ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

読んだ本や、見たアニメについての感想

身体感覚に関する知的雑談―――『話せばわかる!』を読んで

養老孟司と16人の知識人・文化人の対談本。
著者は養老孟司(解剖学者)、他16名。
清流出版。
2003年第1刷。



身体感覚の変化

養老:(オーストラリアの)キャンベラで16年間、日本人のホームステイを受け入れているおばあさんが「私の家に着いた途端、一切外へ出なくなった子がいた」と言う。聞いてみると「広すぎる」と。そこで海へ連れていったら治ったらしい。日本と違ってオーストラリアは空が非常に広いから、一種の広所恐怖症だと思う。

岩合:空の青さも、グラデーションがないような青さですね。日本だと下の方はかすんでいますから。

(P.9)


その土地の環境や風土は、人間の身体感覚に強い影響を与えるようだ。
そのような経験をすれば、普段の生活に戻っても世界の見え方が新しいものになっているかもしれない。

種の分類と系統関係

養老:その典型例がホッキョクグマ(白熊)です。非常に新しいことが分かっていて、系統では、おそらく最後の氷河期に適応してヒグマから分かれている。すると、あちらこちらに生息するヒグマ同士のほうが、白熊の親戚のヒグマより縁が遠い場合があるのです。種の分類と系統関係は違うと言える。
(P.13)


種としては「ヒグマ」同士でも、系統関係をみるとホッキョクグマのほうが近い関係にあることもあるらしい。
そういえば、別の本で読んだことがある(あいまいな)記憶だと、系統上、チンパンジーはゴリラよりもヒトの方が近い関係にあるらしい。毛に覆われた体などを見ると私達人間は「チンパンジーとゴリラ」⇔「ヒト」という見方をしがちだが、生物学的にはむしろ「ゴリラ」⇔「チンパンジーとヒト」となっているらしい(多分)。


イルカの交信

養老:イルカの親子ではコミュニケーションはどうなっているんですか。哺乳類で重要なのは触覚ですが。

神谷:イルカの子供も口を直接つけて吸うのではなく、母親が海中に放出した濃い乳を飲むんです。哺乳類の親子は乳を吸うこともあって、体の接触を求めますね。毛を介して外部刺激を受容するわけで、体毛を欠くイルカとではだいぶ違う。

養老:(略)聴覚だけでコミュニケーションしているのではないか。(略)。

神谷:シャチがグループで行動している最中の音を収録して分析する研究が進んでいますが、グループによって固有の交信をすることが分かっています。いわば、なまりです。つまり、種に共通な交信とそのグループに特有な交信の2つを持っているんじゃないかと。

(P.29~P.30)


シャチにも方言というか「なまり」のようなものがあるというのは面白いと思った。
コミュニケーションに関して、種固有の共通の身体感覚から規定をうけつつも恣意的な独自性が種内に現れるようだ。必然的な要素と偶然的な要素が重なり合った上にコミュニケーションの形式が出来上がっているのだろう。

身体表現の重要性

神谷:結局、言葉に頼りすぎているから誤解が起こってしまう。

養老:これは現代社会を考えるうえで重要なことだと思うんです。日本の社会で”不信”が生まれてくるのは、ひょっとしたら、身体表現が通じなくなったときではないか。親と子、教師と生徒、医者と患者との間でも、動物同士として身体表現で話が通じていれば、不信感などは生じない。だが一旦うまれてしまったら、本来言葉では補えないところにあるから、どう説明しても、どこまでいっても平行線になる。

神谷:ということは、現代人にとって、動物と話すことは更に困難になってしまったわけですね。

養老:動物とのコミュニケーションから、いわば人間に対する反省材料が得られます。ただ私はチンパンジーに言葉を教えるといったことは好きではない。動物には言語を使わずに、猫とその飼い主のように無意識下の身体表現を用いたコミュニケーションにんるかと思います。

(P.33)


身体表現(無意識)⇔言語(意識)として見ており、コミュニケーションは言語のみで成り立っているのではなく、無意識下の身体表現も重要な役割を果たしている。
論理によって了解されることを成り立たせるための足場となる前提条件は、おそらく無意識下の身体表現によっているのだと思われる。
人為と自然、意識と無意識、理性と野生、言語と身体表現などの対立項において、片方(言語)のみに価値を認めるのでなく、もう一方の側の価値も見直すことによってコミュニケーションの”不信”を解決する糸口が見つけられるのではないだろうかと思われる。

人間とは歩く動物である

養老:例えば、歩くのは人間の特徴です。速く走るのは苦手だけれど、長距離を歩くのは動物の中で1番得意なのです。そういうことはほとんど教えられませんね。(略)

