ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

読んだ本や、見たアニメについての感想

比較優位説は成り立たない―――『反・自由貿易論』

自由貿易への批判。
著者は中野剛志。
新潮新書
2013年。







軽くメモする程度に書く。



比較優位論には基本となる定理がある。
それはヘクシャー=オリーンの定理というもので、「生産要素(資本と労働)の比率を考えたとき、各国が潜在的に抱えているこの比率と、各産業が必要とする生産要素の比率を比較し、各刻が適合性の高い産業に特化することによって比較優位が生じる」という。

但し、この定理はいくつかの前提条件がないと成り立たない。

①世界には、2国、2財、2種類の生産要素(資本と労働)が存在する。

②生産は、規模に関して「収穫不変(生産要素の投入量をn倍にしたとき、生産量もn倍になること)」が成立している。

③生産要素は完全雇用されている。

④生産要素は国内の産業間を自由に移動でき、そのための調整費用もかからないが、国と国との間の国際的な移動はしない。

⑤国内市場では生産物市場、生産要素市場ともに完全競争が行われている。また、国際貿易の運送費用は存在しない。

⑥両国で資源の相対的な賦存度は異なっている。

⑦両国における各個人の効用関数は、同じである。

(P.25~P.26)

①はモデル化のための簡略だとしても、⑤の「運送費用がかからない」は無理がある。
また、③の完全雇用リーマンショックやコロナ禍などにより不況になると達成は非常に困難である。
④の「国内でのノーコストでの自由な移動」や「国際的移動がない」なども成立させることは出来ない。
特に後者はグローバル化の時代には不可能である。

奇妙なことに、経済学の自由貿易理論の基本とされるヘクシャー=オリーンの定理は、資本のグローバル化を想定していないのです。
(P.27)


これらのことから自由貿易を推進するべき根拠として比較優位を持ち出すことは出来ないと考えられる。

デモクラシー、エリート、大衆、メディア、宗教―――『学問』を読んで③

119のキーワードから政治や歴史や道徳などについて考えた本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社
2004年第1刷。




デモクラシー

デモクラシーの意味は「多数参加の下での多数決制」という集団的意思の決定方式といこと以上でも以下でもありはしない。
その方式から(ほぼかならず)良き決定が出てくると楽観する者だけが、それを民主主義と訳して平然としているのである。
(略)参加者の数を重視するものとしての(略)民衆制は(代表者の選び方によっては)独裁制や寡頭制に転化しうるという点である。
(略)みずからの政治意識を最優等(アリスト)にするには、まず、「デモクラシーが最劣等(カキスト)の政治形態になることもありうる」としらなければならないのである。


デモクラシーは多数決による意思決定方式でしかない。

パブリック・マインド(公心)を保有している「公衆たりうる民衆」による政治形態を持とうにも、公心をどう定義するか、誰が公心を保有しているかをどう判別するかという難問がある。

多数者は堕落により独裁制や寡頭制に転化し得る。

民衆制の失敗を回避するためには、「デモクラシーが最劣等(カキスト)の政治形態になることもありうる」という自覚を持ち続けなくてはならない。


エリート

(略)選良となるのがたとえ無限遠の目標であり、選良の何たるかがたとえ曖昧を免れえないのだとしても、理念としての選良性を仮設しなければ、信と疑のあいだの危機に満ちた精神の綱渡りから転落するに違いないのである。
エリートは、元来、「神によってえらばれること」という宗教的な意味の言葉である。
その点にこだわっていえば、その後から派生してきたエレクション(選挙)という言葉にも価値論的な意味合を見出すのでなければならない。つまり、誰かを選出するに当たって、自分が納得でき他者を説得できる価値論的な理由を示すということだ。
たとえば、自分が金銭的に得するから、などというのは選挙として邪道なのである。もう少し控えめに、「言論抜きの選挙」はエレクションの本道には属さないといってもよい。
選挙に限らず、イエスかノーかで答えなければならぬ世論調査の類も価値論からの逃亡にすぎない。
神とよぶかどうかはともかくとして、選良主義は自己を「巨人」と見立てることではない。逆に、自分を超越した次元があるとして、その次元から見れば自分は「小人」にすぎないと見做すのが選良主義の第一歩である。
(略)こうしたものとしての選良主義は、西欧にあっては、第一次世界大戦に姿を消した。その「総力戦」に民衆が参加し、そしてその先頭に立ったエリートたちがたくさん死んだからである。
我が国では同様のことが生じたのは大東亜戦争においてだと思われる。
(P.51~P.53)


理念としての選良性(弱い意味での選良主義)を仮設しなければ、信念と疑念の総合という難事に挑戦できない。

誰かを(選ばれた者つまりエリートとして)選ぶには自分で納得し、他者を説得できる理由を示さなくてはならない。

よって、言論抜きの選挙やイエスかノーで答える世論調査は価値論的に無意味である。

選良主義の第一歩は、自分を超越した次元へ意識を向け、そこからみれば自分は「小人」にすぎないと自覚するところからはじまる。


「自分を超越した次元があるとして」の部分が大事なところだと思った。
確かオルテガの『大衆の反逆』でもエリートと大衆の違いを貧富の差や社会的地位や学歴などではなく、自分自身により多くを要求し、自分よりも価値のあるものへ奉仕しようとする者といったような趣旨のことが述べられていた気がする。


