ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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デモクラシー、エリート、大衆、メディア、宗教―――『学問』を読んで③

119のキーワードから政治や歴史や道徳などについて考えた本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社
2004年第1刷。




デモクラシー

デモクラシーの意味は「多数参加の下での多数決制」という集団的意思の決定方式といこと以上でも以下でもありはしない。
その方式から(ほぼかならず)良き決定が出てくると楽観する者だけが、それを民主主義と訳して平然としているのである。
(略)参加者の数を重視するものとしての(略)民衆制は(代表者の選び方によっては)独裁制や寡頭制に転化しうるという点である。
(略)みずからの政治意識を最優等(アリスト)にするには、まず、「デモクラシーが最劣等(カキスト)の政治形態になることもありうる」としらなければならないのである。


デモクラシーは多数決による意思決定方式でしかない。

パブリック・マインド(公心)を保有している「公衆たりうる民衆」による政治形態を持とうにも、公心をどう定義するか、誰が公心を保有しているかをどう判別するかという難問がある。

多数者は堕落により独裁制や寡頭制に転化し得る。

民衆制の失敗を回避するためには、「デモクラシーが最劣等(カキスト)の政治形態になることもありうる」という自覚を持ち続けなくてはならない。


エリート

(略)選良となるのがたとえ無限遠の目標であり、選良の何たるかがたとえ曖昧を免れえないのだとしても、理念としての選良性を仮設しなければ、信と疑のあいだの危機に満ちた精神の綱渡りから転落するに違いないのである。
エリートは、元来、「神によってえらばれること」という宗教的な意味の言葉である。
その点にこだわっていえば、その後から派生してきたエレクション(選挙)という言葉にも価値論的な意味合を見出すのでなければならない。つまり、誰かを選出するに当たって、自分が納得でき他者を説得できる価値論的な理由を示すということだ。
たとえば、自分が金銭的に得するから、などというのは選挙として邪道なのである。もう少し控えめに、「言論抜きの選挙」はエレクションの本道には属さないといってもよい。
選挙に限らず、イエスかノーかで答えなければならぬ世論調査の類も価値論からの逃亡にすぎない。
神とよぶかどうかはともかくとして、選良主義は自己を「巨人」と見立てることではない。逆に、自分を超越した次元があるとして、その次元から見れば自分は「小人」にすぎないと見做すのが選良主義の第一歩である。
(略)こうしたものとしての選良主義は、西欧にあっては、第一次世界大戦に姿を消した。その「総力戦」に民衆が参加し、そしてその先頭に立ったエリートたちがたくさん死んだからである。
我が国では同様のことが生じたのは大東亜戦争においてだと思われる。
(P.51~P.53)


理念としての選良性(弱い意味での選良主義)を仮設しなければ、信念と疑念の総合という難事に挑戦できない。

誰かを(選ばれた者つまりエリートとして)選ぶには自分で納得し、他者を説得できる理由を示さなくてはならない。

よって、言論抜きの選挙やイエスかノーで答える世論調査は価値論的に無意味である。

選良主義の第一歩は、自分を超越した次元へ意識を向け、そこからみれば自分は「小人」にすぎないと自覚するところからはじまる。


「自分を超越した次元があるとして」の部分が大事なところだと思った。
確かオルテガの『大衆の反逆』でもエリートと大衆の違いを貧富の差や社会的地位や学歴などではなく、自分自身により多くを要求し、自分よりも価値のあるものへ奉仕しようとする者といったような趣旨のことが述べられていた気がする。


大衆

(略)19世紀には、大衆の定義にあって、貴族階級と無縁な「教養と財産」を持たぬ者たちを大衆と呼ぶ、という社会階級的な類別への傾きが確かにあった。
20世紀前半には、一握りの政治的指導者に簡単に操作される者たちを大衆と名付ける、というふうに政治階級的に区別されがちであった。
そして前者にあっては「凡庸な大衆」、後者にあっては、「砂のような(浮動する)大衆」というイメージが大衆に与えられたのである。
20世紀後半、民衆は「教育と所得」を身につけ始めたのみならず、世論をかざしつつ民衆政治の前面に立ち、むしろ指導者を操作するようになった。
そこで「大衆はもういなくなった」と思われたわけだが、しかしオルテガの用語でいえば「人間的階級」で定義するのが大衆への正しい見方なのである。
つまり、貴族であるかどうか、指導者であるか否かにかかわりなく、現実の文明状態に懐疑を持たずに適応するばかりであったなら、その人は「大衆人(マスマン)」だということである。
「大衆の反逆」はすでに功を奏し、社会のあらゆる部署で大衆が権力を掌握している。
しかし、その「高度大衆社会」の権力には権威の裏付けがない。
それゆえ現代の大衆社会は、新規な情報・技術を求めてみずからを休みなく変化の流れの中に投じ、その挙句、変化の絶頂の果てに崩れ落ちるのではないかという予感に戦いているのである。
(略)しかし、そうした民衆の自己懐疑に表現を与えるべき知識人が、こぞって、真っ先に、大衆人と化しているのが現代なのである。
(P.54~P.56)