田部井:人間は走ることではなく歩くのに向いている。そう痛感しながら、山を登っているのです。

養老:だから、アフリカで発生して南アメリカまで行けたのです。あれは歩いて行ったに違いない。アジアを通って北米を経てアメリカ大陸の南の果てまで。

(P.45)


長い時間をかけて歩いたからこそ遠くまで行くことができたということだろうか。
人間は走ることよりも歩くことを得意とする動物らしい。
そういえば、『ヒト―――異端のサルの1億年』島泰三中公新書)には、日本人の近縁として南米パラグアイの先住民グアラニ人がいると述べていた。パラグアイはブラジルとアルゼンチンの間くらいに位置する国で、日本からはほとんど地球の裏側にあるといえる場所だ。そんなところまでよく行きついたなと驚かされる。

風土と身体感覚

温度や湿度は身体感覚に強く影響を与える。外国人が特に嫌がるのは日本の湿度だという。

立川:日本では、それをしのいでいく知恵が一種の文化みたいになったんでしょうね。

養老:それを「豊葦原の瑞穂の国」と表現したのは、僕は大陸人じゃないかと思います。日本人が書いたにしては当たり前すぎる。大陸はカラカラに乾燥していますから、日本がいかに湿気ているかがよくわかるはず。

立川:それにおどろいたということだと言われるのですね。

養老:はい、日本を「秋津島」というのも同じです。それで、トンボのことを「アキツ」と言いますが、トンボが多いことも日本の特徴のひとつです。

立川:日本にはなぜ昆虫が多いのですか。ヨーロッパはあまり虫が鳴いていないと聞きます。やはり湿度のせいでしょうか。

養老:それと、あとは地形ですね。高低差があって地形のひだが細かい。だから、様々な虫がそれぞれに適した土地を選んで生きているけるということです。

(P.48~P.49)

人間だけでなく虫などのあらゆる生物が、その土地の温度や湿度、地形などの影響をうけ生態や、あるいは文化的なものを作り上げているようだ。


イメージの固さ

立川:(略)私はよく医学部の学生に「これから言う字の入った熟語を書いてみなさい」と言うんです。例えば「血」という字。「血管」、「血圧」、「血糖値」、「血液型」あたりまではすっと書くんですが、そこで止まってしまう。
こちらとしては「血色」とか「血潮」という言葉をかいてほしい。それで、話はやや飛躍しますが、患者の血色、顔色を見ないような医者になってしまうのではないかと、心配している。これは”血”という言葉へのイマジネーションの問題です。

養老:それは現代社会そのものの傾向ですね。

立川:言葉に対するイメージも本当に固いですね。

(P.55~P.56)


なるほど、「血管」「血圧」「血糖値」「血液型」などは科学的で客観的な言葉だと思う。
それに対し「血色」や「血潮」は主観的で身体感覚的な言葉だ。
数値化可能で客観的判断が可能な語彙が多く出てくる一方で、「血色」や「血潮」などの感覚的(主観的)な言葉は出てきにくいようだ。これは現代社会における、(内なる自然としての)身体を軽視する傾向の現れと解釈することも可能ではあると思える。


作品と作者の分離

養老:まだ人間と作品が分かれていないのですね。むしろ、その問題として扱ったほうがよいのではないか。特に日本の場合は、描かれたものは別のもの、著者と作品は別のものだという意識があまりない。

竹宮:私もどちらかというと、自分の作品のファンに遠慮しているぐらいですから。その人達が作っている世界というのがあるのですね。ですから、自分のものだからといって、あれこれ言う権利はないだろうと。

養老:そうです。(略)「文は人なり」と言うけれども、この格言も、うっかり使うと危ない。「書かれてしまったものは仕方ないから、俺は関係ないよ」と(笑)。

竹宮:私も「責任もてません。そのときの私はもういません」と、よく言っています。

(P.107)


これはロラン・バルトのいう「作者の死」と似ている。
「作者の死」とは、作者がその物語の解釈を決める最高権威(神)ではないとする考えかで、作者の意図を重視する従来の作品論から読者・読書行為へと焦点を移したという考え方である。
竹宮の述べた「その人達(読者)が作っている世界というのがあるのですね。」と同じような意味だと思う。


忘れる感覚と忘れない感覚

語学や音楽において長い間そこから離れていると忘れてしまう技能や感覚があると共に、体で覚えていて忘れないものもある。

養老:忘れてしまったことと全く忘れたわけではないことがあると思いますよ。聴き分けることは忘れていないはずです。それが自分の能力になっているから気が付かないだけで。いま整理の実験から様々なことが分かってきています。目もそうですが、小さいときに頭を固定して縦縞しか見せなかった猫は横縞が見えなくなるとか。

