ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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大衆が官僚制を要請している?―――『官僚の反逆』を読んで

官僚批判が実は官僚制の強化を(無自覚に)推進していたことを指摘した本。
著者は中野剛志(経済産業省の官僚)。
幻冬舎新書
2012年、第1刷。



外圧を引き込む

TPPの参加に関して日本側から、こちらへ圧力をかけるようお願いしていたということが東京新聞朝刊、2012年12月4日に出ていたようだ。アメリカからは「自分で決めてくれ」と諭されたようだが、これは恥ずべきことだろう。ここでは、その日本政府関係者が誰なのかまでは分かっていない。
その2か月後、元外務審議官田中均は日本記者クラブでTPPについて講演した際、アメリカの外圧を利用することが悪いことだとはまったく思わないと断言している。

外国の要求に応じて国内の政策を変更することは、当然、あってもよいだろう。しかし、その場合であっても、国内政策はあくまで時刻の自主的な判断によるものであって、決して外圧に屈したとみられてはならない。
(略)ところが、この「美学」も、もはや過去のものとなった。つい最近まで官僚だった者たちが「外国の力を国内に意図的に引き込んで、日本の政治を動かしてやるのだ」と公然と言って憚らない世の中となったのである。
(P.14)

官僚の大衆化

上記のような出来事と理解するにはオルテガのいう「大衆」と「エリート」の概念を知ることが役に立つ。
よく誤解されていることだが、オルテガのいう「大衆」とは社会的地位が低いとか、収入が低いとか、学歴がないなどといった特定の階層に属する人達のことを指しているのではない。
自分が「みんなと同じ」だと感じることに少しも苦痛を覚えず、かえって良い気持ちになるような人々全部のことだ。
そして「エリート」とは自分よりも優れた価値ある規範に易々と身をささげ、自らに特別の事を要求する人々のことだ。

そもそも、自由民主的な国家で官僚となった以上は、自由民主政治の厄介なプロセスからは逃れられない「運命」のはずだ。外圧の利用という安易な手段に走るのは、自由民主政治における官僚としての「運命」からの逃避である。自分の運命から逃走することを、オルテガは「反逆」と言うのである。
(P.31)

自分の運命を容認せずに逃走することは、自分自身にたいして反逆しているということなのだ。



官僚の非人間化は「美徳」である

集団や組織が大きくなると莫大な情報を扱う事務処理や実務が必要になってくる。
これは国でも企業でも同じことだ。そこで国家にも企業にも官僚の必要性が生じるのだ。

ウェーバーによると近代社会の官僚制には「非人格的な没主観的目的(だれかれの区別せず)」に奉仕する義務がある。
つまり、官僚は特定の誰かに尽くすのではなく非人格的な抽象化された国家や企業に尽くすということだ。

また、作業を迅速かつ精確に行うために「計算可能な規則」という価値を信じるということも必要になる。
この「計算可能な規則」は近代社会を支配している価値観でもある。

「非人格的」、「没主観的(=客観的)」、「計算可能性」といった性質は自動化されたマシーンのような振る舞いを要求してくるものだ。

例えば、ある失業者が母親の急な体調不良により書類提出が1時間遅れたとしよう。
そこで「母親の病気はやむを得ない事情だ、失業手当がないとこの人は困るだろう」などと融通を聞かせてしまうと中立・公平な事務とはいけなくなってしまう。
時間という数字によってあらわされた提出期限は「計算可能な規則」である一方、個別的・具体的に融通を聞かせた対応は主観的かつ感情的な判断である。
一般にお役所仕事として嫌われている融通の利かなさではあるが、この「非人間化」こそが近代資本主義社会が要求する美徳だとウェーバーは言っているそうだ。


成果主義は官僚化を要請する


高橋伸夫の『虚妄の成果主義』で、かつての日本的経営に競争原理が働いていなかったわけではなく、長期的には意義のある制度だったと主張している。

第1に、勤続年数で横並びではなく昇進・昇格・昇給に差があった。「年功制」ではあっても「年功序列制」ではなかったと指摘している。

第2に、従業員が生活の不安を感じることなく長期的な視野にたって仕事に打ち込めるものだったという指摘。

第3に、成果主義で能力を客観的に測ろうとしても数値化できない部分は測定不能であり、総合的評価ができないのだ。

成果主義における人間の能力を客観的な数値で計測し、それに従って組織を運営しようという成果主義は、まさにウェーバーのいう「計算可能な規則」の支配を特徴とする官僚化現象そのもだ。

