ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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国連幻想と戦争―――『国民のための戦争と平和の法』を読んで①

国連や国際法、そして戦争と平和について書かれた本。
著者は小室直樹(法学博士)と色摩力夫(元外務省官僚)。
総合法令。
1993年初版。




国際連合

国連のエッセンス

国連の正体は何か。
(1)軍事同盟である。
(2)アメリカのものである。すなわち、国連、国際連合(The United Nations)とは、アメリカ中心の軍事同盟です。
これが国連の本性ですが、米ソ冷戦を利用して、その本性をずっと隠しおおせてきた。
(P.6)

国連の本性は、機能的に言うと、さらに重大な本性は、
(3)欧米流の「正義」を、誰にでも無理強いする。
この本性です。
アメリカの政治学者ラスウェルは「正義は危険である」と言いました。ラスウェルだけでなく、多くの政治学者が同様の事を言っています。
(略)自分が奉ずるイデオロギーだけが絶対に正しく、他のイデオロギーは絶対に誤りである。
必ず、こうくるのです。
(P.8~P.9)

さきに、「正義は恐ろしい」と言いました。が正義とともに、誠意も恐ろしい。
(略)自分が相手のために誠意をもってやってやっているんだと信じ込んだら最後、相手の気持ちや望み、相手の状況が目に入らなくなってしまいます。相手が、迷惑がりでもしたら、それこそたいへん、聖なる怒り(sacred wrath)が相手に向けられ、相手が悪魔に見えてきます。宗教戦争における異端者のように。
(P.14)

今でも、日本人の間では国連を理想的な平和のための組織だと思い込んでる人が多いかもしれない。
実際は軍事同盟であり、しかもアメリカのような大国の強い影響下にある組織なのだ。
さらに、その機能としては、いわゆる「先進国」の価値観(自由、平等、人権、民主主義)というを「正義」押し付ける働きをしている。当事国の歴史や文化に基づいた価値観を考慮していない。
(日本も含めた)先進諸国は「誠意」をもってやっているだけに、なおタチが悪い。


ハマーショルドの6原則

PKF(国連平和維持軍)は局地戦争を仲裁するために暫定処置として発明されたものだ。
借りのものであるので正式の法も制度も整備されてはいないが、原則が何もないというわけではない。
ハマーショルドの6原則というものがあったそうだ。

①紛争当事者の同意
②中立の厳守
③内政不干渉
④安全保障理事国からはPKFを派遣しない
⑤PKFは各国から平等に構成する
武力行使は自衛のためにかぎられ、自衛権発動のため条件を厳重にしておく

となっていた。
しかし、ソマリア内戦では、これら諸原則は守られることはなかった上、PKFが米軍の指揮下にあることも明らかになった。


国際連盟国際連合は違う

国連は平和的手段によって解決が出来なければ、軍事的措置によって解決する。つまり、戦争を行う組織なのだ。
その説明としては、国際連盟の失敗を繰り返さないためだとされている。
国際連盟第一次世界大戦に対する反省を契機に誕生したが、独自の軍事力を行使するようにはできていなかった。
そのため国際連盟は、第二次世界大戦の勃発を阻止するために何の役にも立たなかった。
この教訓に鑑みて、国際連合は軍事力を持つことで、侵略者、平和を破壊する者を軍事的に阻止できるようにした。

この説明は完全に間違いではないが、正確というわけでもない。

国際連盟が軍事力をもたず第二次世界大戦の勃発を阻止できなかったことや、国際連合が軍事力を持っていることは正しいが、上記の説明だと国際連盟国際連合が組織として連続性を持っているかのように見えてしまう。
実際には国際連盟の後継として国際連合があるのではなく、全くの別組織なのだ。

国際連盟は建前としてではあっても一応ユニヴァーサルな機関を志向していたが、国際連合の方はそれを目指してもいないし、その準備もない。

押さえておかなければならないのは国際連合は、国際紛争を解決するための手段として、究極的には軍事力に拠らなければならないということに気づいたという点だ。


安全保障理事会と拒否権

国連が戦争をするかしないかは安全保障理事会が決める。
どの国のどのような行為が「平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在」なのかは、安全保障理事会が勝手に決める。
安全保障理事会は15の国連加盟国からなるが、その中でも5つの常任理事国に付与された「拒否権」は大きな力がある。

つまり、国連は軍事力を持ち、その力の行使は大国の意志によって恣意的に振るわれ得るものだということだ。
国連は国際社会の総意を体現するものでもなければ、中小国たちの同意を得て形成された国家の上位機関でもない。


