ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

読んだ本や、見たアニメについての感想

多層的な現実を見直すために―――『「子どもの目」からの発想』を読んで

児童文学の分析を通して人間の心の奥深さに接近を試みた本。
著者は河合隼雄深層心理学者)。
講談社+α文庫。
2000年第1刷。




児童文学

子供のための読み物ではない

児童文学は子供のための読み物だと思っている人が多いと思う。
だが、著者はそうではなくて、「子どもの目」と通して見た世界が表現されている文学だと主張する。
大人になっていくうちに身につけた意識、理性、合理といった「マジメ」な在り方では見逃してしまう大事なものを訴えかけているのが児童文学なのだ。
人間の無意識に存在している奥深い意味を見逃さずにキャッチするには「子どもの目」を通して見るしかない。
そのために児童文学は大きな価値をもっている。大人こそ「子どもの目」を通してその意味の深さを見つめなおさねばならない。

二重の意味

著者は『ヒルベルという子がいた』を取り上げ、マジメな大人は大事な意味を見逃すことを示している。

ヒルベルは9歳の男の子で、浮浪児や、親の手におえなくなった子を一時的に収容する「ホーム」にいる。
(略)このホームにはじめて務めることになった若い女性のマイヤー先生とヒルベルの最初の出会いは印象的である。
(略)彼女がたんすの戸を開けると、ヒルベルは裸で、パンツをボールのようにまるめて持っていた。ベットにいくようにやさしく接するマイヤー先生に対して、ヒルベルは丸めたパンツに小便をひっかけると、それを彼女の顔をめがけて投げつけたのである。先生はたじたじとなりながらも、少年を叱った。しかし、その後、先生はヒルベルを好きになった。
(略)自分の世界に侵入しようとする相手に対して、ヒルベルはもっとも適切な対抗手段をとった。つまり、パンツの弾丸を投げつけたのである。しかし、これはヒルベルのしたことの唯一の意味であろうか。
小便も大便も、あるいは唾なども、子どもにとっては自分の一部であり、自分の分身である。ヒルベルの鋭い直感は、この新任の女の先生を見たとたん、自分の分身を投げかけるに値する人であることを見てとったのではなかろうか。
かくて、小便でぐしょぬれになったパンツは、二重の意味をこめて先生に投げかけられたのである。これに対して、マイヤー先生は見事に反応した。
(略)ヒルベルの勢いにたじろいで逃げだす人もいるし、管理人のショッペンシュテッヒャーさんのようにヒルベルをなぐり倒す人もいるだろう。
(略)もうひとつのタイプの人たちは、子どもを憎んではならない、受け入れねばならないとマジメに信じている。彼らはヒルベルの弾丸をくらったとき、心の中に生じる怒りを無理やりに押さえようとする。この苦しい仕事のためにエネルギーが消費され、ヒルベルの意味深い信号をキャッチする余裕がなくなる。
(P.19~P.22)


少し長くなったが引用した。
上記のように児童文学は「子どもの目」を通して見ると意味深いものが表れていることに気づかされる。

さらに著者は、ヒルベルが裸であったことについて、このような解釈を行っている。

ヒルベルがマイヤー先生との最初の出会いにおいて、真っ裸であったことはきわめて象徴的である。ヒルベルは現実の表層を覆ている常識という衣服を取り去って、異次元の現実を大人たちに露呈する役割を持っているのである。
(P.30)

子どもの目は大人の目のように常識によって曇らされていないので、現実の多層性を見抜く力を持っている。
そこに児童文学の存在意義があるのだ。

うそつきでいたずら者でも大切

カニグズバーグ作『ジョコンダ夫人の肖像』には、レオナルド・ダ・ヴィンチに関する2つの疑問に答えを示した。
2つの疑問とは、王侯貴族から肖像画を描くようせがまれたとき、何故よりにもよって名もなき商人の2番目の妻(モナ・リザ)を描いたのか。もう1つは、ウソツキで泥棒までする少年を長い間自分の傍におき遺言に書き残すほど大切にしたのか、である。
カニグズバーグの回答は、この少年サライこそ、ダ・ヴィンチが不朽の名作「モナ・リザ」を書き残す道を用意した人間なのだという。

学者達と議論した後、ダ・ヴィンチは自分は彼らほど本を読んでいない。本を読むことは大切だとサライに言うと少年は、本ばかり読んで現実を見ていないことをなじる。「あいつら、馬に小便ひっかけられたって、どうして濡れたのか、本で見なくちゃわからないのさ、なんだい、あいつら―――」といった具合である。レオナルドは頭を振り上げて笑った。

ただ、最後に、サライがレオナルドに対して持つ意味を、ベアトリチェがいみじくも言い表している言葉をしょうかいしておくことにしよう。彼女はサライに対して、「おまえのレオナルド先生は、おまえのもっている何かを必要としているのよ。おまえの粗野なところと、無責任さが、必要なの。」と言う。彼女はレオナルドには「荒々しい要素」が必要だと言うのだ。
(P.35~P.36)

