ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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神聖な処刑から忌むべき刑罰へ―――『刑吏の社会史』を読んで

中世ヨーロッパの影である刑吏などの賤民の生活に踏み込んだ本。
著者は阿部謹也歴史学者)。
中公新書
1978年初版。



賤民

名誉を持たない人々

中世ヨーロッパ社会には「名誉ある人々」と「名誉を持たない人々」によってなりたっていた。
「名誉を持たない人」は「権利を持たない人々」とほとんど同義であるが、厳密には違っている。

中世ドイツの法典ザクセンシュピーゲル・ラント法の注解によると、3段階ある。

(1)裁判能力を持たないこと
(2)財産処分能力を持たないこと
(3)生命・財産に対する権利を持たないこと(つまり、法の保護を奪われていること)

となっているようだ。

通常、「名誉を持たない人々」とされる賤民は(1)の裁判能力を持たないとされており、これは自己の権利を自ら守ることが出来ないことを意味する。

「名誉ある人々」は各身分の内部で社会集団に分かれ、共同体が形成されていた。共同体は原則として対内的には平等であり、対外的には排他的である。
賤民は、各身分の外に置かれ共同体からも排除された人々である。

W・ダンケルトの分類によると、
死刑執行人、捕吏、獄丁、看守、廷丁、墓掘り人、皮剥ぎ、羊飼いと牧人、粉挽き、亜麻布織工、陶工、煉瓦製造人、塔守、夜警、遍歴薬師と奇術師、山師と抜歯術師、娼婦、浴場主と理髪師、薬草売り、乞食取締夫、犬皮鞣工、煙突掃除人、街路掃除人、などであり、性格は異なるが、ユダヤ人、トルコ人、異教徒、ジプシー、ヴェンド人などのキリスト教社会秩序の外に立つ人々も同じ扱いを受けていたようだ。

刑吏や捕吏のように国家秩序の維持に欠かせない仕事や、衣服・食料の供給、衛生、清掃、医療など社会生活に必要不可欠な業務を担っている人々である。
このような人々と蔑視し、極端な場合には飲食も共にせず、言葉も交わさないように暮らしていた社会とはどのようなものだったのだろう。

出産と埋葬

刑吏の妻が産気づいても近所の人は誰も手伝ってはくれなかったそうだ。理由は、刑吏の家族に手を貸せば「名誉ある市民」も賤民に落ち同職組織から除名されるからである。

また、死後その棺をかつぐ者もいなかったようである。理由はまたもや、刑吏の棺をかつぐことは直ちに賤民に落ちることと見なされていたからだそうだ。

特権

皮剥ぎも刑吏と同様に賤民とされ、他の社会階級から接触を忌避されていた。
1733年のブランデンブルクでは、灰色の上着と灰色のボタン、赤い尖った帽子を身につけることが命ぜられていたようだ。
しかし、重要な役割を担っていることもあり独占営業の特権を与えられていた。
特権の最大のものとなる内容は、一定地域内に他の皮剥ぎの営業を認めない禁制権とその地域内の家畜すべてに対する処理権の2つだとされている。

ペットのような愛玩動物でも皮剥ぎに委ねねばならないため市民からの不満も大きかったようである。
しかし、だからといって勝手に動物の死体を自宅などに埋めてしまうと皮剥ぎの特権侵害となり、自宅の戸に皮剥ぎのナイフと突き立てられた。それは「この家の主人が皮剥ぎの仕事を侵した」ことは全市民に告げていることになり大変不名誉なことであったが、その家の者が引き抜くことは出来ない。なぜなら、そのナイフに触れると賤民に落ちたと見なされるからだ。そのため皮剥ぎに賠償金を支払ってナイフを抜いてもらうしかないシステムとなっていたようだ。

