ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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ヒトをモノとして扱う時代―――『モノ・サピエンス』を読んで②

人間が物質化・単一化している現代社会について書かれた本。
著者は岡本裕一朗(哲学・倫理学者)。
光文社新書
2006年第1刷。



「モノ化」する人間

「モノ化」する命

体外受精試験管ベビー)としてルイーズちゃんの無事な様子を具体例として取り上げ、不妊に悩む人の選択肢が増えるのは良いことだとする。当時は強い偏見などもあったようだ。

精子バンク・卵子バンクについても、その売買を肯定的にとらえている。

代理母出産について、不妊症の人だけではなく仕事が忙しくて休みが取れない女性や、妊娠によって体のラインを崩したくない女性たちに需要が増えているそうだ。

クローン人間に関しては、まだ世界中で禁止されているが将来的には実施されると予想しているようだ。

遺伝子診断によって男女の性別、障害の有無、容姿や能力の差異なでおを選別することが可能になる。

遺伝子組み換え人間は、まだ現実とはなっていないが、将来的に先天性の病気を治すだけでなく能力増強のための遺伝子改変も親にとって「魅惑的な技術」として実現可能性があるという。

臓器移植については、「生体からの移植」と「脳死者からの移植」の2つに分類されると紹介した上で、免疫システムの拒絶反応やそれを抑える薬を利用すると免疫力の低下を招く問題を説明する。
しかし、需要は大きくて常に不足している状態だという。そのため闇取引が絶えないのだ。
不足を解消するために法的な規制や監視を緩和するべきだという意見のようだ。
著者は2つの選択肢を提案する。
「ひとつは、脳死後の臓器提供について、すべての国民に義務化をするという方向です。」
「もうひとつは、臓器提供を有償化するというほうこうです。つまり、亡くなって臓器が提供されれば、遺族にその謝礼が支払われるわけです。」

そして、中絶胎児の細胞は最も大きな需要がある。中絶胎児の細胞は成長力・増殖力が強く、また、免疫として拒絶反応が少ないということもあり非常に価値の高い商品となっているようだ。

遺伝子操作には大量の使い捨てされる受精卵がある。簡単に成功するものではないので、大量に用意したものの中から成功したものを選び、使えない受精卵は廃棄することになる。受精卵である以上、着床するなり条件が整った環境におけば、そのまま発生が進行し赤ん坊として成長していく。それ(受精卵)を廃棄することが「(法的ではなく倫理的な)殺人」に該当するかどうかが問題になり、また、意見の分かれるところでもある。

ヒトの使い捨てなくして、バイオテクノロジー革命は進展できないのです。
(P.125)

著者はヒトのモノ化については基本的に肯定的立場であるようだ。


上記の分析と主張について私には同意できる部分と同意できない部分がある。
不妊に悩む人や、先天性の重病や難病であれば、ある程度の条件を課すことで体外受精や遺伝子診断などを利用することには異論はない。医療技術として役立てた方が良いと思っている。

しかし、それ以外の場合に関しては絶対にその必要があるとは認められない。

精子バンクや卵子バンクにしても、そこで売買された後に生まれた子供や親に心理的葛藤が生まれている問題がA・キンブレルの『生命に部分はない』(講談社現代新書)に取り上げられている。この書籍(『ヒューマンボディショップ』でタイトルが違うが同書である、著者はP.119で引用している)は著者も読んでいるので知らないはずはないのだが、あえて無視しているのだろうか?都合のわるい部分は無かったことにしているようにしか見えない。

代理母出産にしても問題なく済んだ話だけを取り上げているが、ビジネスと絡んだことによって発生した問題点や、依頼者した人と依頼された人との間で裁判沙汰になった件があったことも取り上げられていない。著者が知らないはずはないのだが。

また、クローン人間(遺伝子的同一人物)を作って一体どうしようというのだろうか?