大衆

(略)19世紀には、大衆の定義にあって、貴族階級と無縁な「教養と財産」を持たぬ者たちを大衆と呼ぶ、という社会階級的な類別への傾きが確かにあった。
20世紀前半には、一握りの政治的指導者に簡単に操作される者たちを大衆と名付ける、というふうに政治階級的に区別されがちであった。
そして前者にあっては「凡庸な大衆」、後者にあっては、「砂のような(浮動する)大衆」というイメージが大衆に与えられたのである。
20世紀後半、民衆は「教育と所得」を身につけ始めたのみならず、世論をかざしつつ民衆政治の前面に立ち、むしろ指導者を操作するようになった。
そこで「大衆はもういなくなった」と思われたわけだが、しかしオルテガの用語でいえば「人間的階級」で定義するのが大衆への正しい見方なのである。
つまり、貴族であるかどうか、指導者であるか否かにかかわりなく、現実の文明状態に懐疑を持たずに適応するばかりであったなら、その人は「大衆人(マスマン)」だということである。
「大衆の反逆」はすでに功を奏し、社会のあらゆる部署で大衆が権力を掌握している。
しかし、その「高度大衆社会」の権力には権威の裏付けがない。
それゆえ現代の大衆社会は、新規な情報・技術を求めてみずからを休みなく変化の流れの中に投じ、その挙句、変化の絶頂の果てに崩れ落ちるのではないかという予感に戦いているのである。
(略)しかし、そうした民衆の自己懐疑に表現を与えるべき知識人が、こぞって、真っ先に、大衆人と化しているのが現代なのである。
(P.54~P.56)


大衆は、19世紀だと社会的階級で、20世紀前半だと政治的階級で、20世紀後半だと人間的階級で類別されている。

現代では大衆が権力を掌握しているが、そこに権威の裏付けがない。

それゆえ、新規な情報・技術を求めて変化の流れの中で休みなく俗事に取り紛れながら不安に戦いている。

そうした民衆の自己懐疑に表現を与えるべき知識人が、真っ先に大衆人となっているのが現代だ。


メディア

(略)マーシャル・マクルーハンがいったように「メディアはメッセージである」のだ。
つまり、メディアがどのようなものであるかによって、(略)情報の意味が変わってくる。
(略)つまり民衆の世論をメディアが伝達しているというよりも、メディアが世論を作っているということである。
その点を強調すれば、デモクラシーとはメディオクラシ―(媒体の支配)のことだということもできよう。
(略)テクノクラシー(技術の支配)に基づくマスメディアの支配は高度大衆社会の確立と深くかかわっている。それは、端的にいって、文明の量的拡大には質的低下が伴う、ということを物語っている。ましてや、知識人がオピニオニスト(異常な意見の持ち主)となってマスメディアに次々と登場し、テクノクラシーを肯定するという異常な意見を広めるようになると「メディアの支配」が完成の域に達する。
(P.57~P.59)

メディア(媒体)が何であるかによってメッセージも変わってくる。

「メディア=メッセージ」が民衆の世論を作っている。

デモクラシーはメディオクラシ―(媒体の支配)となった。

「メディアの支配」は知識人が異常な意見(テクノクラシーを肯定すること)によって完成の域に達した。


宗教

(略)社会が宗教から離れられないのは、それがなければ人間の欲望を拘束する基準がなくなり、それゆえ人間・社会の目的も手段も無秩序になるからだと思われる。
(略)人間に特有の自己意識とは、自分の存在が誕生と死亡にはさまれた時間の流れの中で変化しているという時間意識のこととほとんど同義である。時間を意識するということから「目的追求のために手段編成を行う」という意識が生まれる。
この目的-手段という合理的な意識の構造にあって、宗教が枢要な位置を占めるのである。
まず、所与の目的はいかなる上位の目的から出てきたのか、(略)そう問い続けると、少なくとも論理的には「究極目的」を仮構せざるをえない。そこで意識の中に「超越性」の次元が生まれ、それについて語るのが宗教である。
所与の手段についても、それはいかなる会の手段からもたらされるのか、(略)その問いを追い続けていると「究極手段」を思わずにはおれず、それが意識におけるたぶん(脳のことも含む)「身体性」の次元となる。
(略)端的にいうと、超越性への祈念と身体性への修行が人間の生の形式における重要な要素となる、少なくともその可能性がある。
それが宗教の存立根拠である。
(略)科学・技術によっては到達できない次元までを科学の因果寒けに、および技術の効率計算に従わせようとする健常ならざる意識が、似非宗教としての秘学(オカルト)を発生させる。
(略)というのも、あらゆる事柄を因果関係として説明しようとするのが科学主義であるが、そんなことは不可能であるのみならず、その説明の前提、枠組みとして(目的と手段にかんして選択していく)方向は、究極的には、科学それ自身によっては示されないからだ。
それを敢えて因果寒けによってとらえようとすると呪術になる。
(P.60~P.62)


人間が宗教から離れられないのは人間・社会の目的や手段が無秩序になるからだ。

所与の目的はどの上位の目的から出てきたか、所与の手段はどの下位の手段から出てきたかを追求することになる。

究極目的としては「超越性の次元」を意識し、究極手段としては「身体性の次元」を意識することになる。

これらは因果関係によって到達することはできないが、無理に科学的因果関係に結び付けようとすると呪術となりオカルトがはびこる。

議会、憲法、権威、コミュニティ―――『学問』を読んで②

119のキーワードから政治や歴史や道徳などについて考えた本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社
2004年第1刷。





政治を問う

議会

民主主義は(略)「もし可能ならば」、(略)「直接民主主義」の方向に傾きがちである。
(略)「議会制民主主義」の形態をとることがこれまで多かったのは、要するに、民衆が一堂に会することが困難であるという技術的理由からであったのだ。
しかし、情報技術の発達によって、(略)民衆の「議論」を世論のなかに組み込むこともできそうに思われ始めている。そしてそれは議会制の否定なのであって、地域にあっては住民投票に、国家にあっては国民投票に、」政治的決定のすべてを任せることが技術的に可能となりつつある。
パーラメント(議会)とは「議論(パール)する場所」のことであるが、議論する能力を有した者たちがそこに集まるのでなければ、議会は無意味というより有害な存在である。
間接民主主義は、(略)通常は公表されることが無いのだが、次の2つの前提に基づいている。
1つに選挙民たる一般民衆には、平均において、「政策について議論(予測と判断)する能力が無い」という前提であり、しかし2つに「一般民衆は、政策について議論できる代表者を選ぶ能力を、平均において、しっかりと身につけている」ちう前提である。
(略)したがって直接民主主義は国家のせいさくを危殆に瀕させる暴挙だといわざるをえない。
(略)代議士は、いったん議会に入ったからには、個別利益の代表者ではなく、共同利益の追求者とならなければならない。
そのことを選挙民がむしろ称揚する必要がある。だが現実は、それと逆方向に進んですでに久しいのである。
(P.30~P.32)


