ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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ヒトをモノとして扱う時代―――『モノ・サピエンス』を読んで①

人間が物質化・単一化している現代社会について書かれた本。
著者は岡本裕一朗(哲学・倫理学者)。
光文社新書
2006年第1刷。



「モノ化」する人間

「モノ化」とは

「モノ」は「ヒトと対比される対象」という意味がまずある。つまり、人ではないので人によって商品や道具として利用されるものである。

もう1つの意味は「物神化」される対象である。人がそれに対して価値があると信じる対象だ。典型的な「物神化」されるものは「お金」であろう。

最後に、「mono=単一化」という意味だ。資本主義社会の下、どのん商品も「お金」という普遍的価値基準によって一元的に評価される。それゆえに単一化が起きるということだ。

上記の結果(人が「モノ化」される)によって最終的には「使い捨て」られる運命にあると著者はいう。


まとめると、
①人がモノ(商品、道具)として使用される。
②人は「物神」として使用される価値があると認められる。
③価値を測る共通尺度(例えばお金)によって単一化されていく。

結果、使用され役目を果たせば「使い捨て」られる。

といった具合だそうだ。

「超消費社会」ではモノは使い捨てられる

必需品(生活に必要なもの)でないモノをたくさん消費する社会が「消費”者”社会」である。
「消費”者”社会」では「すべてをモノとして消費する社会」であるから、その意味でこれを「超消費社会」と呼ぶことを著者は主張している。

この社会において重要なのは「欲望」である。欲望は欲求とは違う。どう違うのかというと、「欲求」は生存に必要なもの(食べたいなど)であるのに対し、「欲望」は生存に必要のない欲求(”美味しいもの”を食べたいなど)である。

消費の変遷として著者はこのように示す。

「見せびらかしの消費(縦方向の差異)」

「見世物としての消費(横方向の差異)」

「さりげない消費(中心軸が差異から格差へ)」

「ブランドも使い捨てされる流行の戦略へ(差異の管理)」


この変遷の”内容”自体には大した重要性はない。大事なポイントは「変化」していること自体にある。
生産する側は、消費する側の欲望を読み取り供給を行う。しかし、この行為自体も消費者の欲望に影響を及ぼし、消費者の欲望が変化する。そのことによって、また、生産する側も供給行動に変化をつける。そしてまた・・・と続いていくのだ。同時因果関係として変化が変化を呼ぶ。その結果あらゆる消費が流行の変化(使い捨て)となるのだ。

「モノ化」する体

いったい、ブルセラのどこが「衝撃的」だったのでしょうか。
それは、「パンツを売ったとしても、なぜそれが悪いのか、だれも論理的には示すことができなかった」という点にあります。当時、指揮者といわれる大人たちがブルセラ少女たちにお説教をするテレビ番組を見たことがありましたが、彼女たちに「どうして悪いことなの?」と反論されたとき、大人たちは説得的な議論を示すことが出来ませんでした。「パンツ売るなんて恥ずかしいし、とともフシダラよ」などといったところで、何の答えにもなりません。
(P.63)

それぞれ仕事の内容によって報酬は違いますが、そのでれも「カラダ(労働力)を売る」ことで得られたお金です。
援助交際」も、こうした「カラダ(労働力)を売る」ことに対する報酬と考えられるでしょう。
(P.66)

というのも、援助交際の論理には、J・ロックやJ・S・ミルの思想が知らず知らずのうちに援用されていたからです。
(略)たとえば、ロックの思想に「労働価値説」がありますが、これは「自分のカラダをもとにして、そこから労働によって得られたものはじぶんのものである」という考えです。
(P.67)

ロックやミルの考えを、通俗的な言葉で表現すると、いわゆる「自己決定論」となります。「自分のモノやカラダについては、他人に迷惑をかけない限り、自分自身で決定できる」―――この原則は、日常生活のほとんどの場面で力をもっています。それなのに、この原則が「援助交際」に適用されると、大人たちは批判するのです。不思議ではないでしょうか。
(P.69)