遺伝子診断にしろ遺伝子操作にしろ、重病・難病者に利用するのは賛成である。しかし、単なる能力強化に利用するのは行き過ぎである。そこまでする必要性がない。それを行う人が出始めると、社会的影響は大きいので、単純に「個人の自由選択」という問題に還元できることではない問題だ。

臓器移植に関しても、不足を解消するために法的な規制や監視を緩和すると、そこから別の問題が発生するので不足を解消しさえすればいいわけではない。安易な規制緩和では問題の困難さが、より大きく複雑になる可能性もある。

卑劣なレッテル貼りによる印象操作についても異論を挙げさせてもらう。

新たな技術が開発・導入されるとき、しばしばこの手の反対意見が沸き起こります。その背景にあるのは、科学技術に対する根拠のない恐怖感で、実際、「体外受精からは化け物が生まれる」と信じ込む人もいたようです。
(P.96)

クローン人間についての知識がない大学生にクローン人間のことを質問すると、彼らは得体の知れない怪物について聞かれたかのように感情的に反発します。ある人物をそっくりそのままコピーした人間、と素朴にしんじているようです。しかし、これはまったくの誤解です。
クローン技術で生まれた赤ちゃんは、通常の分娩で生まれた赤ちゃんと何も変わりません。
(P.102)

ここでは人体の利用に関して反対の立場をとっている人たちが「偏見」と「無知」に陥っている人ばかりであるような不当な印象操作が行われている。
わざわざ偏見を持っている人や知識のない人だけに聞いて人体利用に反対だったことを取り上げているが、世の中のほとんどの人が分子生物学の知識なんて持ち合わせていない。だから、賛成派も反対派も両方が知識不足の人達だ。そして、知識がある人達の間でもこの問題は賛否両論ある。
著者と反対の立場にいる人達は、さも無知であるがゆえにそう主張しているのだという卑怯な印象操作をしていると言わざるを得ない。

また、「ある人物をそっくりそのままコピーした人間、と素朴にしんじているようです。しかし、これはまったくの誤解です。」とあるが、少なくともクローンについては遺伝子的な同一人物であるから、まったくの誤解というわけでもない。
さらに「クローン技術で生まれた赤ちゃんは、通常の分娩で生まれた赤ちゃんと何も変わりません。」というが、何らかの意図の下、人口的に操作を加えられている点で何も変わらないというわけではない。
通常とは違うことは認めなければならないだろう。


臓器移植の問題についても同意できない部分がある。

国が臓器移植法で臓器売買を禁止するのは勝手ですが、ドナーを十分に確保できていないのに禁止や制限条項ばかり加えていたら、助かる患者さんも生命を落とすことになってしまう。偉い方々はすぐ、「臓器は物ではなく、それを売買することは人間の尊厳を汚す」だとか、「臓器売買を認めてしまうと、無知で貧しい人々がドナーとなり、弱者からの搾取に繋がる。また、レシピエントの間にも、臓器を買って生き延びる金持ちと、買えずに死ぬのを待つしかない貧乏人の間に不平等が生じる」と臓器売買に反対するけど、無償なら人間の尊厳を損なわず、貧富の差が生じないとでも言うのでしょうか。きれいごとばかりをいってはいけない。金持ちは日ごろから莫大なカネを払って、最先端医療を受けたり、各種スポーツやフィットネスクラブに通って健康なカラダを作ることができます。今でも十分過ぎるくらいに、貧富の格差はあるんです。貧しい人々は自分の臓器を売ったおカネで幸せな暮らしを買う。そうした自己決定権に難癖をつけ、タダで奪う方がよほど人権侵害であり、金持ちの驕りではないでしょうか。
(一橋文哉、『ドナービジネス』五十八頁)

いかがでしょうか。臓器ブローカーの自己正当化の弁にすぎないといって、切り捨てることはできないはずです。
(P114~P.115)

「臓器ブローカーの自己正当化の弁にすぎないといって、切り捨てることはできないはずです」と言っているが、これはやはり臓器ブローカーの自己正当化の弁にすぎない。金持ちが最先端医療を受けたりフィットネスクラブに通うことと臓器移植を同列に並べられないし、「無知で貧しい人々からの搾取」へは反論できていない。「貧しい人々は自分の臓器を売ったおカネで幸せな暮らしを買う」というが臓器を売ったからといって幸せになれる保証などない。「自己決定権に難癖をつけ」ということの方が”きれいごと”である。無知で貧困にあえぎ、借金や脅迫など弱みを握られている人々が自由な意志で「自己決定」していると言い張って通用するわけがない。
著者は、一橋文哉の文章が本当に「切り捨てることができないはず」だと思っているのだろうか。まともに取り合う価値のない稚拙な理論でしかないのだが。



「モノ化」する遺伝子

著者は、<個性=他人との差異=他人との差別>として「生まれの不平等」と「ヒトのモノ化」との関係について考えていく。

政治家の世襲や実業界との血縁ネットワークに言及しながら、ひとまず「ヒトが不平等に生まれる」という事実を確認していく。
そして、医者や芸能人、スポーツ選手にもジュニアが多くなっている点を指摘する。
ハイデガーサルトルが「被投性(この世界に存在するようになったのは自分の選択によるものではない)」という側面を表現したことを取り上げながら「家」が子供の可能性を制約するということを主張する。
家族とはコード(規則や慣例)として<何が出来る/出来ない>を区別して規制をかけるものだという。