高橋は、企業の成果主義というものが短期的な利益の追求に走り、人件費をカットするための口実として使われているという述べる。
これは不況になったがゆえに「切る論理」としての経営論が流行したことを示している。

すなわち短期的に成果が表れやすく、しかも数値で表現しやすいような仕事しかしなくなる。成果がでるまでに時間のかかる難しい事業や、成果を定量化できない複雑な仕事からは、たとえそれが必要であっても逃げるようになるのだ。
(P.54)


民であれ官であれ、成果主義的な官僚化は長期的視野を失わせ、複雑なものに対する総合的判断からの逃避を引き起こすということのようだ。


回転ドア方式が官民の癒着を生む

経済の関する真の知識は、経済の中で生計をかけて働くことで得られる。その意味で官僚が「経営の現場を知らない」という批判はその通りなのだ。
民間の知恵の活用を名目に、民間の人材を政府が登用するという「回転ドア方式」は一見すると良いもののように見えてしまう。
だが、実際はただでさえ専門知識において優位にたつ民間の利害関係者を政府内に大量に招き入れることになった。
その結果、行政が利害関係者にからめとられ、規制や規制緩和が恣意的に行われ私的に利用されてしまう。
これは、アメリカのワシントンとウォール街の間だけでなく日本でも起こっていることだ。


予測能力や定量化の限界


フォード社で社長を務めた後、マクナマラは国防長官に抜擢された。
彼は統計的データを重視し計量的手法を駆使した合理化を得意としたことから「足のついたIBMの機械」と呼ばれるほど極めて高く評価されていたからだ。
しかし、ベトナム戦争では、その合理的経営手法は通用しなかったのだ。
マクナマラ定量的データに依存した合理的な分析に頼りすぎたために、ベトナム人たちの抵抗の動機、希望、怨念、そして勇気といった定量化できないデータを見過ごしていたことで失敗した。

未来は不確実であり、社会は複雑である。それに対し人間の予測能力や知識には限界があるのだ。
政治とは、理性の限界の中で未来の不確実さと社会の複雑さと格闘する難しい営みである。
このような社会をあらかじめ定めた計算可能な規則、定量的な目標、工程表、検証体制などで管理できるはずはない。


グローバル化とは官僚化である

ウェーバーは市場における利潤追求行動は、実は官僚制化と極めて親和性が高いと述べていたらしい。
近代資本主義社会では国家組織や企業組織のみならず市場も官僚制化している。
官僚制の特徴である没主観的と計算可能性によって推し進められたのは、世界を合理的で効率的で画一的な1つの市場として完成させようとするグローバリズムである。
よく言われる「マクドナルド化」はその典型例であろう。
どこでも、いつでも、同じものが、同じ値段で、同じようなやり方で提供される。要は画一的にマニュアル化されているということだ。
これは普遍的な市場としてのグローバリズムを象徴的に示している。


国際機関も官僚化している

開発経済学者の大野健一もまた、スティグリッツと同様の立場に立って、国際援助機関の画一的な手法を批判している。
開発途上国の歴史や個性的な社会構造を無視して近代的な市場経済を導入しても上手くいくわけではない。
主流派経済学の特徴として、
①「人間は自己利益を追求するように行動する」ということを前提にしている。
②数学的な定式化を目指している。
③仮説の検証は統計データによって行わなければならない。
という3つがある。
これをもって経済学は科学的であると見なせると信じられているのだ。

人間は利他的にも行動する存在でもあり、利己利益を追求するという前提は現実との乖離がある。
また、数学的定式化は各国の文化や歴史の違いを捨象するか極端に単純化・形式化しすぎている。
更に、統計では検証できない事実を分析の対象から排除することで検証可能性を確保するようなことをしている。
これらの点を考えると主流派経済学は科学的と言うよりも、むしろ官僚制的なものであると言えるのではないだろうか。


大学の官僚化

前近代的社会における教育は、教養あるとみなされた生活様式や文化的資質を身につけることだった。
これに対し、近代的社会における教育は、専門知識の習得が目的になり、専門教育が教養教育を滅ぼしていく。

