ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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存在、他者、超越、独我論、表象―――『思考の用語辞典』を読んで⑤

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



存在

パルメニデスは、「存在するものだけがあり、無はない。そして、あるものについてしか考えることはできない。」
何が何だかよく分からないけど、これはとても大事な問題だ。
アリストテレスでさえ「哲学は存在についての学だ」と考えていたほどだという。
長い中世を通じても、この問題はさまざまに検証されてきた。

大きな転換がもたらされたのはデカルトからだそうだ。
中世哲学の体系には、その真理性を保証する重要な柱が欠けていると考えた。
デカルトはそれを保証する根拠として「思惟する精神」を提示している。
考えている自分を疑うとしても、そこには疑ている自分の存在の自明性が示されると。
我思う、ゆえに我あり」というあの有名な言葉だ。
ここから、哲学の真理性は神から自我へと移行していくことになった。

デカルトの考えは2つの方向に受け継がれた。
1つはバークリーの考えだ。
思惟することだけが存在を保証するとなると、知覚する<心>なしでは物質そのものは存在しない。
バークリーは明言していなものの、ここからは独我論が出てくる。
この強いかたちの独我論はカントの『純粋理性批判』の中で観念論論駁としてあらわれているらしい。

デカルトのコギトを引き継いだもう1つは、ハイデガーの考えだ。
それは人間の実存についての問いとして存在が考えることだった。
彼は、人間が存在とはなにかという問いを問えるためには、どういう条件が必要かを分析した。
人間の自由とは、自己が存在しなくなること「死」について問いながら、自らの外へと脱する特異な存在者のありかたであるという。

バタイユは、「自分が存在していると生々しく感じられるのは、思惟においてではなく、ある特殊な体験においてだけだ」だと主張する。この特殊な体験を、彼は「内的体験」と呼んだ。
人間の<企て>は、欲望を先送りして後で実りを得る行為だが、内的体験は<ある>ということを今ここで問う。
先送りせずに、その場で存在を充実させる。そうして存在の閉域を内側から破砕し、他者との交感を達成する。

レヴィナスは、「ilya(ある)」を哲学概念として、存在することの無人称性と抽象性を示そうとした。
ハイデガーの「死への恐怖」や「無への不安」とは違い、存在そのものが人間に恐れをもたらすことがあるという。これは存在の不安だ。
自分が過剰なまでの孫座に取り囲まれている豊饒な闇から己を切り離し立ち上がる必要がある。
どのように立ち上がるのかというと「主体は他者との関係を構築することで主体として成立するのだ」とレヴィナスはいう。


他者

コギトの明証性は、懐疑を打ち消す強力な手段ではある。けれどここからは、損愛するのがたしかなのは自分だけという独我論がでてくる。

フッサールの「超越論的な自我」というのがあって、これために現象学独我論の疑いにさらされてきた。
ここでフッサールが試みたことは独我論のうたがいを晴らすことではなく、自我の存在そのものを根拠づける他者との共同世界というのを考えた。自我の主観が生まれてくる前に、すでに存在しているはずの「地平」みたいな共同性。この共同世界の概念は「間主観的な世界」と呼ばれた。

この共同世界の問題を引き継いで、メルロ=ポンティ独我論はその前提が間違っていたと考える。
他者も同じく身体を持つ存在者として理解し合える共通性がある。この共通性を世界の<肉>と呼んだ。
そして、すべての人々に共通した世界を「野生の存在」とも呼んだ。

レヴィナスは、他者を他なる我、他我であるが他者にはなお、それをこえる何かがあると考えた。
このこえでるものを「顔」と呼ぶ。
他者は自我から演繹できない絶対的な他なるものだ。

バタイユは、愛する相手は自我の認識からつねに逃げ去るという。
愛するという経験において、相手は常に変貌するからだ。
そして実は自我においてもそれまで理解していた自分ではなくなるので同じように逃げ去るものなのだ。


超越

超越という概念は、いつ哲学のテーマになったのかというと、それはおよそ中世からだ。
カテゴリー(範疇)という考え方と関係が深く、当時の超越概念は「カテゴリーを超えてしまう概念」のことだった。

アリストテレスが示したカテゴリーは主語になる実体についての述語の種類の事だった。
「実体」「量」「性質」「場所」「関係」などの10種類を挙げていたようだ。

ところが、中世の研究者たちはカテゴリーで表現できない述語があることに気が付いた。
「存在」「真」「善」「1であること」などだ。
こうした諸々のカテゴリーを超えてしまう概念が「超越」と呼ばれる。
この概念がアリストテレスに基づく形で問題になったのは神について思考する必要があったからだ。
神は存在であり、真であり、善であり、1なるものであり、そして人間の思考を常に「超え出て」しまうものだった。