ここでは、身分制や世襲制ということを言っているのではなく、家庭環境がその子供に大きく影響を及ぼすというだけの分かりやすい話だ。
確かに、その意味では「不平等」といえるだろうが、このくらいなら許容範囲内であろうと私は思う。

著者は、この「生まれの不平等」に対して「能力主義」を持ち込んでも<平等>は達成できないという。
徒競走を例に出し、こう述べる。

ただ、<足の速さ>に対応する遺伝子が(略)どの遺伝子かは別にして、「親から子へ遺伝子が相続される」ことは否定できないのです。
そうだとすると、徒競走は最も露骨に「生まれの不平等」を明らかにする場ではないでしょうか。
(略)もちろん、遺伝子がすべてを決定するという「ハードな遺伝子決定論」に与するわけではありませんが、遺伝子の役割を軽視することもできません。
(P.151)

また、マット・リドレーの『やわらかに遺伝子』から引用しながら、与えられる教育(環境)を同じにして結果、遺伝子の役割が大きくなり、能力の差は遺伝子に還元されていくという主張をする。

そして、マイケル・ガザにガの『脳のなかの倫理』を引用し、複数の遺伝子の組み合わせをも解明することで、複雑な知的能力を司る遺伝子も暴かれる可能性があることを示唆する。

さらに、ビル・マッキベンの『人間の終焉』を引用し、受精卵の遺伝子の一部を改変し能力増強された子供が生まれてくる可能性にも言及する。

もちろん、これらは実現された事ではないし、技術的な問題もまだある。しかし、単なる空想の話というわけでもないという。

上記のようなことが、もし実現したならば遺伝子操作によって多くの人が能力増強を行い、「生まれた家の不平等」や「生まれ持った遺伝子の不平等」がなくなり、ほとんどの人が「人工的に改変された遺伝子」をもった能力的に均一で平等な状態になることも可能だという主張である。

こうした「遺伝子ラジカルズ」に対して「優秀な家系」である「遺伝子強者」は、ただ手をこまねいて見ているだけではありません。遺伝子操作を禁止して、「生まれの不平等」を永続化しようとするでしょう。そうでなければ、自分たちも子供の遺伝子を操作して、家系をさらに優秀なものにしていこうとするかもしれません。こうして、遺伝子操作競争がはじまるのです。
(P.159~P.160)

この遺伝子操作競争の在り方として、ナチスのような「集団の優生学」ではなく、親の自由意志(欲望)の選択による「個人の優生学」が展望されると、そんな予感がしているらしい。
バイオ産業が消費者のニーズを探りながら商品開発に励んでいるそうだ。


大雑把な流れを整理すると、

「生まれた家の不平等(家柄主義)」と「生まれ持った遺伝子の不平等(能力主義)」があって人間は平等じゃない。

「遺伝子操作で生まれた子供」は能力増強できる。

優秀な家系(遺伝子強者)は遺伝子弱者の行う遺伝子操作を妨害するか、もしくは遺伝子操作競争に参加してくる。

結果、「遺伝子強者」にしろ「遺伝子弱者」にしろ、どちら側も多くの親が自由意志で受精卵にどのような遺伝子操作を加えるかを選択し、能力増強された子供が生まれる。そうなると、能力の差がほとんどない均一な集団となる。あと、遺伝子の選別や改変の過程で多くの受精卵は排除(使い捨て)される。
このように人間はモノとして扱われ、単一化していき、使い捨てられる。

これらは、現在において実現していることではない。著者は、将来そのようになる可能性があり、これは単なる空想やSFの話ではなくなったということを述べているだけだ。

しかし、この主張には私は異論がある。
まず、著者の立つ前提として「優秀な遺伝子」と「劣等な遺伝子」というものがあるのは事実だとしている点だ。
ある能力が(仮に遺伝子に依存しているとしてそれが)優秀かどうかは「事実」ではなく「解釈」にすぎない。
例えば、ある人は<足が速い>という事実があっても、それが「優等」か「劣等」かは周囲の環境や状況によってどちらにも解釈され得るのだ。
<足が速い>方が優れているに決まっていると思う人の方が世の中には多いことは私も分かっている。
では、このような状況だとどうだろうか。
猛獣が身を隠し待ち伏せしているところに美味しい果物のなる木があったとして、そこを目がけて複数の人が走り出したとする。当然、<足が速い>者が先に到着するだろう。しかし、真っ先に餌食になって命を落とすのは、その<足が速い>者となる。この場合、「優等(生存に有利)」と「劣等(生存に不利)」の解釈は逆転することになる。
こんなめったにない特殊な例(作り話)を持ち出しても説得力は薄いと思われるのでもう1つ出そう。

