ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

読んだ本や、見たアニメについての感想

自然への私達の見方は正しいか?―――『生命と記憶のパラドックス』を読んで①

生命と記憶にまつわる66個の面白い小話を取り上げた本。
著者は福岡伸一分子生物学者)。
文春文庫。



66個の話すべて紹介するのは大変なので、その中から興味をそそられたものを取り上げて感想を書いていく。



花のコミュニケーション

植物には運動や知覚をつかさどる脳や神経系がないから、花を愛でる人が声をかけたりするのは自己満足にすぎないし、植物が何かを感じているなんてありえない。だけど、それは人間が感じるように感じていないだけかもしれないとも言う。

たとえばこんな現象が観察されている。植物は葉っぱにカビなどの病原体の襲来を受けると、防御物質を作り出して撃退しようとする。そのとき不思議なことが起こる。近隣に生えている別の株の葉っぱでも、同時に防御物質が作られ始めるのだ。どうやって危険を察知できるのだろうか。
情報の正体は、おそらくガス状の揮発性物質で、葉っぱが傷つくと急激に放出され、SOSを周囲の仲間に知らせる。(略)つまり、動くこともなく、鳴くこともない植物たちではあるけれど、確実にコミュニケーションの方法を持っている。
植物は互いに人間には聞こえない声で叫び、人間にはわからない耳でそれを聴いているのである。(P.18)


これを見ると植物も独特な方法によってコミュニケーションをとっていると解釈できなくない。人間の意識というものとは明らかに違ったものだろうから安易な擬人化は避けたいが、生物としての在り方について、優劣を超えて考えさせられるものはあると思う。



ミツバチの死

著者が子供の頃、クモの巣にかかったミツバチを救い出そうと、縦糸(クモ自身が通路として使うのでベタつかない)を切って手のひらに乗せたところ、指の付け根を刺されたことを思い出して「自然を大切にする」とはどういうことか考える。

針はミツバチにとって最後のしゅだんである。針を使えばミツバチは死ぬ。結局、私は、ミツバチを助けようとして、ミツバチを死に追いやってしまった。(略)ひょっとするとクモの生存まで脅かしたかも知れない。(略)ミツバチの針は、ミツバチの産卵管の先端が変化してできたもの。内臓とつながっている。だから針で敵を刺し、針がちぎれると、内臓もちぎれ、そこから体液が漏れでてミツバチは死んでしまう。(略)自然を大切にする、あるいは生物の多様性を保全するということは、死ぬべきものを、死から救い出すことではない。死は自然であり、死は生命そのものである。福岡ハカセは今になってようやくそう思う。(P.26~P.27)


ここでいう「死ぬべきもの」とは人間による自然環境の破壊で死に追いやられる生物ではなく、自然界の生存競争において死んでゆくものであるのは言うまでもない。私たちは時に、かわいそうだという感情によっても自然界の生存競争に介入することがあるが、それは余計なおせっかいとなる場合もあるのではないだろうか。


ゴロ合わせ

人が自分で合成できないアミノ酸9種の覚え方を知っているだろうか?

著者はこのようなゴロ合わせで覚えたらしい

フロバイスヒトリジメ(風呂場イスひとりじめ)」


フ  フェニルアラニン
ロ  ロイシン
バ  バリン
イ  イソロイシン
ス  スレオニン
ヒ  ヒスチジン
ト  トリプトファン
リジ リジン
メ  メチオニン


植物や微生物は自前でほとんどのアミノ酸を合成できるらしいが、それとは異なり、ヒトだけでなく他の動物も、食物として接取しなければならない必須アミノ酸がある。なぜ重要なアミノ酸の合成能力を失ってしまったのだろう?

著者はこのように述べる。

進化のプロセスでは、失うこと、捨てることにも積極的な理由が必要である。(略)しかもアミノ酸のうち自然界に豊富にあるものではなく、むしろ特に重要なものをあえて合成できないようにしたのだ。(略)福岡ハカセは次のように考えている。あるアミノ酸が生命に必須となった瞬間、生物は「動物」になりえたのだと。(略)必須アミノ酸が生まれたことによって、生物は自ら動くことを求められ、自ら行動しうるものが選択された。そしてそのことが生命にさらなる発展をもたらした。視覚や嗅覚や味覚もこのプロセスで獲得されたのではないか。自前で合成できないこと、つまり、ウォント(want)が、生命の進化にとってにわかに輝かしい鍵となったのである。(P.30)

この考えは面白いし納得もいく。普通だと食べ物の中にたくさんアミノ酸が含まれているから自分で合成する必要がなくなったと考えてしまいそうだが、著者が指摘するように「失うこと、捨てることにも積極的な理由が必要」なのである。
進化の過程において動物は、微生物や植物よりも後に誕生した。つまり、元々は自ら動いて摂食していたわけではなかったのに、いつ頃からか動き出して食べ物を探し回るようになったのだ。その時期というのは、おそらく突然変異によって必須アミノ酸が合成できなくなった頃だと思われる。アミノ酸を合成する能力を失った動物の祖先にあたる生き物が、そのアミノ酸の必要性によって動くことを始めて動物になった。動き出したものは生き残り、動かなかったものは死に絶えた。このような自然淘汰によって動物の祖先にあたる生物は「動物」に進化していったのだろう。食べ物を探し回るためには視覚や聴覚、味覚や嗅覚が発達していた個体が生存競争のうえで優位に立っていたであろう事もたやすく想像できる。


因果関係と相関関係

大規模な調査によってモノゴトの成り立ちを探し求める研究のことを「疫学」という。

疫学的なデータの例を挙げると

中年になってから体重が5キロ以上増えた人は、その後、死亡の危険性が高まることが厚生労働省研究班の調査で分かったらしい(2010年3月、国立国際医療研究センターなどの発表による)。

他には、お茶を多飲する地域の人は、ガンにかかりにくいとか、戦後、循環器疾患が増加したことと脂肪摂取量の増大は関係があるというような仮説もすべて疫学的なデータにもとづいている。

ここで気をつけなければならない。疫学によって見出される関係は、「相関関係」であって「因果関係」ではないということだ。

つまり、中年になってから体重が増加したした人達に死亡リスクが高まったように見えるからといって、体重が増加したことが引き金となって死亡するという事をすぐに意味するわけではない。因果関係の向きが逆の場合もある。

ガンの少ない地域の人は、お茶だけでなく他の食べ物も多く摂取しているのかもしれない。あるいは、その地域の気候が温暖なのかもしれない。

体重の増減が余命に影響を与えたのではなく、むしろ病気になったから体重が増加したり、減少したりしていて、その後、病気で亡くなってしまった可能性もある。

とはいえ疫学調査は、そのような失敗をしないように出来るだけサンプル選びに注意を払っている。注目する要因だけが異なり、他の要因では出来るだけ差のないサンプル(コホートというらしい)を扱って分析を行う。しかし、いずれにしろ疫学で分かるのは「相関関係」である。

私たち人間が、疫学的データを解釈する際に陥りやすい落とし穴について、著者はこう述べる。

実は、私たちヒトが罹患している病気でもっとも注意しなければならいのは、本来無関係なはずの現象Aと現象Bを、ついつい因果で結び付けて考えてしまう「関係妄想」という名の病気である。(P.56)


確かに著者の言う通り、私たちは普段から、ある現象と別の現象を無自覚なまま、安易に因果関係で結び付けてしまいがちである。



感想まとめ

著者の分子生物学者としての視点から、物事の新鮮な見え方が現れていて面白く感じた。この本で取り上げられている、他の興味深い話をこの記事だけでは書き切れなかったので、また日を改めて紹介したいと思う。