ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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文法、弁証法、無意識、欲望―――『思考の用語辞典』を読んで⑥

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



文法

グランマは「文字」というギリシア語だ。
ここからグランマティケー・テクネ―「文字についての技術」できた。
テクネ―の方を落としてグランマティケーで「文法」となる。

近代に入るとデカルトライプニッツがすべての人にすぐ理解できるような「普遍の学」を構想した。
すると言語学の方でも「普遍文法」があるのではないかという信念が広がり始める。
普遍文法、そんなものが本当にあるのか?

ニーチェは、人間が文法を信じている限り神はなくならないだろうと言ったそうだ。
ここでいう「文法」とは、日常で使う言葉の外側に正しい使い方を決める規則があって、それに照らして正誤が判別されるというようなもの。絶対に正しい外部の規範だ。
こういう考え方を否定するために、ニーチェは、それぞれの個人にただ一つのパースペクティブという概念を提示した。

ウィトゲンシュタインは、普段の言葉こそが最終の拠り所だと言っていた。
日常言語のどこか外に「正しい文法」とか」「正しい言葉」のようなものがあるわけじゃない。
ラッセルやフレーゲのいうような、日常言語は不完全で論理的な言語こそが理想的な言語であるとするような考え方とは逆だ。
どうも哲学には「隠されている本質」みたいなものを探究する傾向が強い。その傾向は危険だとウィトゲンシュタインはいう。
こういった本質への問いにたいし、彼は「家族的類似性」という似たような使い方を1つの家族のようなグループにまとめる「ゆるい定義」を提示した。

言語学の分野ではチョムスキーが昔の「普遍文法」の考え方を生かそうとした。
幼児が言語を習得するプロセスには、ある普遍的なものがあるはずだという確信があるようだ。
クワインの「翻訳は不可能だ」という議論やウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の理論と真っ向から対立している。

クリスティヴァは、テクスト自体の生成の力について考えた。
読むことのできるフェノテクストの背後に、そのテクストを生み出し続ける「ジェノテクスト」があるという。
彼女は、文を生み出すのは文法のようなものではく、文の構造に先立つもの、そして、「わたし」と語る主語の生成に先立つ力のようのものだと考える。これが文法的な規範を逸脱し、創造性を発揮するのだ。


弁証法

弁証法の語源は、分けて語る(ディアレゴー)というギリシア語の動詞だそうだ。
そして、ディアレクティケー・テクネ―(分けて語る技術)のテクネ―が落ちてディアレクティケーだけが残った。
この「分けて」には、語り手が分かれる、という対話的な意味と、1つの事柄を分解するという弁証法的な意味がある。

弁証法は分解と綜合の手続きに基づいた思考の道筋だ。
まず、ある事柄の特徴を示す「テーゼ」をおく。
次に、最初のテーゼに対立する否定の手続き「アンチテーゼ」をおく。
最後に、この2つのテーゼを包括できる第3のテーゼとして「ジンテーゼ」が考えられる。これが綜合の手続きだ。

プラトンはこの対話法を思考の技法まで高めた。
特に、考えるための最初の切り口、切断の手続きが大事だと考えていたようだ。
その最初の切り口をどのようにするかで、その後の議論が決定されるからだ。

第3の綜合の手続きを重視したのがヘーゲルだ。
この弁証法では、第3の綜合のテーゼに向かう「契機」として、テーゼとアンチテーゼはいずれも否定されながら存在する。
この「契機」をヘーゲルは「止揚」と呼んだ。
第3の項において、否定しあう要素は和解する。

レヴィナスは、ヘーゲル弁証法の世界が完結したものとして閉じられていることを指摘する。
そこに思考の他者は存在しえない。
ヘーゲル弁証法が同一性の原理の下に、他者の施行を放棄している点を批判しているのだ。

キルケゴールは、ヘーゲル弁証法止揚が、あまりにも簡単に成就していることに不満を感じていた。
世界の矛盾は、こんなに簡単に和解できるはずがなく、止揚も不可能だと考える。
弁証法とは、むしろ、この絶対的な対立関係を提示するためにあるのだという。

アドルノも、第2の否定の手続きを重視しながら、閉じた同一性の世界を構成しない弁証法を考えた。
これを「否定弁証法」と呼ぶ。
綜合という手続きによって、否定的な事態にある矛盾の輝きを覆い隠すのは、思考の整合性を求めるあまり、現実の事実から眼をそらせることだと考えたようだ。

メルロ=ポンティは、弁証法から閉鎖性を取り除こうとした。
ヘーゲル弁証法では絶対精神という終点が想定され、その位置から思考の運動が眺められている。
メルロ=ポンティは「俯瞰的な思考」を否定する。
それは、思考の運動を外側から眺める視点を想定し、思考の到達点を初めから「知っている」ことになるからだ。
彼の構想する「超弁証法」は、存在を定立、反定立、綜合によって再構築するのではなく、生成する場において存在を再発見することを目指すものだ。