哲学の中心が神から人間に移っていくのに大きく貢献したのがカントだ。
彼は、「人間の経験を超えたもの」を超越と呼び、「人間の経験を可能にする条件」を超越論的な、ものと呼ぶ。

フッサールはこの考えに近いところで超越を「内在」に対立するものとして示した。
だから「主体に内在するもの」と「主体の外部にあるもの」の区別が大切になる。
フッサールは意識に内在しない超越者をすべて還元して、「超越論的な領域」を懸命に分析した。

ハイデガーは人間が実存する構造を考え、人間は「つねに自己を超え出ていく存在」だという。
現存在は世界の内に関係として生きる。

ユクスキュルは「環世界」という概念を使って、動物は自然の中に存在するっだけじゃなく、自然という世界との関係性のなかに生きると言っている。

レヴィナスは、人間が自我の同一性を保ちながらも自我と絶対的に異なる「他なるもの」を望み求めるとし、これが超越の構造だという。
人間は、存在の声を聞く特別な存在者ではなく、他者との関係ではじめて自己を確証できる、実に無力な存在だ。

独我論

近代哲学はデカルトの「我思うゆえに我あり」から出発した。
あらゆる存在を確認する根っこが自己というコギトだと独我論がどうしても出てきてしまう。

独我論には「強い独我論」と「弱い独我論」などのヴァリエーションがある。
「強い独我論」だと、バークリーの主張のように、この世界も他者もすべてが自己の意識の像にすぎないと考える。

「弱い独我論」だと、フッサール現象学のように、世界の存在は認めるが、「他なる我」の存在はそのままでは認めない。
フッサール独我論者というわけではなかったが、中期の『イデーン』の純粋自我の概念にはそういう含みがある。
意識は対象に向かう志向性の形で示されるから、対象になる世界が存在することは疑わない。
現象学では意識が世界の中で素朴に生きているありかたをいったん棚上げして、還元を積み重ねる。
その積み重ねから最後に得られるものは超越論的な主観性、純粋な自我だとされる。
ここでの問題は自我が他者も構成しなくてはならないところにある。主体の自我からの「移入」として他者の自我を構成しなおすのだ。
他者のの存在を主体の自我の機能からしか理解できないところに「弱い独我論」が発生する。
 
ウィトゲンシュタインは初期の頃、独我論に正当な根拠があると考えていた。
ただし独我論はそのことを他者にむかって「示す」という自己矛盾に陥っている。
彼は言語も同じ構造をしていると考える。言語は言語そのものについて語るのを放棄することで、世界について語れる。
そもそも他者が存在することで、自我にとって世界が開けるのだから、この世界を自分だけの世界だと他者に向かってい言うことは矛盾したことなのだ。
彼に言わせれば、いわば独我論は哲学の「病」なのだ。
独我論は正しい、だが無意味だ。世界が自分の世界だということは自明だけど、他者との間で生まれる世界なしでは自分そのものが不可能だから。

バタイユは、人間が他者から切り離されており、それだけに他者との接触を回復しようと望むことをエロティシズムだと考えた。
独我論はこの孤独に根差しているのだ。

フロイトは、こうした他者との一体感を回復しようとする衝動は究極のところ死によってしか可能でないと指摘していた。
人間はつねにタナトスという死への衝動に脅かされている。このように見るとエロスもタナトス独我論の裏返しとして存在することになりそうだ。
 

表象

ギリシア哲学で表彰は、ものの実相でも人間の思考でもない中間的なもの、幻想的なものという位置をあたえられていた。

しかし、近代哲学が登場すると表象の地位も大きく向上した。
デカルトの主張として「人間は表象によってしか事物を把握できない」というものがあったからだ。
明晰で判明な表象を拠り所に確実な推論を行う真理のための最終根拠は「我思う、ゆえに我あり」というコギトにあった。
このコギトは自己についての表象だ。

ヒュームは「自我とは知覚の束にほかならない」と言った。「知覚の束」自体が主体が表象するものの集合だ。
これは自我が表象の舞台だと主張していることになる。

カントは人間が認識できるのは物自体じゃなく、現象だけだと言っている。そして現象とは人間が表象するものに他ならない。
つまり、彼にとっては直観も知覚も思考も、どれも表象だ。

ハイデガーは、主体という形で表象の主権を想定するのは「存在」を忘却することだ。人間がほかの事物や自然とかかわるありかたを無視することだという。

フーコーは、事物がその歴史的な奥行き、深さにおいて認識されるまで、西洋の知はすべてを表象の体系として理解しようとしてたという。

ニーチェは、人間は表象する以外い認識は出来ない、表象だけが確実なものだ、だが表象は過つという。
人間の表象は誤謬をもたらすので常に存在の本質を誤認する。だが、そこにこそ思考の可能性が生まれると考える。
人間は真理という名の誤謬を必要としているとニーチェは言うが、表象もこれと似ている。