ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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よく誤用されるあの画像―――寛容のパラドックスについて

今回は本ではなく、何となく気になって考えたことについて書いていく。
題材は「寛容のパラドックス」だ。



1.先に結論から

「寛容のパラドックス」とは、寛容な社会を維持するために、社会は不寛容に不寛容であらねばならないという主張のことだ。

しかし、ポパーは「不寛容な言論」を抑制せよと言っているのではなく「不寛容な実力行使」を抑制せよと述べている。
しかし、例の誤用されている画像では、「不寛容な言論」を抑制する権利があるかのように使用されている。
そのような誤用こそが「扇動」的な行為だと言わざるを得ない。
「不寛容な言論」自体は確かに下品で下劣ではあるが、言論の自由として許容されるべきものである。


2.「例の画像」と実際にポパーが述べた内容との比較

1.ネット上で拾った画像

https://i.imgur.com/zAcPNLV.jpg

この画像は、ポパーの「寛容のパラドックス」を本来の意味から捻じ曲げた解釈をして使用している。

内容

寛容な社会は不寛容も許容すべきか?
その答えはNOだ。
矛盾になるが、際限なき寛容は、寛容自らをほろぼしてしまう。
もし、不寛容な者にまで寛容であろうとすると・・・
・・・寛容な人々、寛容な社会も、彼らに壊されてしまう。
不寛容や迫害を説く、いかなる扇動も犯罪でなければならない
矛盾しているようだが、寛容性を守るには・・・
・・・不寛容に不寛容であるということが必要だ。

となっている。
イラストには不寛容な人として「ナチス」を連想させるような絵が描かれている。

私が問題にするのは「不寛容や迫害を説く」の部分であるが、これは後述する。

2.ポパーの主張

少し長いが引用する

哲学者カール・ポパーは、1945年に『開かれた社会とその敵』第1巻(第7章、注4)においてこのパラドックスを定義した。

「寛容のパラドックス」についてはあまり知られていない。無制限の寛容は確実に寛容の消失を導く。もし我々が不寛容な人々に対しても無制限の寛容を広げるならば、もし我々に不寛容の脅威から寛容な社会を守る覚悟ができていなければ、寛容な人々は滅ぼされ、その寛容も彼らとともに滅ぼされる。――この定式において、私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。しかし、もし必要ならば、たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ。と言うのも、彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。ゆえに我々は主張しないといけない。寛容の名において、不寛容に寛容であらざる権利を。
引用-Wikipedia

3.比較検討

一見すると画像での主張とポパーの主張は同じようにも感じられてしまうが、実際には違う。
注目すべき相違部分はここだ。
画像:「不寛容や迫害を説く、いかなる扇動も犯罪でなければならない」
wiki:「私は例えば、不寛容な思想から来る発言を常に抑制すべきだ、などと言うことをほのめかしているわけではない。」


まず、画像の文言「扇動」についてだが、何が扇動で何が扇動でないのかは曖昧ではっきりしない類のものである。
例えば、ツイッターやブログ、ネット掲示板などでの書き込みや発言でも、それを「扇動」であると見なすか見なさないかは”解釈”しだいでしかない。
そして、そのような書き込みや発言を封じようとする際に使われているのが上に挙げた画像だ。
「扇動」とは言うが実際には単なる「言論」でしかない場合の方が多い。
(念のため断っておくが「ヘイトスピーチ」というものが下品で下劣なものであるのはその通りである、それが本当にヘイトスピーチであるならば。)


しかし、wikiの記述によると、ポパーは「発言」を抑制すべきだと述べているわけではない。
「我々が理性的な議論でそれらに対抗できている限り、そして世論によってそれらをチェックすることが出来ている限りは、抑制することは確かに賢明ではないだろう。」
とのことだ。

そして、「力によってでも、不寛容な人々を抑制する」場合というのは、

「彼らは我々と同じ立場で理性的な議論を交わすつもりがなく、全ての議論を非難することから始めるということが容易に解るだろうからだ。」
「彼らは理性的な議論を「欺瞞だ」として、自身の支持者が聞くことを禁止するかもしれないし、議論に鉄拳や拳銃で答えることを教えるかもしれない。」

といったように議論ができる可能性が閉ざされ、実力(暴力)によって行動を起こした時だと言っているのだ。
つまり、不寛容が「言論」である限り、それは許容されるべきであるという趣旨になっている。

不寛容な者達に対する反対者の自由を「鉄拳や拳銃」で禁じようとしたときについて、「不寛容な者達を寛容しない”権利”を要求するべきである」と述べているのである。

3.不寛容な者達に対して

1.マルクス主義


『開かれた社会とその敵』で自由の敵として想定されているのはヘイトスピーチではなく、マルクス主義による共産党独裁である。
つまり、当該部分を援用して言えるのは、暴力革命を引き起こすような思想に対する不寛容であって、ヘイトスピーチ(言論)のことではないのだ。
ポパーは暴力革命が強い現実感を持っていた時代に生きていたため、それが実行される段階であるならば「たとえ力によってでも、不寛容な人々を抑制する権利を我々は要求すべきだ」と主張したのだろうと考えられる。

2.私の立場

表現規制言論の自由への抑圧としてよく対象とされるのは「ヘイトスピーチ」だと思う。
まず、何を持ってそれを「ヘイトスピーチ」と判断するかも恣意的なものになっているのが問題だ。
このような類のものは”解釈”しだいでどのようにも意味付けができてしまう。
ひとまず、本当にそれが「ヘイトスピーチ」だとするなら私はそれを軽蔑されて然るべきものだと思う。
当然、私はそのようなものに与するつもりはない。
しかし、そうであっても彼らが議論(対話)の可能性を開いており、暴力的な実力行使に及んでいないのならば、その「言論」自体は抑圧するべきではないと考える。