レンタル業という点から見たとき、援助交際には何が待ち受けているのでしょうか。
(略)あるいは、新たに参入する者に客を奪われ、一気に時代遅れになることもあります。旬の時代はそれほど長くは続きません。いずれにしろ、レンタル品として、いつかは役に立たないときが来るのです。
(P.73)

もちろん、「自己決定」によって援助交際に走った少女たちは、自分が「使い捨て」の対象になったとしても文句はいえません。なぜなら、それが「超消費社会」における「正しい結末」だからです。
(P.74)

「超消費社会」における、カラダを売るということに関して書かれていた部分をいくつか抜粋した。雑ではあるがまとめると、


批判する大人「カラダを売るのはみっともない!」

それは(”論理的な”)答えになってない

だから、援助交際する人達は「超消費社会」の論理に則ってカラダを売る

「正しい結末」として「使い捨て」られる

といったところだと思われるが、まず著者の説明は現代社会ではカラダを売る行為がこのようなプロセスを経ているという「単なる説明」でしかない。つまり、これも大人たちの説教と同じく何の「答え」にもなっていないのだ。
もしこれが「いずれ使い捨てられるからカラダを売るのはダメだよ」ということを、それとなく暗示して道徳的な訴えを示唆しているとしても、論理的な「答え」にはなっていない。なぜなら、カラダを売らなくても、どちらにしろ旬を過ぎたときに「売るための価値」というのは無くなっているからだ。それなら「売れる間に売っておいて稼いだ方がいい」ということにしかならない(「援助交際」をしていた人は「若いころ援助交際して稼いだんですよ」などと自分から言いふらしたりしないのでバレなければ客観的には同じだ)。

①カラダを売るなんてみっともない!
②いずれ使い捨てられる(ただの経過説明)
③使い捨てられるからダメ!

これら3つは、どれもが「答え」にはなっていないのだ。
では、「カラダを売っても良いのか?悪いのか?」に対してどのように答えることができるのだろうか。
結論としては、良いとも悪いとも答えられない。なぜなら「問い」が真でも偽でもなく「無意味」だからだ。
正しい答えが存在しないのは、「問いかけ」自体が”無意味”だからなのだ。「問い」が「”論理的”な問い」として成立していない、だから「論理的な答え」も存在しないということだ。
言葉としては「カラダを売っても良いのか?悪いのか?」と声に出したり、文を書いたりはできるが「問い」としては成立していない、この「問い」は論理的には「真」でも「偽」でもなく、無意味なものなのだ。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りていえば「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」ということになる。
「カラダを売っても良いのか?悪いのか?」とは「(論理的には)語り得ぬもの」なのだ。
では、肯定派も否定派も「沈黙しなければならない」のか?
その通り。ただし、より正確には「”論理的には”沈黙しなければならない」ということだ。
つまり、”道徳的・倫理的”には語り続けなくてはならない。
かくして、カラダを売る行為への非難が「論理的な答えになってない」とする批判は妥当ではないといことが分かる。
そもそも、この「問い」に対する「答え」が”論理的”である必要が最初から無かったのだから。

以前、河合隼雄が(何の本だったかわ忘れたが)以下のような趣旨で述べていたのを読んだ気がする。
「物事には理由があって悪いことと、理由がなくて悪いことがある」

カラダを売る行為を非難する立場の人たちは後者(理由がなくて悪いこと)という意見なのだ。
著者の陥っている間違いは「論理的な正しさ」であらゆる問題を判断しようとする姿勢にあるように思われる。
「論理」や「客観性」や「意識」といった理性的なものは、人間にまつわる問題の全てをカバーしているという保証はないのだ。取り扱う問題や場合によっては「感情」や「主観性」や「無意識」といった非理性的なものの方が判断の根拠として妥当性をもつこともある。

結局のところ、この本の著者は「論理で扱えない問題」を「論理的に」扱おうとしてアポリア(哲学的困難)に陥ってしまっている。前提条件に対して根本的な錯誤をしていたが故に、「問い」が(論理的に)成立していると思い込んでしまったわけだ。