刑吏の場合だと、自殺者の死体の傍に立って処刑用の剣をのばして円を描くと、その中にある物はすべて刑吏の所有物となったらしい。


神聖な儀式から賤民の仕事へ

処刑は神聖な儀式

処刑は元々、司祭や貴族などが行う崇高な行いだとされていたようだ。
そもそもキリスト教受容以前のゲルマン諸部族は、処刑自体を刑罰だと認識してはいなかったようだ。
司祭の聖別された手が神々を汚す者を贖罪の犠牲として聖なるオークの木に吊るして捧げる高貴なものとされていた。
1298年にガンス・ツー・プトリッツ伯は盗賊騎士を自らの手で絞首しているし、メクレンブルク公ハインリッヒも盗賊を処刑している。他にもブラウンシュヴァイクリューネブルク公オットーなど高位貴族で処刑を自ら失効することに異常な執念を燃やした多くの例が残されているそうだ。彼らは称賛こそすれ、その行為によって賤民に落ちたわけではない。

血縁者による復讐

中世後期にいたるまで血縁者による復讐の慣習は階級を問わずヨーロッパ各地に残存していた。
血縁者による復讐において相手を殺しても加害者は賤視されるということは全くなかった。
また、殺人、強奪、盗みなどの場合、被害者やその縁者が犯人をしょけいしたり、強姦の場合、犯人に杭を打ち込む処刑が執行されるときの最初の杭を打ち込むのは被害者であったそうだ。
これらの場合でも執行者が汚れるということは全くなかったのである。


転換についての諸説

ベネッケやマイヤーのいうローマ法の継受では、刑吏への賤視が一般庶民まで広まっていたことを説明できない。
皮剥ぎ業を兼ねたという考え方についても、それ以前から刑吏が賤視されていたため理由にならない。
また、グリムによる、他の人を殺す職業だから蔑視されていたという説明も、軍人などはむしろ英雄視されている点で反論されている。
ケラーは、金のために戦った職業的戦士を刑吏の前身とみて説明したようだが、ダンケルトが言っていたようにこれらの説明は2次的なものである。

著者は、神聖な職務から卑賤な職業への転換を「人間と人間の関係の世界において刑罰が何であったか」を考えてはじめて答え得るものだと主張する。


刑罰とは何だったか

現在の私達が考えている「刑罰」と中世ヨーロッパの人々の考える「刑罰」は大きく異なっていたようだ。
犯人がどのような事情で、どのような動機によって犯行を行ったのかは問題とされず、生じた結果だけが問題とされたらしい。
大事なのは、その犯罪によって生じた秩序に対する傷を治すことに合った。
古い時代においての法は特別な部門ではなく、方向づけられた秩序あるすべての生活の関係全体であり、それがいつ成立したのかも分からないが、その秩序は自明で申請にして犯すべからざるものであった。

要するに現代の私達から見て、呪術的な儀式めいたやり方であっても、定められた罰が行われればよかった。
それをすれば(個人を倫理的に裁くのではなく)当時の人々にとっては乱された秩序を回復されたと見なされ、世界は元の秩序を取り戻したことになるのだ。

中世盛期にいたるまで人間と世界との関わり方は神的・呪術的な関係で貫かれており、行為(犯行)と結果との因果関係は理知的に捉えられてはいなかった。人々はいわば非合理的・呪術的な思考世界の中に生きていたのであって、それはその限りで宗教的な世界でもあった。アハターは「宗教と法とはかつて同じものであった」といっている。
(P.40)

近代的な「個人」とか「因果律に基づく合理性」とか「理性によって導かれる倫理」というものがないので、犯人自体への関心や、犯行という結果を引き起こした原因や、犯行に関する倫理的是非など、は問題とされなかった。
とにかく大事なのは、犯行によって乱された秩序を回復させることだった。

「秩序を回復」といっても人が殺されたり、ケガを負わされたり、物が盗まれたりした時、”客観的に”みて元の状態に戻すというようなことを意味するわけではない(というか現実的に不可能だ)。
殺人や傷害や強盗に関わった何か(犯人など)を「何らかの罰」を行うという呪術的・宗教的な手続きによって世界の秩序は回復されたと主観的に見なすことなのだ。
その「主観」は単に個人のものではなく当時の人々に広く共有された信仰である点が理解できれば、中世の刑罰に対する意味をイメージできるかと思う。

