物理学の発展―――『人物で語る物理入門(下)』を読んで
物理学に寄与してきた人物を取り上げながら科学の発展を見ていく本。
著者は米沢富美子(理学博士)。
岩波新書。
2005年第1刷。
一般相対性理論
マックス・プランク(1858~1947)
すべての温度領域でのエネルギーの分布を「1つだけの式」で表現できないかを探していたプランクは折衷式の形を見つけ出した。これは「プランクの放射式」と呼ばれている。
自分が見つけた公式に理論的な意味を与えるため「原子論」に思い至る。
エネルギーの取りうる値を「等間隔でとびとびの値(つまり、最小単位がある)」として見ると、プランクの公式が見事に導かれた。
この考え方は「エネルギーの量子仮説」と呼ばれるようになる。
プランク自身は物質の連続性を信じていたエネルギー論者だったため、光の連続性を信じており「エネルギーの量子仮説」は便宜上導入したものであって、物理的実体はないと考えていたようだ。
光電効果
金属などの固体表面に光を照射すると、個体が光を吸収してその表面から電子が放出される。この現象を「光電効果」という。
注目すべき点は、放出される電子のエネルギーが、照射した光の<強さ>には依存せず、光の<振動数>に依存するという事実である。これは光が波だとする立場では説明がつかない。
アインシュタインは、プランクの仮説にしたがって「不連続な値」は振動数に比例すると考えると上手く説明できること見つけた。この不連続なエネルギーを持つ粒子を「光量子」または「光子」と呼ぶ。
ブラウン運動
エネルギー論者は原子論を否定する根拠の1つに「原子を見た人が1人もいない」というものがあった。
当時はナノメートルサイズを見ることが出来る顕微鏡がまだなかったのだ。
アインシュタインは、顕微鏡でも見られないナノスケールの原子や分子が、ミクロン粒子に衝突した結果、ミクロン粒子の運動が起こっているのだと考えた。
ブラウン運動を利用して、目に見えない原子の実在を検証する実験を提案したのだ。
ジャン・ぺラン
アインシュタインの論文を受けて、ペランは1908年に元素の存在を実験的に検証し、原子の実在性は誰の目からも疑いの余地がないことを示した。
マリアン・フォン・スモルコフスキー(1872~1917)
詳細なブラウン運動の理論は、アインシュタインに先駆けてスモルコフスキーが達成していたが、論文の発表は遅れた。
彼は、原子観の定着や統計力学の構築にも寄与しており、特に、温度や密度が平均値とズレた「ゆらぎ」があることを指摘したことは大きい。
この「ゆらぎ」現象に基づいて臨界蛋白光を理論的に解明し、また、「空がなぜ青く見えるのか」についてのジョーン・W・レイリー(1842~1919)の理論も実証した。
ジョージ・F・B・リーマン(1826~1866)
リーマンが体系づけた曲面上の幾何学を使って、アインシュタインは一般相対性理論を構築することになる。
アインシュタインは自伝のなかで、リーマン幾何学を紹介してくれたグロスマンに深い感謝の意を表している。
一般相対性理論
等速運動という特殊な運動を対象とした特殊相対性理論とは異なり、一般相対性理論では、加速運動なども含めた、すべての運動を考えた<一般の系>にも使えるものだ。
一般相対性理論は2つの原理に基づいている。
(1)一般相対性原理
(2)慣性力と重力の等価原理
一般相対性原理とは、「任意の系(等速運動の系、加速運動の系など)において、自然法則は同等である」ことを要請するものだ。
慣性力と重力の等価原理は「慣性力」と「重力」とが区別できないものであることを述べている。
質量をもつ物体から「重力」が働くのは、その物体が周辺の空間にひずみを引き起こす結果だと説明される。
特殊相対性理論からは「動いている時計は遅れる」という結論が出されたが、一般相対性理論からは「重力が大きいほど時計が遅れる」という結論が導かれる。
量子論
アーネスト・ラザフフォード(1871~1937)
原子核の存在を実験的に発見し、それに基づいて原子モデルを理論的に考案した。
そのモデルは、原子の中心に原子核があり、その周りを複数の電子がまわっていると考えるものだ。
ボーアによる新しい原子モデル
ラザフォードの原子モデルには、重大な困難がある。
回転運動をする電子は光を放出して次第にエネルギーを失い、やがて原子核に捕らわれて原子は崩壊することになる。
ボーアは、ラザフフォードのモデルに量子論を導入して軌道の半径もとびとびの不連続な値しかとれないと考えた。
