ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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中国人の行動規範―――『小室直樹の中国言論』を読んで

中国人の行動規範を分析した本。
著者は小室直樹(法学博士)。
徳間書店
1996年、第1刷。



帮(ほう)、帮会(パンフェ)

帮の内の関係

中国では人間関係が大切である。しかし、その「大切である」の意味が日本ともアメリカとも全然違うから理解するのが困難だという。

その人間関係で刮目すべきが帮(ほう)である。自己人(ツーチーレン)とも呼ぶらしい。
利害、争いから完全に自由であり、絶対に信頼でき、完全に理解しあい、生死を共にする。
帮の中の規範は絶対なのだ。


帮の外の関係

その一方で帮の外の人間関係では何をしてもかまわない。全く気にする必要などないのだ。

では帮外の人間関係は、どういうことになるのだろうか。
一言でこれをいうと―――。
なにをしてもよろしい。窃取強盗ほしいまま。りょくだつ、強姦、虐待・・・・・・何をやっても少しもかまわない。いや、かまわないどころではない。それが、倫理であり、それが道徳である。
(P.23)

倫理・道徳は自分たちの集団の中にだけ存在するのであって、集団の外には存在しないのだという。
つまり、中国人と帮を形成することができたら、その中国人は絶対に信用できる。
もし、帮を形成することが出来なければ、中国人を少しも信用することはできない。

帮の外では義を守るかどうかは相対的なものなので、帮の内の絶対的なものとは対照的である。
例えば、三国志関羽赤壁の戦い曹操を見逃すことで以前の恩義を返した。これは裏切りを繰り返していた呂布とは対照的であるが、恩義が守られるかどうかはその人の資質によるのであって絶対的なものではない。
これに対して帮の内の関係(義兄弟の契り)であった劉備は、曹操を逃がした関羽が軍法に照らして裁かれそうになった際にこれを止めた。後に「泣いて馬謖を斬る孔明にすら信賞必罰をさせなかったのだ。帮の関係は法律よりも絶対的なものなのである。

どうやって帮を形成するのか

帮の形成は簡単に行えるものではない。
どのように帮の人間関係を作っていくのかは「刺客」の例を見るとよい。
中国における刺客とは、お金で雇ったビジネスとしての単なる殺し屋とは違う。
刺客とは義侠の行為(暗殺)を行う人であるから悪人というよりも、むしろヒーローとして尊敬を受けさえする存在なのだ。

まず、刺客と引き受けてもらうには帮を形成しなくてはならない。
では、どうやって引き受けてもらうのか?


1.ひたすらお願いする

やることは「雇う」のではなく「頼む」のだ。
ひたすら礼をつくしてお願いする。拒否されても文句は言えない。
身分が下の者にたいしても頭を下げてお願いするのだ。


2.国士として扱う

予譲は智伯から国士(一国でとくに傑出した人物)として扱われことで帮が形成され忠義の名分を立てた。
「士は己を知る者のために死す」という古いことわざもある。

3.自ら訪ねていく

身分の高い者が、身分の低いものへと訪ねていくことは中国で大きな意味をもつ。
三国志劉備孔明の「三顧の礼」などがそれだ。


4.お金自体ではなく「志」

韓の元大臣であった厳遂は、下層民である聶政を訪ねて驚くべき大金を送った(その時は断られたが)。
問題はお金自体ではなく、それほどの大金を出してまで深い交わりを結びたいという「志」なのである。
大金は飽くまでも触媒にすぎない。


5.時間をかけて何度も何度も

身分の高い者が大金を用意して訪ねてきたからといって受け入れなければならない義務はない。
実際に彼らは何度も拒否されている。
しかし、それでも時間をかけて何度も何度も繰り返すお願いや贈り物をし続けることで「志」を分かってもらわなければならない。
つまり、帮を形成するには時間も手間もお金もかかるし、そこまでしてようやく心が通じるというものなのだ。
絶対的規範である帮は、上記に挙げたいくつもの必要条件をそろえなくてはならない。
何回失敗してもあきらめずに繰り返し続ける。こうしないと深い人間関係は結べない。


帮以外の人間関係

帮の外でも、相対的に人間関係が深かったり、浅かったりする。
この人間関係を情誼(チンイー)である。
情誼(チンイー)が深いか浅いかで、物の値段が上下したり、法の解釈がきつくなったり緩くなったりする。
帮のような絶対的なものではないが、帮の外の人間関係として相対的に適用されるものだ。

人間関係の中心に帮があり、その外に情誼の深い関係がある。さらに外に情誼の浅い関係があり、その外に情誼がない人間関係があるといった感じだ。

このような人間関係の輪の内側にいるのか外側にいるのかで適用されるルールや扱いが変わってくる。
いわゆる二重規範(ダブルノルム)だ。これは共同体の必要条件ではあるが、これだけでは十分条件ではない。
共同体であるためには更に、
「敬虔が支配的感情であること」
「社会財の二重配分」
が必要となる。

帮と情誼の違いとして
帮では利害関係を超越した、絶対的な人間関係であるのに対し、
情誼では利害関係による相対的な人間関係なのだ。
つまり、情誼が深いか浅いかによって、賄賂における金額の多寡や法の適用における解釈の仕方も変わってくる。


宗族

宗族とは

中国には2つのタイプの共同体がある。1つは上に記したヨコの関係の帮であるが、もう1つがタテの共同体である宗族だ。

宗族とは父と子という関係を基にした父系集団である。
特徴として、
①父子関係で集団を作り姓を同じくする。
②同一宗族の中では絶対に結婚できない(部外婚制)。
がある。