民主主義は、もし「直接民主主義」を行う事が出来るなら、それをやろうとする傾向がある。

全ての民衆が一か所に集まるのは技術的に無理だったので「議会制民主主義」をやってきた。

情報技術の発達によって、民衆の議論を世論の中に組み込み「直接民主主義」が出来るかもしれないと思われ始めている。

でも、実際に「議会制民主主義」が行われていたのは2つの理由による。
①民衆は政策について議論を行う能力を持たない
②民衆は「議論を行う能力を持つ人」を選ぶ能力はある

だから、「議論できる人を選ぶ事」と「議論が行われる場」が必要なので「議会制民主主義」は否定できない。

代議士は議会の中では共同利益の追求者でなくてはならないが、実際のところ選挙民は自己の利益の代表者であることを代議士に期待していることが問題である。


憲法

憲法は「国家の根本規範」であり、それは国民が(または、国民によって)共同で構成する(または、構成される)ものである。
この構成における能動と受動の差は決定的に重要である。つまり特定時代の国民が憲法を「作成」するのか、それとも行く時代にもわたる歴史の流れのなかで憲法が「醸成」されるのかの違いである。
(略)知識人・政治家は自分らの合理の基礎が過去の国民的経験のうちにこそあるとかまえなければならない、とみる経験論の賜物である。
(略)仮に成文憲法が認(したた)められるも、その憲法において国家の根本規範は「歴史の英知」(伝統の精神)によって規定される。ということが明示されている必要がある。
(略)社会価値を社会秩序の問題に適用したもの、それが規範であるから、問われるべきは、社会価値が歴史・慣習・伝統のなかで育成されていくのか、もしくは知識人・政治家の個別かつ私的な精神の中で考案されるのか、ということだ。前者の考えをとるのが良識に適っている。
(略)国民の世俗の生活にかんする根本規範(憲法)といえども、国民の持つ何らかの神聖な感覚と繋がっていなければならないということである。
他方、社会秩序は危機に見舞われていることもありうるのであり、それが「非常事態」とよばれる。このとき憲法の機能は停止され、なんらかの「非常大権」で社会秩序を回復しなければならない。
憲法は「神聖」と「非常」において(規範体系としては)開口していることを今の日本人は知らないままである。
(P.33~P.35)


憲法の構成において2つの考え方がある。
①ある時代の国民が意識的に「作成」するのか
②長い歴史の中で無意識的に「醸成」されるのか

社会価値は歴史・慣習・伝統の中で育成されると考えるのが良識に適っているので”②長い歴史の中で無意識的に「醸成」される”とみるべきである。

さらに社会価値(根本規範)は国民の持つ何らかの神聖な感覚と繋がっていなければならない。

しかし、その一方で、社会秩序が危機に陥った時は憲法の機能が停止するので「非常大権」によって社会秩序を回復しなくてはならない。

したがって、憲法は「神聖」と「非常」において開口している。

権威

(略)ウェーバーも指摘したように、支配は、服従しようとする意思が前提とされていて初めて、可能となるのである。
(略)人々は自らの所属する集団の上位者が発する命令を「進んで、しかし密かに」受容せんものと構えているのだ。
(略)服従への自発的意思は支配者に権威を認めるところに発生する。
というより、権威こそは被支配者に服従の構えを誘発させる支配者の資質のことなのだ。
(略)個人主義のいきわたった現代では、それは、「古瀬の発揮としての独創性が権威の源である」ということだと解されている。だが、人間の個性がいかにして形づくられるのかと問うてみなければならない。
(略)「伝統を引き受けてそれを現在において表現する」、つまり、「再び在らしめる」能力が個性だ、というのがその解答である。
(略)これは伝統を、つまり「持続に宿る英知」を権威とみなすことに他ならない。
権力の正当性は伝統という名の正統性につながれていることによって保証されるのだ。
それもそのはず、カリスマ性といい合法性といい、それが正当とみなされるには根拠が必要であり、根拠にこそ権威が付与されるのだ。その根拠は、どこをどう探しても、伝統性でしかありえないのである。
民主主義社会の権力が動揺しがちであるのは、その権威によって裏打ちされていないからだ。
というのも、主権者たる民衆の欲望は、多くの場合、伝統的なるものとしての権威を授かるには余りにも低俗であるからである。そのことを隠蔽するために民主主義が価値としてもてはやされるのだ、とみておくべきであろう。
(P.42~P.44)


支配が行われる前提には服従しようとする意思がある。

権威とは、その服従しようとする意思を誘発させるものである。

その仕組みは、まず、
①現在において尊重されているという事実がある

②その効果が長い間にわたって持続してきたことへの尊敬がある。

③その持続の始発点はどこかという探究が始められる。

このようにして伝統(持続に宿る英知)を権威とみなすことになる。

民主主義の主権者たる民衆の欲望は、伝統的なるものとしての権威を授かるには低俗すぎるため権力が動揺しやすい。


コミュニティ

(略)共同体における感情や規範の共有は、戦後における個人的自由の価値と衝突する。それゆえ、肯定的な文脈で地域社会のことに言及するときには、コミュニティという英語を宛って、そこの地域社会はアメリカにおけるような契約社会の性格を強く持っている、と想定されるのである。
しかし「契約」の前段階にいわば「暗黙の同意」があるのが普通である。(略)人々の間に共同の価値・規範があってはじめて各人の利害をめぐって調整を行う事が出来る。
ほかの言い方をすると、あらゆる集団は下部構造では(テンニースのいった)ゲマインシャフト(感情共有体)であり、上部構造ではゲゼルシャフト(利害調整体)だということである。
そして前者では黙認が、後者では契約がそれぞれ主要な意思疎通の方法となる。
(略)我が国では、奇妙なことに、市民が国民に対置されている。国民がナショナリズムをはじめとする共同の価値・規範を背負っているのに対し、市民は個人的自由の担い手だとされる。
(略)共同性を拒否するような市民が安定したコミュニティを作れるわけがない。また、どんな地域社会もほかの地域諸社会とインターリージョナル(域際的)な関係を有している。その域際関係に全体としていかなる枠組みを与えるか。それは国家的枠組みをおいてほかにあろうはずがない。
(略)自分たちのことを国民ではなく市民とよぼう、というような態度に理のあろうはずがない。数ある共同体のうちで、最も個(人)的なのが家族であり、最も集(団)的なのが国家である、と考えるべきだ。
(P.45~P.46)