抜き書き

印象に残った部分だけ抜き書きしていく

車椅子で出かける「わたし」をじろじろと見る人に、「わたし 宇宙人と ちがうでェ」、「怪獣でもないで」とプロテストする。これを読んで、われわれは今江の言う通り「背筋がきゅんと」なるのだ。素晴らしい文学はわれわれの身体にまで作用を及ぼすのだ。
(P.40)

すべての素晴らしい作品は、その底に何らかの叫びを内在せしめている。と言えるかもしれない。ただ、その叫びは生のままで読者に投げかけられるのではなく、作者の人格を通して濾過され、作品となって、人々に語り掛けられるのである。やはり、書くということは大変なことなのだ。
(P.44)

著者は「それでは自分の体験を書いてごらんなさい。(略)」と言ったことがある。
実際に書いてみると「書くこと」がどれほどむずかしく、苦しいことであるかわかるであろう。自分が「体験」したと思っていること、自分が「知っている」と思っていることが、どれほど不明確であるかが思い知らされるであろう。
(P.47)

作中の人物はそれほど簡単に、作者の意図通りに動くものではない。ここに、創作することの不思議さがある。
(P.50)

ところで、作者というものは、自分の作品中のすべての人物を愛すべきではなかろうか。(略)俗人は俗人なりに、悪人は悪人なりに、その存在の根っこまで、できる限りかかわるのを放棄しないことを愛というのではなかろうか。
(P.52)

相手が子供だということは、大人よりも油断がならないのである。
(略)
わたしが5さいのとき
おとうさんと
おかあさんが
ふうふげんかをしました
でもいまは
そんなことは
わすれています
きょうは 土よう日
あしたは 日よう日
あさっては 月よう日です

どんな大人だって、(略)詩の終わりの3行に、このような表現を出来る人はまずいないだろう。
(略)こうして書かれてみると、それは千鈞の重みを持って迫ってくるのである。
(P.55~P.56)

「人間にとって大切な『個』としての感情を強めるには、その人が守ることを誓った秘密をもつことが一番いい方法である」と分析心理学者ユングは、その『自伝』の中で述べている。そして、このような秘密を持つとき、「多分生涯において初めて、自分自身が主人であると思い込んでいた自分のもっとも個人的な領域の中に、自分よりもより強力な他者の存在することを、目の当たりに顕示されることになる」と述べている。
(P.67~P.68)

人間は新しい変化を体験するためには、相当な苦しみを味わわねばならないのである。
(P.112)

「善意」に取りつかれた人は、他人の気持ちを推し量ろうとすることがない。
(P.114)

彼は戦争に行き、弾丸に当たって、真っ二つに引き裂かれてしまったが、奇跡的にその両方の半分が生きながらえ、その上、片方はまったくの善玉、他の片方はまったくの悪玉になて存在することになったのである。
(P.127)

悪と切り離された「まったくの善」というものはしばしばひとりよがりになる。
(P.129)

ベンとハワードが歩いているところなのだが、ベンとハワードの影の間に、ひとつ小さい影が描かれているのに気づかされる。
(P.132)

「もう1人の私」としての影との接触をうっかり断ってしまったために、大変な悲劇が生じたものである。
(P.134)

このあたり「灰色の男」の手法はまったく巧妙である。お金に比べれば影などまったく非現実的であると思わせて、まず影を手に入れ、続いて、影に比べると、たましいなど目には見えないし、わけのわからぬものだからという論法で交換を迫ってくるのである。
(略)「灰色の男」の道理に従う限り、何も問題はないどころか、それをしない人こそ、馬鹿げているとか、時代遅れとかいわれるのではなかろうか。
(P.137)

それに立ち向かおうと決意するとき、「影」は人格化され、対決し得る対象としての形態をとりはじめ、「もう1人の私」としての姿を明らかにしてくるというのだ。
(P.142)

ここにアイデンティティの難しさがある。それは飽くまで独自でありつつ、他と繋がっていくものでなくてはならない。
この問題の一番わかりやすい解決は、大切な秘密をわけもってくれる他者を見出すことではないだろうか。実際、我々は大切な秘密ほど、誰にも言いたくない気持ちと、誰かに言いたい気持ちとの両方を味わうものである。このとき秘密を分け持ってくれる人は、その秘密の異議がわかり、その秘密を保持してくれる人でないと駄目である。
(P.163)

しかし、このような危機も、ジョージの必死の叫びによってのりこえられる。「ぼくの体ベンジャミン君、ぼくはお前さんを人間にしたい。ぼくが誇りをもって中に住んでいられるような人間に。」とジョージはベンに向かって叫ぶ。
(P.172)

マクシミリアンはその中で、父親の良さを段々と見出していく。
父親の良さを一言で言うと、「・・・のふりをしない人」だった。偉そうなふり、何かを知っているようなふり、親切そうなふり、そんなことを彼は全然しなかった。
(略)このブレザーは彼のアイデンティティを守る鎧のようなものである。しかし、その鎧によって、彼は本当に人と人とが肌で接するという機会を奪われてしまっているのではなかろうか。
(P.175)