「カラダを売っても良いのか?悪いのか?」を、現代のような豊かな時代に問うのか、戦時中のような貧しい時代に問うのかでも意味が全然ちがってきてしまう。
字面の上では同じ言葉であっても状況や文脈によって全く意味が異なってくるのだ。
問題をとりまく状況や文脈によって(論理的にではなく)倫理的・道徳的に判断を下していくしかない。
「(論理的に)正しい答え」など存在しないのだから探しても無駄である。必要なのは「妥当(だと思われるよう)な倫理的・道徳的な決断」を下すことなのだ。

「モノ化」する労働

かつてバブル経済真っ只中で若者の就職状況が活況を呈していた頃、フリーターはカッコイイ生き方だともてはやされていたらしい。
しかし、今や「自分探し」をする若者だけでなく「定職から排除された」中年フリーターや熟年フリーターも珍しくは無くなった。フリーターは短期雇用、または非正規雇用の一種としての失業者予備軍となっている。
これも人間を「モノ(労働力)」として扱う「モノ化」だという。

企業の本音として、

だれかを正社員として長期雇用すれば、企業は月々の給与以外にさまざまな経費(ボーナス・社会保険・年金などの福利厚生費)を負担しなければなりません。その一方で、非正規社員に対しては、こうした経費を負担する必要がありません。ですから、同じ仕事ができるならば、企業にとって非正規の雇用はきわめて安上がりの方法だといえます。
(P.85~P.86)

これは企業にとって、非常に都合のよい状況ではないでしょうか。景気がよくても非正規雇用でまかなえるわけですし、契機が悪くなれば簡単に人員削減(使い捨て)できるわけです。フリーターが「社会の安全弁」と呼ばれるのは、このあたりに理由がありそうです。
(P.88)

著者は、上記のような労働に関する分析を行っており、非正規雇用の拡大を促すための法的な規制緩和にも言及している。
そして、この背景には「自己決定」と「自己責任」という考え方がコインの裏表のように分かち難く結びついたものがあるという。
ただし、両者をストレートに結び付けるのではなく、行為(フリーターを選んだ)の結果にどれほど責任があるかは、別途に議論しなくてはならないと述べてもいるが、基本的な姿勢としては、

消費者社会では、原則としてどんなものも消費の対象となりますが、何を選択するかは各人の自由です。そして、この選択によって、いかなる結果が生じても、本人の責任になるのです。それが、90年代以降、「援助交際」や「フリーター」、そしてそれを下支えする「自己決定」や「自己責任」の思想を通して見えてきた、「ヒトのモノ化」の結果なのです。
(P.91~P.92)

このような見方をしていようだ。

まず、「援助交際」も「フリーター(非正規雇用)」も同列に扱っている点がおかしい。
援助交際」に関しては、一時期マスコミがやたらと大げさに取り上げていたから話題になっていただけで、実際には”社会現象”と呼ぶに値するほどの広がりはなかった。その辺の女子生徒や女子学生の多くが「援助交際(事実上の売春)」をやっているわけがない(当たり前だが)。少数の者が行った珍しい事だからこそマスコミも大げさに取り上げていたのだ。
一方、「フリーター(非正規雇用)」に関しては、この本の出版当時(2006年)にしろ、現在(2020年)にしろ、規制緩和の結果による法的な後ろ盾もあるなかで大規模な人数(2006年:1677万人、2019年:2165万人)となっており、もはや一律に、個人の責任としては還元できない”社会現象”となっている。

「社会現象」は、社会を構成する個人の総和に還元できないものである。社会はあまりにも「複雑」であるため、要素還元主義的な分析方法では通用しない振る舞いとして表れるものなのだ。
著者は一応、「行為の結果にどれほど責任があるかは、別途に議論しなくてはならない」とは述べている。
しかし、これは飽くまでも個人の「自己決定」と「自己責任」の間において”どの程度”の結びつきの妥当性を認めるかという話でしかない。
正規雇用に関する規制緩和を行った法改正という「社会制度」という側面や、諸個人に還元できない「社会現象」という側面までは射程の内に入っていないので、その点が不十分であり、踏み込みが浅いと言わざるを得ない。

どうやら、この本の著者は、論理的に、明晰に、客観的に、要素還元的に、諸個人の総和として、社会現象を分析することが可能であり、また、それだけが正しいと信じているような印象を拭えない。