宗族は世界中に散らばっていたとしても同祖意識が失われないところに宗族結合の観念的基礎がある。

また、集合論的にあらわすと
(1)中国人はいずれかの宗族に必ず属している。
(2)2つ以上の宗族に属することはない。
となり、直和分解されている。

姓と苗字

ちなみに、日本人は父系集団でも母系集団でもなく、また、苗字は姓とは違うものだ。

中国人は姓を変えることはできない。
例えば高祖劉邦は、若い無頼者→大漢皇帝に出世していく段階でも、やはり劉邦であった。
それに対し、日本の秀吉は、木下藤吉郎羽柴秀吉豊臣秀吉と出世するごとに変わっていった。

「姓」は人間そのものに付いて離れないもの、すなわち、この人の属性である。
「苗字」は、その場その場の状況によって変わり得るもの。「場」の最たるものが社会的地位。

かつては母系制だった?

ずっと古い時代の中国は、母系制だったらしい。

文献からの推定だと「神農の世、民そのははを知りてその父を知らず」(『荘子』盗跖)。
神農とは超古代の帝で三皇の1人である。

もう1つ大切なこととして、その時点で「姓」があったということである。
その上、「姓」という文字は「女」へんに「生」と書く。
これをもって超古代の中国は母系制であったと推定する学者もいる(例:宇野哲人博士)


異姓養わず

自分の先祖を祭る行為は、その子孫しか出来ない。つまり他の宗族から養子をとっても祭祀ができないので、養子として機能しないのだ。
だから中国では同じ宗族の中からしか養子をとらないのだという。


中国の法律

事情変更の原則

近代資本主義社会においては事情変更の原則は認めない。
そうでないと合理的な計画ができず、資本主義がうごかなくなってしまう。
しかし、中国ではビジネス上の契約でも、法の解釈や運用においても事情が変われあ変更されてしまうのだ。

「法律」というものに対する考え方が根本的に違うことが原因となっているようだ。
それを知るためには「法家の思想」を理解しなくてはならない。

儒家と法家

中国における統治機構は二重構造をしていた。
表向きは儒教で国を治め、実際は法家の思想で統治してきた。
これを「陽儒陰法」という。

法家の思想では、政治の要諦は法術によって決まる。
「法」とは、法律を作る事。
「術」とは、法をしこうするための役人の操縦術。

これらは、人間というものは道徳的には動かないという人間観を根本においている。

優先順位

儒教と法家思想では優先順位が異なっている。

儒教
①道徳②経済③軍備

法家の思想
①経済②軍備③道徳

どれも大切ではあるけれど、優先順位をつけるならこうなるそうだ。

法家の言い分によると、儒教が理想とする尭、舜、禹の倫理規範では、何から何まで変わってしまった今の時代に適用しても上手くいかないのだという。
だから、法家の思想の根本には「信賞必罰」が置かれている。

法家の思想では、律法だとか、法の行使だとかの点については進んでいるが「法律とは政治権力から国民の権利を守るものである」という考え方まるでない。
法律とは、統治のための方法なのだから為政者・権力者のものとなる。
統治のために都合が悪くなれば、解釈を変更したり廃止してしまってもよいということになる。

歴史

歴史に名を残す

刺客の行う暗殺とは義侠の行いであり、刺客は義士とされ代表的中国人と見なされる。
暗殺を決行して生命を失うが、その報酬は歴史に名を残すことである。
これが個人の救済となる。

中国人のすべては歴史にある

著者は「歴史を見れば中国が分かる」という。
貞観政要』のエッセンスを一言で要約するなら「よい政治をするためには如何にするべきか。答えは歴史を学べ」と言うにつきると述べる。

歴史法則は変わらない

国史は比較歴史学的データとして十分使用に耐え得る。
1つは、中国史の記述が驚くほど正確だからだ。
もう1つは、中国史が反復に反復を繰り返しているからだ。

中国の歴史は時代を下るにつれて面白くなくなる。それは同じことの繰り返しばかりなので飽きてしまうのだ。
面白く読めるのは『漢書』や『三国志』『後漢書』くらいまでだという。
似たような事件を整理できず記憶は混沌とする。
司馬光はダイジェストとして『資治通鑑』を編集した。19年をかけて294巻からなる史書を書き上げた。
大傑作として絶賛されるものの「お立派でござる。恐れ入りました」とみな申し合わせたように、それに続く言葉を口にしなかった。絶賛するだけで誰も読んではいなかったそうだ。
ただ1人、親友の王勝之だけが読んでくれた。司馬光が忌憚のない批評を求めると親友は「うむ、たしかに読むには読んだ。だが実は、何が書かれていたか申し訳ないがまったく覚えていない」とのこと。
その理由は「類似の事件」「延々たる繰り返し」である。
しかし、そうであるからこそ科学者にとっては格好のサンプルとなる。繰り返し起こる現象には法則性があるのだ。

中国の契約

中国では破ってよい契約と破ってわるい契約とがある。
「破ってよい契約」に契約としての意味があるのか?
近代資本主義社会での契約を交渉の行きついた結果としてあるのだが、中国では契約は交渉の始まりである。
「これから一緒に仕事をしましょう」といった意思表示が契約なのだ。

知人→関係(クアンシ―)→情誼(チンイー)→帮(パオ)

これらの人間関係のどの段階にあるかで「契約」の意味も異なってくるのだ。