共同体は感情や規範を共有する集団として、コミュニティは個人が自由に契約を結んだ社会として語が使用されている。

しかし、「契約」の前段階には「暗黙の同意(感情や規範の共有)」がある。

下部構造に感情や規範の共有された共同体があり、上部構造に契約によって利害調整を行う(いわゆる)コミュニティがある。

個人的自由の担い手である市民は、下部構造(共同体)を否定する性格を持っているため上部構造(いわゆるコミュニティ)を形成することは出来ない。

最小のものとして家族、最大のものとして国家という形態をもつ共同体に反逆して(共同体の構成員ではない市民が)コミュニティを作り上げられるということは有り得ないことである。

政治・権利・義務・官僚制・自治―――『学問』を読んで①

119のキーワードから政治や歴史や道徳などについて考えた本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社
2004年第1刷。




政治を問う

政治

それは、政治の本質が未来の不確実性は向けての決断という点にあることからくるものである。
(略)それはニューネス(新しいこと)の危険と同義である。
新しい目的の設定と新しい手段の動員、それが政治的ということであり、その新しさには、少なくとも事後的には、人々の賢明ならざる振る舞いがつきまとうのである。
(略)政治の表現もまた古き制度を破壊しつづけるのである。
しかして、一般に、破壊がつねに良き事態の創造であるとは限らない。
破壊が進歩であるためには、政治を古き道徳につなぎ止める慎重さがやはり要求されるといわなければならない。
(略)ヴァ―チュ(徳)の所有者たるべき者が、政治にあって、しばしばヴァイス(悪徳)を発揮する(またそうすることが許される)というのは、つまるところ、政治の相手にする未来なるものが(予測可能な)危険のみならず、(予測不能な)危機に満ちているからなのだと思われる。
(略)政治家たる者はつねに総合的なアイディア(理念)そしてグランドデザイン(大計)を持っていなければならないということになる。
だが現実にあっては、政治もまたスペシャリスト(専門家)のものとなっており、そこでステーツマン(政治家)ならざるポリティシャン(政治屋)が幅を利かす仕儀となる。
(P18~P.20)


政治とは不確実な未来に向けて決断すること

それは新しい手段により古い制度を破壊することがある(人間は賢明とは限らない)

破壊が進歩であるためには「古き道徳」につなぎ止める慎重さが必要

専門家になるのではなく全体を見通す総合的な理念や大計を持たなくてはならない(スペシャリストではなくジェネラリストへ)

権利

ライトを「権利」と訳すのには語弊がある。
「利」を「権(はか)」るという言い方には利己主義のにおいが強く漂う。福沢諭吉はそれを「権理」と訳していた。
それならば、ルールの根底は「道理は何かを権る」ことによって打ち固められる。
(略)つまり、ルール形成原理としての権理とルール応用規則としての権利とがあるとしなければならない。
(略)「道理は国民の歴史によって示される、それゆえに、権理にもとづいてルールを確認することにより、国民各位の権利の種類と範囲とが定められる」とみなすのである。
(略)サヴリンティ(主権)とは「崇高な権利」のことであり、それは、本来、神や仏のような超越的存在に宛がわれるライト(正しさ)のことをさす。そういうすごい権利を人民が持っているし持つべきだと宣せられると、人民の欲望のすべてが、少なくともあらゆる切実な欲望が、権利とみなされはじめる。
(略)主権は、厳密にいうとあくまで準主権にとどまるものは、せいぜいが「歴史の英知」(伝統の精神)がそれを授かるとするべきだ。
人間は知性と徳性のいずれにあっても、パーフェクティブル(完成可能)ではないとわきまえておかなければならない。
そうしておけば、自分の欲望が実現されることを、それが切実であるという理由だけで、基本的人権とみなしてはならないと了解できるであろう。
(P.21~P.23)

ライトいは「権理(ルール形成原理)」と「権利(ルール応用原理)」がある

つまり、(歴史に根差した<道理=正しさ>としての)権理にもとづいて国民の権利(諸個人の利益)が定められる

主権(崇高な権利)は超越者のものなので、実際には準主権というものが「歴史の英知」に授けられている

人間は不完全な存在であるから自分の欲望が切実であるとしても、それが「主権」や「基本的人権」を後ろ盾として実現させられるべきだなどと見做すことはできない。


義務

デューティ(義務)とは、そうするのがデュウ(正当、当然)の振る舞いのことを指す。
(略)英語でデュウといい日本語で義といい、その主要な意味は、「法律の基礎には徳律がある、だから徳義の命じるところが義務である」といったニュアンスのものといってよい。
(略)ルール(徳律と法律)の本質は、(略)「禁止の体系」という点にあると知ることである。
義務の本質もその禁止規則を守るというところにある。そして権利というのは「禁止されていないことは為しても良い」という意味でも許容規則から生まれてくる。
(略)いいかえると「権利と義務」とはつねに一対をなしているとはいうものの、両者は同次元で向き合っているのではない。
義務はルールを「守る」行為であり、権利はルールが守られたあとで保証される行為である。あえて言えば義務は重く権利は軽いということになる。
それもそのはず、義務も権利もともに道理によって指示されるのであるから、まずもって道理を「守る」という態度が必要になるのである。
(略)義務の観念は、国民が自らを知性的にも道徳的にも不完全であると認め、その不完全を補うべく歴史の英知としての道理には従順であろうと努めるところに成長する。
(P.24~P.26)

