ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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世界・責任・贈与・疎外と物象化―――『思考の用語辞典』を読んで④

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



世界

カントは『人間学』で、世界(Welt)とは人間が認識できる総体だと考えた。
つまり、世界の限界は、人間の知の限界と一致するということになる。

フッサールは、この世界概念を引き継いで「生活世界」というものを考えた。
生活世界は、自然科学の世界概念など、さまざまな世界概念が生まれる場そのものだ。
あらゆる経験はこの世界の中ではじめて可能になる。

フッサール現象学を引き継いだハイデガーは、共通する部分として、近代的な自然科学の世界像が人間にとって自然なものというわけではなく、まずは「自分をとりまく世界の中に生きる」ことから出発するべきだと考えていた。
つまり、事物が存在し「実存する可能性」をもたらす条件だとする点で共通しているといえる。
けれど同時に、これは実存が頽落する条件でもあると考えていた。
人間が世界に生きることの両義的な意味を提示したのだ。

メルロ=ポンティは、まず生活世界の概念から地平という要素を受け継いだ。
この考え方には、人間がまだ個人として分節されていないままの「間主観性の世界」がある。
そこから、この地平をもとに個人としての自己を形作れるようになる「間主観性の世界」を「野生の存在」と呼ぶ。

ハンナ・アーレントは、人間が作り出した世界の重要性を思考の基本軸におき「道具関連」に基づいて考える。
世界は人間が作った道具に囲まれた場だ。そして「人間の手によって作られたものはどれも美しくもなく真でもない」。
しかし、この世界は人間が互いに関係を持ち、永続的な営みをする必須の条件でもある。
それだけではなく、世界は人間が自己のアイデンティティーを確認できる共通の場、人間がリアリティーを獲得する場なのだ。
世界は人間が他者と共生し、不滅の栄誉を輝かせる場であり、それが出来るのは世界の中だけである。


責任

責任(responsibility)という語は、語源こそラテン語だけど、実は18世紀になってから登場する言葉だという。
レスポンス・アビリティーという言葉自体、応答する用意があって、その能力があるというつくりだ。

オイディプスのように古代の英雄達は、人間が責任を負えないような事柄にまで雄々しく責任を負っているとヘーゲルはいう。

では、なぜ「責任」という語が近代になって登場したのだろうか。
おそらく、古代とは違った「責任の取り方」が必要になったからではないだろうか。

近代社会において個人は、理性的な存在だとう了解が前提されている。
故に、自分の行為が理性的なものであるべく責任を負っているように思われる。
責任は理性と深い関りがあるようだ。
近代の刑法においても、責任をひきうけられる主体だけに罪を問う。狂気や疾患で理性的な判断が出来ないとみなされた者に対して刑法は責任を問わない。

しかし、技術が発展したことで、理性の理論に基づいた「責任」で割り切れない事態は見られるようにもなった。
社会システムや、出来事についての因果のプロセスがあまりに複雑になると、個人の負うべき責任の範囲がぼやけてしまい確定することが難しくなる。
結果、責任の概念自体が揺るがされることになった。

フランスの法哲学者フランソワ・エヴァルトは、責任が「社会化」されてきたという。
自動車事故の判例で、歩行者側に過誤があっても、運転手に「責任」が問われたケースがある。このことをひいて彼はこう言った。

要するに過誤の概念は、もはや責任を決定するためには適切なものではなくなった。過誤と責任は分離してしまったのである。
エヴァルト『福祉国家』)

現代で責任は、もう個人の理性的な判断だけではどうにもならない。社会全体がそれを負うように求められている。
これは個人の責任が軽くなったのではなく、ある意味で逆に責任の概念が拡大してきているのだ。
個人が自分の犯していない行為にまでかえって責任を感じ始めたりしているのが現代の責任の引き受け方の特徴にもなっている。

この現代の責任概念は、考えようによって無限に拡大できてしまう。
例えば、私達はアフリカで飢えている子供達に「責任」を感じているという議論も出来てしまうのだ。
その極端な例がレヴィナスで、他者に対して責任を負うこと、そこに自分のかけがえのなさが生まれるという。
責任をとることで「譲り渡せないアイデンティティー」が生まれるという考え方らしい。

個人のアイデンティティーは、その個人が自分について維持する「物語」で可能になるとマッキンタイアは『美徳なき時代』で指摘した。
自分が誰にどういう責任をとるかという観点から、自分のアイデンティティーを形成できるということだ。

ホロコーストで肉親を失ったレヴィナスが、ナチスの蛮行の責任を引き受けると語るのを聞くと、非常にグロテスクな印象を受ける。
しかし、これは責任概念における現代的な状況への究極の答え方(応答)なのかもしれない。