電子が1つの軌道からエネルギーのより低い軌道に移ると、原子から光が放出される。一方、原子が光を吸収すると電子はエネルギーの低い軌道から高い軌道へ飛び移る。
原子が放出する光のスペクトルを「原子の線スペクトル」と呼ぶ。
ジョーゼフ・J・トムソン(1856~1940)
トムソンによって、電子は粒子の形ではっけんされた。
負の電荷を持ち、その電荷の大きさは観測される電気量の最小単位であることが示されており、「電気素量」と呼ばれている。
ルイ・ド・ブロイ(1892~1987)
ブロイは電子の波動説を提唱し、これを1927年に実験的に検証した。
電子以外にも、一般に原子スケールのミクロな粒子には波動性が付随することを提唱し、物質が持つ性質として「物質波」と呼ばれる。
ヴェルナー・ハイゼンベルク(1901~1976)
ハイゼンベルクは、水素原子の線スペクトル「強度」の計算を研究する。
ボーアの量子論では、線スペクトルにおける「波長」は計算できたが「強度」に関しては古典力学を借用する形になっていた。
対応原理に則って、古典力学の方程式の中の「通常の変数」を「行列の変数」で置きなおし量子条件を加味して、水素原子スペクトルの「波長」と「強度」の両方の導出にせいこうした。
エルヴィン・シュレーディンガー(1887~1962)
シュレーディンガーは、ブロイの物質波のかんがえを更に発展させて、電子の運動状態を記述するための波動方程式を提案した。
量子力学における「波長」と「強度」が比較的簡単に求めやすい、基礎的な方程式となる。
ポール・ディラック(1902~1984)
ハイゼンベルクの論文から、彼の仕事がまったく新しいパラダイムに属することを読み取り、オリジナルな理論として書き下した。
位置、運動量、エネルギーなどの「観測可能な物理量」に対するこの理論は「q数代数」としてしられるようになる。
また、シュレーディンガー方程式に欠けていた、電子のスピンを説明できる相対論的量子力学を提唱する。
そして、ディラックは「陽電子(電子とは電荷の符号が逆)」の存在を予言し、陽子の反粒子である反陽子の存在も示唆する。
カール・アンダーソン(1905~1991)
1932年、アンダーソンによって陽電子は実験的に発見される。
不確定性原理
ハイゼンベルクは数学と思考実験の両方から、粒子の位置とその運動量を同時に測定しようとすると、どうしても誤差が生じりゅしに関する情報が不確定になるという「不確定性原理」を発見する。
ピエール・ラプラス(1749~1827)は、「ある瞬間における粒子の位置と運動量が精密に分かっていて、かつ、この粒子にかかる全ての力を知ることが出来るなら、その粒子の未来における運動は、ニュートンの運動方程式よって完全に決定される」と述べていたようだ。
だが、量子力学的な粒子に関しては、未来どころか、現在でさえも細部にわたって知ることが出来ない。しかも、現在と未来の因果関係は失われ、量子力学的な法則は「確率的」な性格を持つことになる。
そして、不確定性原理は、粒子の「<位置>と<運動量>」の間のみでなく、「<エネルギー>とそのエネルギーを測定する<時間>」の間にも成り立つことをハイゼンベルクは示した。
宇宙の果て
エドウィン・ハッブル(1889~1953)
ハッブルは、アンドロメダ大星雲内に見出したセファイド(変光星の一種)の解析により、地球からアンドロメダ大星雲までの距離を約90万光年と決定した。その距離が、私たちの銀河系の直径より大きいということは別の銀河であることを示している。それまでは私達の銀河が宇宙の全てだと考えられていたため、別の銀河があるということは驚くべき発見であった。
ヴェスト・スライファ―(1875~1969)
銀河系外の45個の銀河を調べて、ほとんどの銀河が地球から遠ざかっていることを発見した。
原子核物理学
アンリ・ベクレル(1852~1908)
ベクレルはウラン鉱石を使った実験から「ウラン鉱石が透過性の放出線を出す」ことを見つけた。
ここで「放射能」が見つかっていたわけだが、ベクレルはその重要性に気が付いてはいなかったようだ。
マリー・キュリー(1867~1934)
キュリーは、当時あまり注目されていなかったベクレルの放出線を博士論文のテーマに選んだ。
ベクレルが「ウラン線」と名付けた「放出線」はウラン特有のものではなく、他の物質にも見出される一般的な現象だということを発見した。
ジェームズ・チャドウィック(1891~1974)
チャドウィックは、ボーテと同じ実験をし、この粒子は「中性子」であると主張して、すぐにその正しさを実証した。