しかし、死者の目を逃れることは可能であろうか。
(略)我々が必死になって、何かのふりをしても、死者の目はそんなのをすぐに見透かしてしまうだろう。
(P.181~P.182)

それは、昔話がいかに荒唐無稽に見えながらも、人間の心の成長の過程を深い層で把握したことが描かれているのだ、という認識である。
(P.227)

子供の詩が素晴らしいからといって、子供に詩を書かせればいいというものではない。このような詩が生まれてくるためには、そのような表現を可能にするような場が与えられなければならない。
子供の全く自由な表現を受け入れる先生の態度がなかったら、決してこのような詩は生まれなかったであろう。
(略)このような詩を見ていると、これほど多くの子がこれほど知恵に満ちた言葉を語りながら、どうして大人になっていくと面白くなくなるのだろうかと思われてくる。おそらく大人になるための「教育」というものが、このような言葉を圧殺してしまう力を持っているからではないだろうか。
(P.242~P.243)

つまり父親というのは常に現実規範の体現者の面をもって現れますから父親不在の設定がここで行われているのは意味深いと思います。
(P.252)

それから「鳥を捕る人」。私の想像、ファンタジーになりますが、この鳥を捕る人は、人間たちのたましいを掴まえている人という印象を受けました。
(P.258)

「(略)あれは本当に静かで冷たい。僕はあれをよく見て心持を鎮めるんだ。」
このような直接的に悲しいとか寂しいとかいう表現だけではなく、読んでいる私達がもっと透明な悲しさ寂しさを感じる、絶対的な孤独を感じさせるところがいっぱいあります。
(P.262)

そして誰にも見えないように窓の外へ体を乗り出して、力いっぱい激しく胸をうって叫び、それからもう咽喉いっぱい泣き出しました。

これはあの透明な孤独とは異なり、”この世の”悲しみの表現である。
(P.264)

自我を確立しようとする人は、他人―――それも親しい人―――との分離を体験しなくてはならない。それは悲しく寂しいことではあるが、決して避けることのできないものである。この孤独に堪え得る人は、分離した相手と今までとは異なる次元での関係を再び作り出すことができる。
(P.280)

夢の中では、弟の洋が洋次郎の兄になっていて、その”兄”に向って洋次郎は、「洋”にいちゃん”、おっちゃんはひょっとすると火星人・・・」と話しかけるのだ。佐脇さんの存在は既成の秩序を顛倒させる。兄が弟になり、弟が兄になる。そして、彼はこの世とは異なる秩序を持った世界に住んでいるのである。
(略)トリックスターは策略に富み、行動力、破壊力があり、秩序の破壊者となるが、それによってこそ新しい秩序がもたらされることにもなる。それは低次元においては、単なるいたずら者であるが、高次元においては、英雄または救済者に近似するものとなる。
(P.284)

この物語におけるヨハネスは、多くの点で佐脇さんと類似している。まず、父親の死後、子供達を助ける「忠臣」であること。行動力や策略に富んでいて、トリックスターのお得意である「変装」に巧みであること。主人公を女性と結び付ける重要な役割を演じること。真実を語ることによって、ヨハネスは石化し、佐脇さんは命を失うこと、などである。
(P.286~P.287)

神様であるイソポカムイは目が見えにくいために起こった滑稽な失敗を語って、我々を笑わせてくれます。(略)私は、神様が自分の滑稽な姿を、人間の愚かさの映しとして、またはその拡大図として示してくれているのではないか、と思うのです。
イソポカムイは何も燃えていないのに、我が家が火事だと思いこんで失敗をしました。しかし、多くの人間は自分の家に火がついているのも知らず、のんきに暮らしているのではないでしょうか。
「私の家が火事?馬鹿なことを。見てごらん、何も火は出ていないよ」とその人は言うかもしれません。ところが、実は家の中は「火の車」であったり、子供が「焦眉の急」の中で思い悩んでいた、あるいは奥さんは帰りの遅い夫に対して「怒りの炎」をもやしているかもしれないのです。
イソポカムイは親切にも自分の失敗談を語って笑わせながら、「人間たちよ、あなた達はよくものがみえていますか」、「家の中に火が燃えているのを見落としていませんか」と呼び掛けているのです。
(略)この世の現実は、大人が思い込んでいるほど決まりきったものではなく、それは実に多層的であって、見る見方によっては実にいろいろな姿に見えるのではないでしょうか。
(P.322~P.324)

このお話で「笑い」が生じることも大切なことです。「アッハッハ」と笑うとき、我々は何かが「開ける」のを感じます。それまで、決まりきったものとしていた単層の世界が、今までも考えてもみなかった次元へと開けていくのです。
イソポカムイは自らを笑いの対象とし、大声で笑わせながら、笑った人地に次元の異なる世界の開示を試みようとしているのです。その笑いによって、人間たちの持つこだわり、たとえば、誰の獲物が大きいか小さいか、けんかでどちらが勝つか、などということが一瞬のうちに解消し、そうだ、我々はもっと広い世界に生きているのだということが自覚されるのです。
(P.324~P.325)