無意識

心の中に意識には上らない何かがある。
そんな無意識を古代の人々は知っていた。
しかし、哲学の分野では長い間にわたってこの概念が顧みられることはなかったようだ。

無意識について本腰を入れて調べ上げたのはニーチェだろう。
彼は哲学の体系のうしろに様々な無意識があることを嗅ぎつけた。
特に、キリスト教社会の道徳の背後に隠された無意識に似たものの力としてはルサンチマン(怨恨)が代表的だ。
力をもたない弱者である人々が、怨恨にかられて屈従と忍耐の道徳を作り上げた。

フロイトはこのような無意識の仕組みを理論化した。
人の心の中には無人称のような動きがあり、これをニーチェのテクストを参考にしてエスと呼んだ。
無意識は、心の病として現れるだけではなく普段の暮らしの中で失錯においてもあらわれている。

近代哲学は、人間の意識に結ばれた像である「表象」の確実性を拠り所にしていた。
だから無意識という概念自体が、近代哲学に対し異議申し立てを行っていることを意味する。
言語学文化人類学、そして精神分析学などが、その大きな流れを代表するものだ。

例えば、言語学ではソシュールが、言語表現の背後に無意識のような「ラング」の体系があることを示した。
この構造主義言語学は、「語る主体」から主体としての権能を奪う意味を備えていた。

また、文化人類学レヴィ=ストロースは「社会の無意識」の構造を明らかにした。
社会は、その中の人々が意識していない構造で規定されているという。
いわば集団的無意識で動かされているのだ。
ここにもフロイト構造主義言語学の影響がある。

ユングは、フロイトとは違って個人の無意識を2つの層に分けて考えた。
まず、個人の歴史の中で抑圧されたり忘却された「個人的無意識」。
次に、人類に共通した歴史からくる「集合的無意識」。
後者は、私達の心の中にある共通のシンボルのようなものとして考えられていたようだ。

ラカンは、無意識という心的なメカニズムがあるのではなく、言語表現として現れるだけだと主張した。
無意識の構造は言語の構造と同じ形をしているということらしい。

無意識は1人で思索する者には現れない。それが意識化されるためには他者という回路を潜り抜ける必要がある。

現象学では、自己の意識を探究することだけが真理をもたらすと考える。
そのため、無意識の概念は現象学にとって大きな挑戦となった。
しかし、後に自己の意識を超えた部分を意識化する方法が求められるようになり、無意識的なものを探究する必要性が出てきた。
晩年のフッサールの概念「生活世界」がそれを示している。

メルロ=ポンティは、意識の手前に人間に共通した「肉」のような無人称の世界を想定した。
主体が主体として成り立つ前の共通の場、それが「肉」だ。
個人はこの「肉」を受肉した存在だと考えた。

レヴィナスは、主体の背後に存在の過剰な場があると考え、これを「イリア」と呼んだ。
主体がイリアという主体以前の場から誕生するためには、他者という時間的な存在が必要だという。
だから、無意識は単に主体の自我の内で抑圧されている部分にすぎないわけではない。
それどころか主体が成り立つ場なのだ。


欲望

プラトンによると、欲望とは自らに欠けているものを追い求めることだそうだ。
エロスが美を求める、それはエロスには美が欠けているからだ、と。

欲望はしばしば人間の生理的欲求として考えられている。
しかし、欲望と欲求は同じものではない。
ものを食べれば食欲はおさまる。欠如と充足のプロセスだ。
生理的な空腹を満たすのは単に必要に迫られてのことだ。
それだけではなく、手の込んだ調理法とか、ややこしい食事の儀式などのように欲望は単なる欠如を埋めるだけのものではない。

スピノザは、自らが存在するための目的にかなうものを欲望するのが自然であるとし、それを善と呼んだ。

さらにニーチェは、人間が道徳の体系や理性によって抑え込まれた生を回復する力は、理性や道徳を否定するような「欲望の力」からしか生まれないという。

スピノザニーチェは、拒んでいた。人間を精神と身体に分離することや、欲望を身体の領域に割り当てること、そして欲望を欠如という見方から考えることを。

フロイトは、人間の思考そのものが欲望とその制御の中にしか発生しないと考えていた。
人間から欲望を取り除くと社会そのものが成り立たなくなる。
人間の社会は最初から「欲望の体系」だという。

ドゥルーズは、フロイトの概念を拠り所に、赤子の口と母親の乳房、肛門と糞などが、「機械」のようなメカニズムとして働くと述べた。この機会が欲望すると考えたのだ。
ドゥルーズが目指したのは、ファシズムのような形で人々の欲望が組織されるのを防ぐ方法を見つけることだった。

ラカンも示した通り、欲望は他者との関係と分離できない。
単独では生まれずに、他者の「欲望の欲望」のような形で引き起こされる。

レヴィナスは、欲望が個としての主体を常に超越していくもであると考えていた。
欲望は過剰なものを求めていく。