平和主義者が戦争を起こす

PKOは戦争

Peace Keeping Operationを「平和維持”活動”」なんて訳すのが間違っていると著者はいう。

”Operation”とは作戦(活動)。せめて「平和維持作戦」と訳せば意味はスッキリします。正訳は「平和維持戦争」です。
作戦(オペレーション)をして血を流さないですむなんて思うことは、血を流さないで手術(オペレーション)をするということと同じです。
(略)平和を維持するためには戦争が必要である。
これ、実に、国際政治学の大定理でしょう。
(P.72)

国際紛争を解決するためには”最終的な手段”として「戦争」が必要になる。平和とはそのように維持されているということだ。

平和主義者(パシフィスト)

「戦争よ無くなれ」とみんなが念じても戦争は無くならない。

平和主義者(Pacifist)が戦争を起こした。
これは、チャーチルの家言であり、色摩力夫氏が20年前から唱えられてきた説です。わたくしも同意。
(P.73)

「平和主義者」とは、第一次世界大戦第二次世界大戦との中間のときにヨーロッパで跋扈した輩である。
何が何でも戦争反対。「戦争」と聞いただけで条件反射する。
そのような人達が多数派を占めていたためにヨーロッパではナチスの台頭を許してしまった。
ヒトラーは平和主義者の主張を逆手にとって武歩を進めていった。

再軍備宣言、ラインラント進駐、ザール併合・・・・・・オーストリア併合。
第三帝国は伸展に発展を重ねる。
チャーチルは、一撃を加えて、ヒトラーを打倒することを主張しました。
もし、ヒトラーがラインラント進駐したとき、フランス軍が動員していたならば(このとき、フランスの軍事力行使は、ヴェルサイユ条約によって合法的であった)、ヒトラーは没落していたであろう。
今や、これは定説です。
が、当時、ヒトラーヴェルサイユ条約蹂躙を、武力で阻止しようとした国はありませんでした。
ヨーロッパ諸国においては、平和主義者の勢力が強すぎたからでした。
(P.75)

事態の深刻さの度合いが小さい内に戦争をして問題を解決しておくことが、後々の大きな戦争を防ぐことになるということが歴史的に実演されていたということだろう。上記の例で言えば、平和主義者のせいで第二次世界大戦を未然に防ぐチャンスを失ってしまった。
ヒトラーは、平和主義者に対して「戦争をする」と脅せば、どんな要求でも通ることを覚ったのだ。

チェコスロバキアの要衝ズデーテン・ラントを要求した際にも、イギリスの首相であり平和主義者のチェンバレンは、戦争をしたくない一心で、それを受け入れてしまう。歴史上有名なミュンヘン会談でのことだ。

1940年にフランス軍がドイツ軍に完敗して降伏した時、チャーチルは言ったそうである。
この戦争はすでに、1938年、ミュンヘン会談において敗けていたんだ、と。
もう少し早くヒトラーに戦争を仕掛けていれば、第二次世界大戦はしなくてすんだであろう。

ケネディは若いころミュンヘン会談について論文を書いていたほどだという。
ミュンヘン会談の教訓を学んでいたケネディは、「戦争をする決意こそが平和をもたらす」と論じている。
実際に、この教訓を生かして、ケネディキューバ危機の際は圧勝する。

キューバ危機以後のアメリカはずっと、全面核戦争の準備を怠らなかった。もちろんソ連のほうでもそうだった。
その結果、米ソの間に核戦争はついに起きなかった。核戦争も辞さないとの決意こそが核戦争を食い止めた。

戦う決意をすれば平和が得られ、平和を唱えると戦争になる。これが国際政治の大定理である。


戦争の本質

戦争は文明の産物

「戦争」は、人間の破壊本能が剥き出しになって、やたらと殺し合うといった野蛮状態に陥ることではない。
「戦争」とは文明的制度の1つだと著者はいう。

戦争は、人間が長い歴史を通じて考察してきた制度の1つなのです。文明の生み出した一種の果実です。それは、「国際紛争の解決のための1つの手段」であり、しかも、その「最終手段」であると定義することができます。ここに、戦争の文明史的本質があるのです。
(P.95)


戦争は悲惨な状況をもたらすことは誰もが知っている。古今東西、戦争をなくしたいと思う人々はたくさんいた。
しかし、過去も現在も戦争はなくなっていないし、近い将来みついても戦争が無くなるような兆候はみられない。
これは、私達人間がもつ戦争忌避の気持ちが不十分だからでもないし、努力が足りてないからでもない。
戦争という制度の文明史的本質を十分理解して、それを踏まえた努力をしていないからであると著者は主張する。

では、戦争の文明史的本質とは何か?