「義務」とは徳義に則って正当・当然とされる振る舞いの事である

ルールの本質は「禁止の体系」にある

権利と義務は対をなしているが同次元ではない

まず(~するなという禁止)義務が守られたあと、その禁止されていない範囲で(~しても良いという)権利が保証される

人間は不完全であるから、権利も義務も「歴史の英知」に基づいた道理によって規定されている


よく誤解されやすい部分として「義務を果たした者に権利が与えられる」というものがある。
こので著者が述べているのはそのようなことではない。それは「両者(権利と義務)は同次元で向き合っているのではない」と明確に述べていることからも分かる。
権利と義務が対をなしていても次元は異なるのだ。高い次元には義務があり、低い次元には権利がある。いわばタテ方向の対である。
では、同次元で権利とヨコ方向の対をなすのは何であろうか。著者は何も述べていないので私の独断になるが、それはやはり「責任」ではないかと思われる。
そして、責任においても権利や義務と同様に「歴史の英知」に基づいた道理に準拠するかたちで、その妥当性が問われることになると考える。


官僚制

官僚のことを役人ととらえるのは、官という言葉が政府にかかわることからくる、間違った理解である。
ビューロクラット(官僚)は、ビューロが「机布」を意味することからも分かるように、組織の事務あるところかならず存在する。だkら、正しくは、政府官僚のほかに(企業官僚をはじめとする)様々な民間官僚がいるとしなければならない。
(略)組織を不要とするのでない限り、官僚の存在を受け入れなければならない。
そして組織が必要なのは、未来の不確実性を個人たちが合理的に予測し切ることは困難であるという事情による。
(略)しかし彼らを、マックス・ウェーバーのいったように単なる技術者つまり「魂なき専門人」とみるのは行き過ぎである。国家の政策の種類も範囲も、役人の作成する政策立案書に決定的に依存している。行政府の役人は立法府の政治家が立案した政策を具体化しているだけではないのである。
その指示的機能に注目すれば、役人には「選挙の洗礼を受けない政治家」という側面がある。それが、選挙によって不安定化させられている現代の政治にとって安定化要因となっているということすらできる。
役人における官僚主義が目立つようになるのは、当該の国家における国家理念や国益目標が不明瞭になる場合においてであろう。そういう場合、役人集団は(略)既得権益を固守せんとしはじめる。
そこに集団主義が成長する。
しかし国家理念や国益目標が曖昧になるのは、少なくとも民主主義にあっては、国民自身が官僚主義に陥っていることの現れなのではないか。
役人のことを公僕というが、国民にあって公心が乏しく、それゆえ民主主義を通じて公共的な目的が正しく認定されないということになると、役人は公僕としての「自尊と自立」を失っていくということである。
(P.36~P.38)


官僚は「組織の事務」であるから政府にも民間にもいる

つまり組織があるところには必ず「官僚=組織の事務」がいる

官僚は政治家が立案した政策を具体化してるだけではなく「選挙の洗礼を受けない政治家」という側面がある

はっきりとした国家理念や国益目標がないと既得権益の拡大や維持くらいしかやることがなくなる

民主主義国家において国家理念や国益目標がないのは国民自身が官僚主義に陥っており、また公心が乏しいことが原因だ


自治

自由は「自分に理由がある」という意識から生まれるものであり、その意識は「自分に関連した」事柄は自分が最も強く感じ、強く考え、強く知っている(ことが多い)。という経験に発している。
(略)そうだとすると、セルフ・ガヴァメント(自治)、つまり「自分に関連したこと」については「自分で舵取りをする」ことの欲望もまた普遍的としなければならない。
しかし、社会・歴史という名の時空にあって、自治は必ずしもオートノミー(自律)と同じではない。
(略)いかなる自治体もほかのいくつもの自治体と相互依存の関係にあり、(略)自治体への干渉を「内政不干渉」の原則とやらによって排除するのは不合理かつ不可能である。
自治は相互干渉をどの程度に留めるかとうルールの中にしかないと認めるべきであろう。
(略)要するに、自治体相互のあいだの依存関係が強すぎると、自治体の安定性が脅かされるのである。
現代において自治外の自律が揺るがされているについてはもう1つの理由がある。それは、自治体構成員(たとえば地域共同体の住民)の定住性が弱くなったという点である。
住民で言うと、インハビタント(住民)とは「ハビット」(慣習)の中に「インする」(入る)人々のことをさす。だが住民の定住性が弱くなれば慣習も弱くなり、それゆえ地域自治の道徳的基盤が脆くなり自律できなくなる。
(略)自律性、つまり安定したリズムで動くことが可能になるためには人々のあいだで慣習がおおよそ共有されていなければならないのだ。
自治外の自律性が保たれ、それに伴って自治体構成員が「自尊と自立」を享受できるには、慣習の変化が漸進的なものに留まる、ちういわば保守主義の条件がなければならない。
(P.27~P.29)


自由とは「自分に理由がある」という意識から生まれ、そこから「自尊と自立」という欲望も形成される。

自由という意識を持った主体が「自尊と自立」という欲望を達成する手段としての「自律」は完全に行われるわけではない。

いかなる自治体も、他の自治体との相互依存の関係にあるため「干渉」を排除しることは不合理かつ不可能である。

自治は相互干渉をどの程度に留めるかというルールの中にしかない(自律の妥協)。

自治体の安定性を揺るがすのは、この「相互依存性の強さ」の他にもう1つ「住民の定住性の弱さ」がある。

住民(インハビタント)は、慣習(ハビット)の中に入る(インする)人々であり、慣習の共有が地域自治の道徳的基盤になっている。

「自尊と自立」を享受するためには自律性が保たれなくてはならない。そのためには慣習の変化が漸進的なものに留まる必要がある。

共生と性―――『ミトコンドリアの謎』を読んで

ミトコンドリアの発見や機能や構造について書かれた本。
著者は河野重行(分子細胞学者)。
講談社現代新書
1999年第1刷。




ミトコンドリアについて

それは分裂・増殖し、形を変え、運動し、あたかも細胞質という培地で培養されている小細胞、「細胞内の細胞」といった感がある。
(P.6)

