

第三に断食であり、イスラム暦9月(ラマダン)に1か月間、日の出から日没まで何も食べてはいけない飲んでもいけない(老人や病人、妊婦や旅行中の人などはやらなくてもいい)。

第四に喜捨(ザカート)であり、仏教の喜捨と違ってこれは義務となっている。

第五に巡礼(ハッジ)であり、イスラム暦12月にカーバ神殿を中心に行われる儀式への参加である。


イスラム教ではこれら六信五行をはじめ、『コーラン』に従う行動をとってはじめて信者たりうるのである。


法源

歴史が進展し社会が複雑になってくると『コーラン』の中の用語の解釈や、命令の施行規約が必要になり、細目を補わなければならない。そのため『コーラン』に次ぐ法源がつくられて10まである。

第一法源コーラン
第二法源『スンナ』
第三法源イジュマー
第四法源『キヤース』
第五法源『イスティフサーン』
第六法源『無記の福利』
第七法源『慣習』
第八法源『イスティスハーブ』
第九法源イスラム前の法』
第十法源『教友の意見』

イスラム法の解釈は、この法源の順に従って検討され判断がなされる。
コーラン』以外は十分な理由が存在すれば変更不可能というわけではない。

ちなみに『コーラン』の原著者はマホメットではない。
アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに発信しそれを世に広めたのだ。


聖戦(ジハード)

イスラムには聖戦という教義があり、現世で戦死をすれば最後には天国が待っている。
これは考えるだけでも如何に強力な軍隊になりうるか想像できる。
とはいえ『コーラン』には「騒擾(そうじょう)がすっかりなくなるまでは戦い抜け、しかし向こうが止めたなら汝らも害意を捨てねばならない」とも書かれており、イスラム側から好戦的態度をとることに抑制をかけている。


儒教

官僚制

孔子儒教の祖なのかというと孔子自身も「述べて作らず」と否定している。
つまり、昔の聖人がいったことを総合して述べているだけだと言っているのだ。
しかし、事実上は孔子が作ったといっても過言ではない。原始宗教を受け継いで体系的な宗教にしたのだから。

さて、儒教理解のキーワードは官僚制度である。
儒教の目的とは高級官僚を育成するための教養を与えることで、そのための宗教なのだ。

巨大帝国は官僚制なしではすまされない。


儒学の転換

6世紀末にできた巨大帝国・隋の誕生により大きな転換があった。
それまで推薦で選んでいた官僚を「科挙」というペーパーテストで選ぶようにしたのだ。
そのため貴族などの身分の高い者だけでなく、身分が低くても才能と実力がある者が選ばれるようにもなった。

科挙の転換

15世紀初頭に明の第3代皇帝(世祖永楽帝)が朱子学に基づいた科挙の教科書(『四書大全』『五経大全』)を作ってしまった。
このことにより、文章力や古典知識などの受験テクニックはあるが、決断力や政治力に乏しい官僚ばかりになり大事件が起こるとまともに対応できなくなった。

宦官とのパワーバランス

科挙のみに基づいた官僚制が千年近くも続いたのは宦官とのパワーバランスがあったからだ。
宦官は高級官僚ではないが、その権力と能力は侮れないものがあり、組織としてのヒエラルキーもあり官僚化していた。
この科挙の官僚制と宦官の官僚制の2つが相互にチェックス・アンド・バランシズしあうことによって制度が保たれていた。
しかし、上に示した科挙官僚の堕落により明の時代ではバランスが崩れ、宦官の方が力を持つようになる。