本来絞首は不名誉な「処刑」ではなかった。自ら絞首して九夜風の強く当たる木にぶら下がっていたろ言う嵐の神ヴォータンへの供犠であった。
(略)この絞首という儀式によって不純な犠牲者も純化され、神との結合によって聖化されたのである。したがって、盗人にとっては絞首されることは彼の権利でもあった。
(P.56)

都市の発展・キリスト教受容

12世紀~13世紀以降、ヨーロッパ社会は商業の復活を契機に遠隔地商人を主体としながら、地域間交易の中心となる都市が交通の要衝に生まれてくる。
人々は森を支配する霊や水の精への恐れを抑えて、道路や河川を経済・行政上の利益のために十分に利用し始めた。

また、キリスト教の受容にともなって平和観も大きく変化していった。
古ゲルマン社会においての国家や人民団体が守ろうとしていた平和と違って、一神教であるキリスト教の終末思想に裏付けられた普遍的平和概念であった。平和の根源は神とその代理人である皇帝あるいは教皇にあるとされる。
とはいえ、これが民衆生活に対してもたらした変化は緩慢なものではあったということも述べておく。

これらは人々に対して刑罰に関する価値観に大きな変化をもたらした。

まず、都市の発達は自然と強く結びついていた霊的なものを追いやって、以前のような呪術的なやり方での世界の平和(秩序)の回復の道筋を閉ざすことになる。

そして、キリスト教の受容により、それ以前まであった神々への供犠という意味合いが強かった処刑は否定された。なぜなら、一神教はそれ以外の神を認めないからだ。
供犠として畏怖すべき処刑は、キリスト教の浸透によって神聖な行事としての性格を失い、「畏れ」が消えた後には「恐れ」だけしか残さなかった。
このことにより、処刑は神聖さを剥奪された「恐れ」の対象として忌むべきものとみなされるようになったという。
かくして13世紀以降の社会史的状況の中で刑吏は賤視される存在へと転化してゆくことになったのである。

刑吏による拷問

ゲルマン法には元々、拷問はなかったそうだが、ローマ法の影響で裁判制度の改革が進み取り入れられるようになる。
この拷問は容疑者を虐待するのが目的ではなく、証言に対する「清め」という意味があったらしい。

しかし古代ギリシアにおいても古代ローマにおいても拷問は自由人に対してではなく、主として奴隷に対してくわえられた手段であった。自由人の証言はそれとして信用されたが、奴隷の証言はそのままでは信用されず、拷問によって肉体を痛めつけ、「清めてから」はじめて信用しうると考えられていたからである。だから奴隷が証人になったときには刑事事件でなくても民事事件でも必ず拷問されたという。
(P.150)

たとえ「清め」のためだとしても肉体的に痛めつけることには違いない。しかも、ゲルマン人にとっては民衆の法意識に根差さない異質なやり方である。このため、刑吏は恨みと恐れの眼差しを受けることになったようだ。

国家権力の代行者

民衆は国家権力の具体的顕現としての処刑処刑の執行に対して無意識のなかで激しい反感を抱いていたと考えられる。しかも裁判手続きを経て行われる処刑に対しては抗議の声をあげることができなかった。
(略)この時代の民謡には民衆の英雄となる犯罪者がしばしば登場する。明らかに民衆の認めがたい犯罪の場合も観衆は受刑者に味方することが多い。特に女性や子供が処刑される場合それが著しかった。
(P.162~P.163)

領域国家が形成され、刑事法の改革が行われていったとき、古来からの慣習法に配慮はされていたものの、完全に民衆の満足のいくものとなるわけではなかったようだ。
そのため、権力の代行者としての処刑執行人である刑吏は、一太刀で首を刎ねるのに失敗したりすると、受刑者に不必要な苦しみを与えたとして怒った観衆から石を投げつけられたり襲われることもあったようだ。
このような形で権力への不満が刑吏へと投影され蔑視はさらに大きくなっていったものと思われる。