ミトコンドリア研究には2つの大きな流れがある。構造を重視する細胞学と機能を重視する生化学である。
(P.10)

ミトコンドリアが独自のDNAをもっていることが明らかにされると、反自律的自己増殖系としてのミトコンドリアが脚光を浴びるようになった。
(略)動物のミトコンドリアDNAを例に取れば、大小2つのrRNAと22のtRNA遺伝子に加え、13の構造遺伝子しかもっていない。ミトコンドリアを構成する数百種にもおよぶタンパク質のほとんどは核ゲノムにコードされている。ミトコンドリアは、自分の遺伝子だけで、自分自身を作り上げることはできない。
(P.12)

ミトコンドリアは反自律的に活動し、独自のDNAをもっているが、完全に自立しているわけではない。
とはいえ「細胞内の細胞」であるかのような特徴的な振る舞いは非常に謎めいており、惹きつけられるものがある。


ミトコンドリアの特徴

ミトコンドリアの形状

顕微鏡は進歩を遂げ、染色法の開発などでミトコンドリアは観察されるようになていった。
しかし、ミトコンドリアという名前が一般化したのはごく最近のことのようだ。
その形状が変化するものであり、生物種によっても違ったり、同種でも細胞によって変わっていたらしい。
また、多くの研究者によって観察され、極めて多彩な名前で記載されていたそうである。

著名なミトコンドリア研究者であったカウドリーは、1918年に出版された総説「原形質のミトコンドリア的構成要素」のなかで、(略)と述べて91ものミトコンドリアに関する述語をリストしている。例えば、コンドリオコント、コンドリオーム、コンドリオソーム、プラソーム、フィラ、バイオプラスト、ミトコンドリオーム、サルコソーム等々である。
(P.28~P.29)

(略)ミトコンドリアは変幻自在にその形状を変えるのである。それは、もちろん固定法によっても大きく変化するが、生物種でも違うし、同じ生物でも細胞が異なり、さらに同じ細胞でも分裂周期によって異なり、同じ周期でも数秒の間にその形を変える。
(P.31)

ミトコンドリアの構造

ミトコンドリアは2重の膜で囲まれており、内膜はミトコンドリア内部に巻き込まれて、クリステと呼ばれるひだや横断する隔壁を形成している。
内膜はミトコンドリアの内容物を2つの空間(マトリックスとクリステの内腔)に分離しており、それぞれの空間は異なる密度を持っている。
こうした構造は決して静的なものではなくミトコンドリアのエネルギー状態でひだ状のクリステが管状になったりと変化する。

外呼吸と内呼吸

ミトコンドリアは呼吸に関わって機能している。
呼吸というと「息を吸ったり吐いたり」することをイメージしてしまうが、それは外呼吸(ガス交換)である。
細胞で行われる呼吸は内呼吸(細胞呼吸)と呼ばれ、気質の酸化還元反応とそれにともなう細胞内あるいは細胞と体液間のガス交換が行われる。
呼吸の本質は内呼吸(細胞呼吸)である。

呼吸によって作られるもの

細胞呼吸によってエネルギーの通貨といわれるATPが合成される。解糖・クエン酸回路・電子伝達系の合成プロセスのうちミトコンドリアでは、クエン酸回路と電子伝達系が担われている。
解糖では2ATP、クエン酸回路では2ATP、電子伝達系では34ATPが合成される。

ミトコンドリアDNA

ヒトのミトコンドリアDNAは16569塩基対あり約5ミクロンの長さだそうだ。
ヒトも含めた動物のミトコンドリアDNAは全て環状をしている。
ヒトのミトコンドリアDNAには遺伝子がほとんど隙間なく連なるように並んでおり、小さなサイズにできるだけ多くの遺伝情報を詰め込むために、様々な工夫がなされている。
こうした塩基情報の節約こそが、ヒトのミトコンドリアDNAの特徴でもある。

ミトコンドリア・イヴ

ミトコンドリアDNAは母系遺伝するもので、様々な人種の147人の現代人のミトコンドリアDNAを調べたところ、それらは全て約20万年前にアフリカで生きていたと仮定される女性から分岐したものであると分かったそうだ。


性とミトコンドリア

有性生殖と無性生殖

ただ子孫を残すためだけなら、栄養生殖や単為生殖といった無性生殖の方が2倍効率がいい。
有性生殖では、配偶者を探し求愛行動をとるなど更なる非効率性がある。

それに対し、有性生殖は組み換えによって遺伝子を様々に組み合わせられるので環境変動に適応しやすいという説があるが、時間がかかりすぎるとう難点もある。

パラサイトと有性生殖

オックスフォード大学のビル・ハミルトンらは、性とパラサイトの関係を表すコンピュータモデルを作り上げた。有性生殖と無性生殖の増殖シミュレーションでは常に無性生殖が完全勝利していたが、そこに何種類かのパラサイトを導入すると有性生殖がしばしば勝利することが起き始めた。
そして、抵抗性と毒性を決定する遺伝子の数を増やすと、有性生殖の勝率が高くなることが分かった。

なぜ性は2つなのか?