今度は作り話ではなく、現実の話だ。
遺伝子突然変異により、11番染色体にあるヘモグロビンβ鎖の6番目のアミノ酸に置換(グルタミン酸→バリン)が生じることがある。この鎌状赤血球症では、赤血球の形に異常が生じて酸欠になりやすく生きていくのに不利となるが、マラリア原虫に感染されたとき異常な形の赤血球によってマラリア原虫を倒してくれるのだ。それ故に、マラリアが比較的多く発症するアフリカなどでは、正常な赤血球しか持ってない人よりも逆に生存に有利となる。
つまり、「鎌状赤血球症」や「正常な赤血球」は個体をとりまく環境によって優等(有利)か劣等(不利)かが変わってくるのだ。

それなら、自分が今おかれている社会において都合のいい遺伝子を選択して能力増強すればいいだけだ、という反論がくることが予想されるが、その反論は論理的には不可能だ。
なぜなら、人間が置かれている社会環境も自然環境も、時代と共に変化し続けるからである。特に現代では変化のスピードはより速くなってきている。遺伝子操作を施した受精卵が大人になるまでの20年くらいの間に、社会で有利とされる能力も変わっていることになる。遺伝子操作は受精卵にしか施せない。大人になってからだと約37兆個の細胞があるので必要な組織や器官の細胞だけに限定しても、その数は膨大なものとなり実現不可能だ。

結局のところ、能力が低い遺伝子とか、高い遺伝子なんてものは存在しない。あるのは環境に適応してるかどうか、生存に有利な遺伝子とか、生存に不利な遺伝子とか、有利でも不利でもない中立的な遺伝子があるだけだ。しかも、自然環境であれ、社会環境であれ、時代や場所によって変化するので、どの遺伝子が「優等」か「劣等」なのかを一義的に決めることは出来ない。

現実問題として、頭が悪いとか、運動が苦手とか、見た目がブサイクだとかいった劣等感を持っている人は(私も含めて)たくさんいる。
それが、家柄や遺伝子に依拠している部分があることも否定はできない。しかし、この「生まれの不平等」を解決する方法を「遺伝子操作」に求めることについては反対である。
「生まれの不平等」自体にネガティブな価値しか認めていない点が間違っているのだ。上記に示した通り、時代や地域によって社会環境や自然環境が変化するために、今この場所における評価が低かったとしても、それは将来において逆転しうるものなのだ。この「生まれの不平等(人それぞれ違う)」は、変化に対応する可能性を温存しておく意味がある。それが多様性(いろんな特性をもった個体が存在する)意義なのだ。
著者の主張だと、個体(個人)という単位でしか物事を見ていないせいで能力に恵まれない者が存在する意義や価値を捉え底ないっている。そのために「遺伝子操作」にようる「生まれの不平等」を解消して平等で均一な状態を作ろうなどと考えてしまうのだ。
頭が悪く、運動能力が低く、見た目も不細工な(私のような)恵まれない人がいても、自分自身を無価値だと否定する必要は全くないし、他者から見下されたとしても、その蔑視には何の正当性もありはしない。
なぜなら、種としての多様性を確保し、環境の変化に対応するための可能性を確保するという役目を果たしているのだから。

「生まれの不平等」を解消するという建前のもと行われる「遺伝子操作による能力増強」は、本音としては「もっと良い思いがしたい」という身勝手なエゴでしかない(その欲望そのものが悪なのではなく「遺伝子操作」に頼って解決を図ることが間違っている)。しかし、もし将来的に遺伝子操作によって能力増強が成功したとしても「良い思い」ができるなんて保証はない(更に言えば、実はそれが成功すると思っていること自体がテクノロジーに対する余りにも無邪気で短絡的な楽観でしかない)。状況の変化により「優れている」という価値評価が逆転して「劣っている」という価値評価になっている場合もありうる。

重度の先天性の病気を治療するための遺伝子操作は条件付きで認められるべきだとは思うが、とりあえずは健康体で生まれてくることが可能であるにも関わらず、更なる能力増強を行う事は不必要なものである。