大衆は、19世紀だと社会的階級で、20世紀前半だと政治的階級で、20世紀後半だと人間的階級で類別されている。

現代では大衆が権力を掌握しているが、そこに権威の裏付けがない。

それゆえ、新規な情報・技術を求めて変化の流れの中で休みなく俗事に取り紛れながら不安に戦いている。

そうした民衆の自己懐疑に表現を与えるべき知識人が、真っ先に大衆人となっているのが現代だ。


メディア

(略)マーシャル・マクルーハンがいったように「メディアはメッセージである」のだ。
つまり、メディアがどのようなものであるかによって、(略)情報の意味が変わってくる。
(略)つまり民衆の世論をメディアが伝達しているというよりも、メディアが世論を作っているということである。
その点を強調すれば、デモクラシーとはメディオクラシ―(媒体の支配)のことだということもできよう。
(略)テクノクラシー(技術の支配)に基づくマスメディアの支配は高度大衆社会の確立と深くかかわっている。それは、端的にいって、文明の量的拡大には質的低下が伴う、ということを物語っている。ましてや、知識人がオピニオニスト(異常な意見の持ち主)となってマスメディアに次々と登場し、テクノクラシーを肯定するという異常な意見を広めるようになると「メディアの支配」が完成の域に達する。
(P.57~P.59)

メディア(媒体)が何であるかによってメッセージも変わってくる。

「メディア=メッセージ」が民衆の世論を作っている。

デモクラシーはメディオクラシ―(媒体の支配)となった。

「メディアの支配」は知識人が異常な意見(テクノクラシーを肯定すること)によって完成の域に達した。


宗教

(略)社会が宗教から離れられないのは、それがなければ人間の欲望を拘束する基準がなくなり、それゆえ人間・社会の目的も手段も無秩序になるからだと思われる。
(略)人間に特有の自己意識とは、自分の存在が誕生と死亡にはさまれた時間の流れの中で変化しているという時間意識のこととほとんど同義である。時間を意識するということから「目的追求のために手段編成を行う」という意識が生まれる。
この目的-手段という合理的な意識の構造にあって、宗教が枢要な位置を占めるのである。
まず、所与の目的はいかなる上位の目的から出てきたのか、(略)そう問い続けると、少なくとも論理的には「究極目的」を仮構せざるをえない。そこで意識の中に「超越性」の次元が生まれ、それについて語るのが宗教である。
所与の手段についても、それはいかなる会の手段からもたらされるのか、(略)その問いを追い続けていると「究極手段」を思わずにはおれず、それが意識におけるたぶん(脳のことも含む)「身体性」の次元となる。
(略)端的にいうと、超越性への祈念と身体性への修行が人間の生の形式における重要な要素となる、少なくともその可能性がある。
それが宗教の存立根拠である。
(略)科学・技術によっては到達できない次元までを科学の因果寒けに、および技術の効率計算に従わせようとする健常ならざる意識が、似非宗教としての秘学(オカルト)を発生させる。
(略)というのも、あらゆる事柄を因果関係として説明しようとするのが科学主義であるが、そんなことは不可能であるのみならず、その説明の前提、枠組みとして(目的と手段にかんして選択していく)方向は、究極的には、科学それ自身によっては示されないからだ。
それを敢えて因果寒けによってとらえようとすると呪術になる。
(P.60~P.62)


人間が宗教から離れられないのは人間・社会の目的や手段が無秩序になるからだ。

所与の目的はどの上位の目的から出てきたか、所与の手段はどの下位の手段から出てきたかを追求することになる。

究極目的としては「超越性の次元」を意識し、究極手段としては「身体性の次元」を意識することになる。

これらは因果関係によって到達することはできないが、無理に科学的因果関係に結び付けようとすると呪術となりオカルトがはびこる。