このようにして生み出された専門家をオルテガは大衆的人間の典型とみなした。
自分の狭い専門領域については細部に至るまで知っていながら、専門外のことについてはまるで無知な専門家である。
自分の知識や愚かな判断に満足して、高い権威に従おうとせず、人の意見に耳を貸さない「慢心したお坊ちゃん」だとオルテガは評していた。


民主政治の破壊

国際機関のエコノミスト達は「政治的圧力からの隔離」をスローガンに新自由主義的な経済政策を資金援助の条件として持ち出した。
しかし、これは経済政策の決定と執行権に関する国民主権の剥奪を意味している。
主流派経済学者が勝手に定義した「良き経済政策(緊縮財政、競争促進、自由化、民営化など)」は、失業者の増大、実質賃金の低下、福祉施策の廃止などの痛みを伴うため、反対が起こり実現は困難である。だからこそ経済政策を民主政治から「隔離」する必要があり、国の経済政策における事実上の国民主権の剥奪を行ったのだ。
1980年代のペルーの債務危機や1997年のアジア通貨危機の際における韓国の金融危機に乗じて、新自由主義的な「良き経済政策」の美名の下に経済に関する国民主権を事実上の剥奪(=「政治的圧力からの隔離」)を行ったのだ。

このような危機的な出来事に便乗して新自由主義グローバリズムによる経済政策を押し付けてくることがある。
カナダのジャーナリストであるナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン―――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』はこのことを最も雄弁に明らかにしている。


ユーロ危機

2008年の世界金融危機の後、ギリシャアイルランドにおける債務危機ではユーロという官僚制的支配は機能しなかった。
通常、経済危機に陥った国は金融緩和と同時に国債を増発して不況対策を講じる。また、債務危機国の通貨は下落するが、その結果として輸出が拡大するので立て直しの可能性は開かれている。
ところがユーロ加盟国は、財政政策の裁量権がきびしく制限され、金融政策や為替政策については裁量権がまったくないため、不況対策を講じることが出来ない上に通貨の下落による輸出拡大という選択肢も閉ざされている。
そこでギリシャなどの危機に陥った国々はEUなどに支援を求めるのだが、その条件として緊縮財政を強いられることになっている。
不況下でのそれは、マイナス成長や失業者の増大など国民生活に苛烈な負担を強いるものであり、国民主権国家ではありえない政策でもある。
ユーロという官僚制的支配のシステムを維持するために、被支援国の民主政治をほぼ完全に否定しなければならないのだ。
これは、新自由主義から導かれる官僚制と経済統合(グローバル化)が国民主権を破壊する例だと見ることが出来る。


トリレンマ

アメリカの経済学者ダニ・ロドリックは、このような経済統合(グローバル化)、民主政治、国民国家の矛盾した関係をトリレンマと呼んでいる。

1.もし、グローバル化を徹底し、各国の制度的障壁をなくそうとするならば、各国の民主政治を制限せざるを得ない。

2.もし、各国の民主政治を守ろうとするならば、グローバル化を制限しなければならない。

3.もし、グローバルな民主政治を実現しようとするなら、国民国家という枠組みは放棄しなければならない。


「民主政治」と「国民国家」は密接に結びついているため、実質的には「グローバル化」をとるか「国民国家+民主政治」をとるかのジレンマということになるだろう。



自由民主政治」対「大衆民主政治」

言論の府たる議会を介した間接民主的な「自由民主政治」に対して直接民主的な「大衆民主政治」はグローバル化を支持することで国民主権を破壊する。

「大衆民主政治」は効率化、画一化、合理化、数値化などの近代合理主義を称賛し、その遂行のために官僚制を要請する。
つまり「グローバル化」と「官僚制化」と「大衆社会化」は結び付いて一体となっているのだ。
日本における官僚叩きは実のところ官僚の官僚らしからぬところを非難しており、その結果から導かれるのは更に強化された官僚制なのだ。そして、この官僚制化は世界中に広がっている。
著者はそのことに警鐘を鳴らす。

官僚制の本質は、ウェーバーが喝破した通り、「だれのかれの区別をせずに」「計算可能な規則」に従って事務処理を遂行するところにある。「官僚制的なもの」とは、画一的であり、それゆえ効率的、迅速、グローバルであり、非政治的であり、そして非人間的である。
そのような「官僚制的支配」が日本中、そして世界中を覆いつくしているのだ。
(P.189)