ハーバード大学のコズミデスとトゥービーやオックスフォード大学のハーストの考えだと「なぜ性は2つなのか?」という問いは「なぜオルガネラは母性遺伝するのか?」という問いと同じだという。

雄のオルガネラ(細胞内のミトコンドリアと色素体)の遺伝子は、受精の前後で除去されて、次世代に伝わることはない。(略)「オルガネラを提供する性=雌」と「オルガネラを放棄し提供しない性=雄」があることになる。なぜオルガネラの遺伝子を提供しない性があるのだろうか。鍵は利己的な遺伝子の間の競合にある。オルガネラ遺伝子も利己的だから、当然、良心由来のオルガネラ遺伝子間で競合が起こることになる。こうしたオルガネラ間の競合は接合子自身の生存を脅かしかねない。こうした状況を打開するためには、一方が自らのオルガネラを放棄することである。(略)こうすることで、オルガネラ間、核とオルガネラ間のコンフリクトが解消され、生き残る子孫が増えるとすれば、オルガネラを放棄する性(雄)が増えることになる。オルガネラを提供する性(雌)と放棄する性(雄)の比が1:1からずれると、少なくなった方が相手を選べるという意味で有利となるため、性比は1:1で定常状態となる。
(P.189~P.190)

このような仮説もあるそうだ。
さらに、より大胆な仮説としてトロント大学のヒッキーの解答によると、

彼の計算によれば、有性生殖をする集団においては、利己的なパラサイトDNAはそれが宿主の適応度に影響を与えようが与えまいが、ほぼ同じように世代を経て集団内に広まっていくことになる。つまり、有性生殖集団という前提さえあれば、パラサイトDNAはそれが善きものでも悪しきものでも、広がるべくして広がってしまうというのだ。
(略)さて、無性集団に飛び込んだ不幸なパラサイトDNAが自らの生存を確保し、集団全体に広まるためには、いかなる手段があるだろうか?逆転の発想をすれば、応えは簡単である。パラサイトDNAは、自らが飛び込んだ無性集団を、有性集団にしてしまえばいいことになる。同じことは性の起源についても言える。有性生殖が出現する以前、かつて地球上の生物が全て無性生殖だったとき、ある種のパラサイトDNAが、自分自身のために宿主に性を与えたと考えたらどうだろうか。
(P.209~P.211)

新しい共生説

従来の共生説とは「2つ(好気性細菌と古細菌)を結び付けたものが何であったか」について異なる仮説を東京大学の石川統が打ち出したという。

(略)これは暗黙のうちに、次の3点を認めたことになる。
①宿主は十分な量のATPを合成できなかった。
②共生体は必要以上にATPを合成できた。
③共生体は余剰のATPを細胞外へ排出できた。
これらの条件は、既存の真核細胞におけるミトコンドリアと核あるいは細胞質の間では確かに満足されている。しかし、それぞれ独立の生物と考えたときに、細胞外へ排出するほどATPを過剰生産する生物がいたり、自分に必要なエネルギーすら確保できない生物が存在しえたとは思えない。ATPという絆は共生の結果生じたものではあっても、共生のきっかけを与えたものではないだろう。
彼らは、共生のきっかけを与えたのは水素と二酸化炭素だったと仮定した。ある種の最近は嫌気的に有機物を分解して、エネルギーを得るとともに水素と二酸化炭素を老廃物として放出する。一方、水素と二酸化炭素をそれぞれ唯一のエネルギー源および炭素源として生活している古細菌がおり、深海底の沈殿物など嫌気的環境で水素排出性細菌と栄養共生しているものも知られている。
(P.230~P.231)

マルチンとミューラーの新説ではミトコンドリアとハイドロジェノソームは同一起源であると考える。ハイドロジェノソームが、嫌気的に有機物を分解してエネルギーを得るとともに水素と二酸化炭素を老廃物として放出する細菌だったとすれば、ミトコンドリアの起源も同じ水素排出性細菌だった可能性がある。
(P.231~P.232)

従来の共生説を「ATP説」とすれば、この新説は「水素説」と呼べる。水素説では共生が嫌気的条件下で始まったといいうことを前提としている。
(略)ATP説が好気性細菌を共生体とするのに対して、水素説は通性嫌気性細菌を共生体と仮定する。共生体に関して「”好気”性細菌」から「通性”嫌気”性細菌」へと発想を逆転するわけだ。こうすることで、嫌気条件下での共生や、ハイドロジェノソームの存在がうまく説明できるようになる。
(P.232)

共生体は、本来従属栄養性であり、外界から有機物を取り入れる必要があるが、細胞内に取り込まれるとそれができなくなってしまう。その解決策が遺伝子転移である。細胞が有機物を外界から取り入れるためには、有機物を輸送するための特殊なタンパク質が細胞膜に存在する必要がある。宿主は、共生体から遺伝子を受け取り、独立栄養生物型の細胞膜を、有機物輸送が可能な従属栄養生物型の細胞膜に転換する必要があった。こうして宿主は独立栄養から従属栄養へ転換していったと考えられる。
(P.234)

これまで、共生説に対する批判の中心には、独立の細菌だったはずのミトコンドリアがなぜこれほど少ない遺伝子しかもたないのかという疑念があった。マーグリスの最大の功績は、ミトコンドリアの祖先のゲノムはもともと小さかったのではなく、共生の結果としてゲノムサイズの減少が起こったのだと推論した点にあった。このゲノムサイズの減少はミトコンドリアから核への遺伝子転移によって引き起こされたわけだが、それがなぜ必要だったのかは説明されていなかった。水素説の強みは、遺伝子転移の必然性をうまく説明できる点にある。
(P.235)

ヒトをモノとして扱う時代―――『モノ・サピエンス』を読んで③

人間が物質化・単一化している現代社会について書かれた本。
著者は岡本裕一朗(哲学・倫理学者)。
光文社新書
2006年第1刷。




「モノ化」する人間

「モノ化」する思考

著者は文化相対主義(それぞれの文化にはそれ固有の考えや価値があるので、自分の文化の基準でほかの文化を理解したり、判断してはならない)という考え方を紹介しながら、「女子割礼」に関するフランスでの有罪判決について取り上げる。
フランスの近代的な人権概念とアフリカの伝統的な風習が衝突した形だ。
このこと自体はフランス国内で起きた事件であるならばフランスの法に従えば良いだけだと思う。
これは文化相対主義を否定することではなく、フランスで起きた出来事であるがゆえにフランスの近代的な文化(人権)が相対的に優先されるべきだというだけの事である。
私の言いたいことは「人権」思想も”相対的な文化”だという点だ。そして、それは時と場合によって相対的に優先度が高くなったり低くなったりする。今回はフランス国内であったから人権思想の優先度が相対的に高かったのだ。