①戦争は個人の心の中の問題ではない。心の問題であれば願うだけでとっくに戦争は無くなっているはずである。

②戦争は制度であるがゆえに、社会的な問題である。個人の意向は直接関係がないし、個人が集まっただけで社会が形成されるわけではない(社会は諸個人に還元し得ない)。

特に②についての「全体>部分の総和」(社会全体は社会の部分の総和を上回るもの)という点は理解しておきたい。

社会が成立するには、多数の構成員がいて長期間の共同生活の結果、各個人の意向に分解しきれない何ものか、即ち「社会的なもの」が生まれてこなくてはなりません。社会的なものの本質は「慣習」です。社会には一束の慣習の体系が支配しています。慣習は非合理で横暴です。個人は慣習に反抗することはできますが、そうすると必ず多かれ少なかれペナルティを受けます。(略)慣習は不変不動なものではありません。変わりうるのです。
(略)より効果的な別の慣習を成立させて、古い慣習に置き換える他はないでしょう。古い慣習はいやだと言って否定するだけでは、問題は解決しません。
(P.97~P.98)

社会とは、ただ個人が集まっただけのものではなく、「社会的なもの=慣習=制度」の束なりによって1つの全体としてまとまりを持っている。
それを要素還元主義的な方法によって、諸個人の集合としてとらえると1つの社会全体としての振る舞いは見えてこないのだ。


戦争の区別

戦争の文明史的本質をずばり言い当てたのが、スペインの哲学者オルテガの、「戦争とは、国際紛争解決の最終手段である」という定義です。なお、ここで戦争という場合、「あらゆる戦争は、例外なく」と理解せねばなりません。文明論的見地からすれば、戦争を政治的理由で分類し区別するのはナンセンスです。
(P.99)

国際社会は1928年の「不戦条約」以来、戦争を区別するという過ちを犯してきたと著者は指摘する。
国際紛争解決の手段としての戦争放棄に例外を持ち出した。

(1)自衛のための戦争は当然除外される
(2)多数国間の安全保障のメカニズムによる武力行使即ち戦争もこの条約外にある。

簡単に言うと正しい戦争、正義の戦争はしてもいいということだ。
このことにより「戦争放棄」は全くの無意味なものとなっている。
まず、自国が行う戦争を「悪」や「侵略」だと言いながら始める国なんてない。どの国も「正義」や「自衛」のために戦争を始める。
さらに、ある戦争は「正義」や「自衛」で、また別のある戦争は「悪」や「侵略」であると決めつけてもいい特権的な機関は存在しない。諸国家を支配する上位の権力機構が存在しない以上、何が「正しい戦争」かを決めることは出来ない(国連は世界連邦政府ではないので「正しい戦争」を判断する権利はない)。
「主権絶対の原則」や「主権平等の原則」の支配する国際社会では、主権国家の数だけ正義がある。

戦争は、例外なく国際紛争解決のための最終手段であると明確に割り切らないと、戦争の本質を見誤ってしまう。

戦争をやめるには

戦争をやめるために、飽くまでも”理論上”の解答としてなら単純である。

(1)国際紛争そのものを無くす。
(2)戦争より合理的で実効的な別の解決手段を考案する。

(1)について、どんな社会でも人間が生きていれば、不和、摩擦、軋轢、もめごと、対立があり、家族、地域社会、国民社会、国際社会にも必ずこのような紛争が発生してまう。人が生き続ける限り紛争は無くならない。
では、(1)は空論なのかというと必ずしもそうではない。戦争という最終手段に訴える前に解決できれば良いのだ。
最も最悪なのは、紛争を解決せずに放置することである。これは戦争よりもひどい平和の破壊となる。
「紛争は解決せらるべし」とは文明の要請する至上命令である。したがって、国際紛争を最終手段(戦争)を用いる前の段階で外交などにより解決するよう努力することは、紛争当事者としても国際社会としても非常に重要なことなのだ(もちろん解決できない事もあるため、最終手段としての戦争の選択肢は温存されている)。

(2)について、現在のところ、戦争以上の合理的で実効的な紛争の解決手段は存在していない。
だからこそ、国際社会ではやむを得ず、かくも否定的でかくも悲惨な、戦争という手段を用いざるをえなかったのだ。
多くの人達が考えていることだと思われるが、見つかりそうな兆しすらないというのが現状だ。
世界政府が生まれたとしても解決はされない。なぜなら、その紛争は国際紛争から国内紛争に変わるだけだからだ。
最終的な手段として武力が用いられることに違いはない。
また、世界連邦の萌芽が「国連」だと考えている人もいるかもしれないが、それはとんでもない勘違いである。