中村:可哀そうに。先生のように解剖のお仕事をしていると、猫も人間も単なる実験の対象としてしか目に移らないのではないですか(笑)。

養老:大丈夫ですよ。演奏会と練習を分けるように、精神状態を切り替えるようになっていますから。白衣を着るのはそのための儀式でもあるのです。

(P.124)


「猫も人間も単なる実験の対象としてしか目に移らないのではないですか(笑)。」、これはもちろん冗談であろうが、解剖学者は、実際にそのような誤解も受けることがあるらしい。可哀そうに。
面白いと思ったのは、白衣を着ることが精神を切り替えるための儀式となっているというところだ。身体の延長としての衣服に社会的な意味合いが付与されているのだろう。


自分のリズム

岩城:ウィーンフィルなどのベテランプレイヤーになると、「今日は天気が悪いし、曲も年寄りが多いから、あの曲のあの部分のテンポをちょっと遅めにしよう」と。店舗は毎回違う。気候、気圧からホールの状態まで関係してくるから、2度と同じことは出来ないはず。逆に1秒も狂わないのはおかしいんじゃないかと思います。

養老:要するに自分のリズムで勝手にやっている。リズムのいろいろな感覚に共通するところがあるんです。(略)頭の中で全体を統合する基本になるのはどうもリズムみたいなものらしいです。それが識には典型的に表れているような気がしまして。

岩城:よく作曲家とケンカになるんです。「この2小節は店舗92で、ここからは110」細かく指定する人がいて。その通りになんかできっこない。それより、アレグロモデラートと一言書いたほうがかえって正確です。(略)。

養老:リズムのほうに人間を合わせろというのは、戦争の時に「靴に足を合わせろ」と言うのに近い。そういう社会の中では若い人は自身がなくなってしまうのではないか。だから資格を求める。芸大もそうですが、国家資格みたいなものに学生は寄る。早く自信を持ちたいという真理ではないか。今の社会は1人1人に居場所を与えるのではなく、”場所”が先に会ってそこに人間を合わせるシステムだ。

(P.129~P.130)


天気や客層、気候や気圧、ホールの状態によってテンポを変えていくのは、やはりプロはすごいと感じさせられる。
また、環境状態と共に、曲の演奏は指揮者や演奏家の個性によっても独自の味が出るのだろう。
決まりきった型に人間を押し込めて合わせるのは不自然なのだ。やはり、身体をもった存在として、他者とは交換不可能な固有性を考えなくてはならない。


聴く力

天野:新聞の電話取材を受けたことがありましてね、雑談風の話の中で、僕は「あいつはオッチョコチョイというか、バカというか・・・」と、愛情をこめてしゃべったんです。ところが、翌日の新聞にぼくの意見がのっていたんですけど、「あいつは馬鹿である」とかいてあるんですよ。あれにはびっくりしましたね。音を聞いていれば明らかに冗談で言っているという響きがあるのに、「バカ」をそのまま「馬鹿」と聞いてしまう。

養老:耳が素直じゃないんです。自分の意見に会うことしか聞いていないのでしょう。

天野:特にジャーナリストがやりそうだけれど、自分がもつ仮説を補強するために人の意見を聞いている。

(P.157~P.158)

音声で話をしていると抑揚やリズム、声の調子なども非言語的な身体感覚の情報として、入ってくる。
しかし、新聞記者などの聞き手の側が、自分の意見を補強するものしか受け入れないという身構えをもっていると、その身体表現としての「声」が歪められて受け取られてしまう。

体で伝えていく

天野:僕は、たまに絵本を書くんですけど、子供って絵本を読んだ後、それが良い絵本であればあるほど、読んだ後に少しボーっとしているんです。僕らがいい映画を見た後、しばらく誰とも話したくないようなものですね。でも、その間に自分の体の中では何かが起きている。いま見た世界を、自分の心の中に養分として貯蔵する作業をしてるんですね。ところが大抵のお母さんは、「ボーっとしてないで、次の本を読みなさい」と言う。それと、幼い子に本を読んで聞かせるときも、棒読みスタイルでなってないんです。要するに、親が子供に体で何かを伝えていくという部分がなくなっているんですね。そういう点では、目よりも耳のほうが原始的な力をもっているんでしょうね。

養老:いわゆる、心の底に届くというか・・・。

天野:そうですよね。近頃は、そういう体で伝えていくという機能が落っこっちゃっているのかな。

(P.159~P.160)


本でも何でも単純に知識や情報だけをインプットしているのではない。体で何かを伝えていく、体の中で新しく何かが起きているということを忘れてはならない。運動だけでなく読書もまた、身体的な体験なのだ。