飽くまでも私見になるが、上記のような「責任」についての考察を見ると、現代社会では責任概念が崩壊の危機にあるようにも見える。
理性の理論に基づいていた「責任」は、もはや狂気の実践を要請しているようにすら感じられてならない。


贈与

贈与とは対価なしで何かを与えることだ。
しかし、実際には自分の精神的な満足だったり、相手からの敬意だったり、共同体内での地位の確保だったりする。
そのように考えると、贈与とは交換のメカニズムの1つだと捉えられる。

いわゆる原始的な共同体では、交換でなく贈与が社会形成の基本原理になるとマリノフスキーは言った。
トロブリアンド諸島のクラという交易を例にとり、首飾りや指輪などの象徴的な財が贈られ、それと一緒に経済的な財の交換も行われる。
贈与が行われることが交易のために欠かせない条件になっているそうだ。

レヴィ=ストロースは、共同体どうしの間で女性の贈与が行われる例を挙げる。
そもそも共同体が存続するためには他の共同体と交流が必要となる。その交流にかかわる重要な財として女性が選ばれるということらしい。

マルセル・モースの『贈与論』では破壊的なまでに「贈りつくす」例として北米インディアンのトポラッチを挙げている。
とにかく莫大に贈与することで自己の権力を確認し、相手も更に莫大な贈与をすることでその権力を凌駕しようとする。これは交換ではなく、自己破壊的な贈与なのだ。
モースは、トポラッチが社会的対立を友好関係に解消するメカニズムとして機能しているという。

バタイユは、この富をそもそも共同体の中に貯め込まれすぎたものではないかという。
バタイユの不変経済学によれば共同体の内部に富が過剰に蓄積されると、その共同体は崩壊するという。
つまり、トポラッチは共同体が壊れるのを防ぐための知恵なのだ。

クラストルも『国家に抗する社会』の中で、トポラッチは自己破壊的に見える行為だが、過剰な富を散逸させることで国家の形成を防いでいると述べている。
メソポタミアの歴史を見てみても、更なる富が増大するにつれ生産性の可能性も向上し、人口も増える。これに対処するために官僚機構が成立し、法や軍隊が形成され、ますます抑圧的になる。

デリダは、贈与が贈与として与えられた瞬間、それはもう何らかの対価を暗黙に要求する交換になっていると指摘する。
贈与が贈与として認識された瞬間に、その意味を変質させるアポリアとなっているのだ。
しかし、本当の贈与はあるとデリダはいう。
それは「語る」ことだそうだ。私達が会話を交わす事そのものの背後に、自分が相手を人格として認め、相手は自分を人格として認めるという無償の贈与が行われているということだ。

レヴィナスは『存在するとは別の仕方で』の中で、この無償の贈与が「挨拶」という形をとるといっていた。


疎外と物象化

疎外には2つの面がある。
1つは、自己を他なるものにすること。
もう1つは、自己を外部に表現することだ。

例えば、言語を使うことは自分を表現することだけど、言語はそもそも他人がつくったものだ。
だから、その言語を使えるようになるには、1度自分を失う必要がある。それが疎外だ。

ヘーゲルは労働についても同じように、人間は欲望を直ちに満たすのではなく、いっとき先送りして将来の収穫を目指して働く、という。
疎外は人間が労働したり自己を表現したりする限り、必ず発生するものだ。
つまり、疎外された自己だけが本物の自己だという示唆がここにはある。

マルクスは、人間が自己を表現するのは労働においてだというヘーゲルの考えを引き継いだが、範囲を大分せまく限定した。労働を資本主義的な生産活動だけに限ったのだ。
そのため、マルクスの哲学的課題は人間の本質を奪い返すためには革命しかないということになる。

物象化についても2つの面がある。
1つは、人間が物になる。
もう1つは、物が人間のように振る舞いはじめることだ。

ルカーチの思想では物象化が極端に現れるのは労働の現場だそうだ。
人→物については、生産を合理化できるよう労働者の労働プロセスが細分化され、分業化され、機械的な反復作業になる。また、労働者の人間的な個性が、機械的な生産にとって利点じゃないため「単なる過ちの源泉」になることだ。
物→人については、人々の間の流通という関係そのものが「価値」として物象化される。端的にそれが現れているのが貨幣だ。単なる交換の尺度として使われていた貨幣が貴重な財産としてあがめられるようになった。これは物象化によって人が物のような客体になったことで、それまで客体であった貨幣が価値を担う主体として機能し始めたということだ。
トーテミズムのように、社会的な結びつきを象徴する記号でしかなかったものが、逆に人間の結びつきそのものを支配し、崇拝されるようになったのだ。