著者はこう述べる。

普遍的な「人権」擁護の観点からすれば、この風習はすぐに廃止すべきだと考えられるでしょう。女性差別に基づく身体への暴力であり、明確な犯罪だと言われるかもしれません。
(P.170)

現地の医師の調査によれば、最近の女子割礼は「伝統的な成女儀礼」というより、「美容」目的が多いといいます。しかも、医療機関で執り行われるため、「健康上の問題」もなくなりつつあるというのです(「朝日新聞」1999年12月9日)。とすれば、女子割礼は先進国の美容整形と同じなのかもしれません。
(P.171)

まず、「人権」擁護は普遍的なものではない、ヨーロッパの歴史の中で発生し成長した地方性のある文化である。それは世界の多くの地域で受け入れられたし、日本でも人権は非常に大事な概念ではある。確かに日本やフランスやその他の多くの国々で通用している文化ではあるが、それでも”世界中”というわけではない。
更に、最近の女子割礼を先進国の美容整形と同じだと評する意図が透けて見える点についても言及しておこう。
著者が言いたいのは、伝統や風習なんて「美容整形」のような流行と同じ程度の価値しかない、近代的な「個人」「理性」「意識」「客観性」「合理性」「科学技術」「論理的な明晰さ」といった価値こそが”普遍的”なものである、と。
要は、バイオテクノロジーなどの利用において邪魔になる伝統的な「人間の尊厳」という曖昧かつ明晰でない価値を貶めたいのだ。そのことは別の場所でも表れている。

女子割礼も、その文化圏に属する誰もが望んでいるわけではありません。とすれば、ものごとの善悪や正邪を判断する場合、文化や社会を単位とするより、むしろ個々人を中心に考えるべきではないでしょうか。
(P.172)

「個人」を単位にするべきであるというが、その個人は他者との関わりによって「個人」たりえているのだ。個人は、集団が歴史的に積み重ねてきた暗黙の了解を所与のもの(文化)として受け継ぐことで個人としての人格を形成している。歴史から切り離された個人など存在しない。人間(≠ヒト)はどうあがいても社会的な動物である。私達は他者と関わる際には言語を用いる。それは音声だろうが文字だろうが手話だろうが、私個人が勝手に作ったものではなく、歴史的に形作られたものだ。私は日本語しか話せないが、仮に英語だろうがフランス語だろうが何語で話したところで、言語を使用している時点で歴史から束縛されない自由な存在ではありえない。ある文化圏に属する諸個人の全てがその文化を望んでいるわけではないことは確かにそうだが、それは文化や社会という単位が個人という単位より劣位にあることを意味してはいない。
何らかの文化的風習というものは絶対不変ではなく、歴史を通して変化している。それは全ての個人が納得していなかったからというのも要因の1つになっていると思われる。だからこそ、他の文化(私達先進国の人権思想)を押し付けずに、見守りながら時々は意見や助言をする程度に止めるべきなのだ。アフリカの文化が変化するのに必要な時間の分だけ待つしかない。近代文明の人権思想や個人主義(という文化)を勝手に「普遍的」などと称するのは傲慢以外の何物でもない。



著者は政治思想上の立場の分類として3つを挙げる

リバタリアニズムは、共同体の規範からの個人の自由を尊重する立場で国家権力からの制限についても否定的であるため小さな政府を志向する。しかし、自由競争は弱肉強食でもあり、個人の自由と安全のためには国家権力を要請するしかないという矛盾をかかえている。

ネオコンサバティズムは、「家族」「道徳」「宗教」「教育」「愛国心」などの共同体の規範に価値を置き、社会秩序を維持するために大きな政府を志向する。

上記2つはネオリベラリズムを理解するための比較対象としてあげられている。
ネオリベラリズムは、福祉や平等の達成のために大きな政府を志向する一方、「経済に対する国家の介入に反対」する「市場原理主義的」立場であり、これは「強い国家」と「個人の自由」という相矛盾する側面を持ち合わせている。

そして、このネオリベラリズムは「強者の論理」として成立しており、ロールズが「無知のヴェール」で説明するような弱者との立場の逆転という想像力を欠いたものであることを指摘している。
このネオリベの社会における自由とは「~できる(能力)」のことであり、市場原理主義の立場での能力とは「お金」であるという。

「居住の自由」や「服装の自由」が法で保証されていても実際には「お金」がなければ実現できないことを具体例として挙げながらこう述べる。

そうだとすれば、消費者社会においては、「お金」がその人の「能力」となる、といえるでしょう。「お金」はあらゆる商品(モノ)と交換することができます。
(略)こう考えると、ネオリベラルな世界では、「自由」かどうかは「お金」のあるなしに左右されることがわかります。
(略)こうした、「お金」に価値が一元化された世界では、「お金」がなくなったとき、ヒトは「自由」を失ってしまうのです。
(P.196)

ここでは、お金がないと不自由な生活になるという程度の当たり前のことしか述べていない。
だが、著者の意図としては、現代はもう「超消費社会」となっているということを強く印象付けながら再確認を行い、これに逆らっても仕方がない、この在り方は肯定するしかないということが言いたいように見える。
個人の欲望の自由に対しての予想され得る異議申し立てについて「今はもうこんな時代なんだよ」と先回りして牽制しているといったところではないだろうか。


「モノ化」する社会

著者は、ICタグGPSを例にとり、その有用性は認めつつ、張り巡らされたネットワークとして機能している点を指摘していく。
いわゆる「監視社会」というものだが、この分析の精度を上げるためフーコーパノプティコンについての考えを見直しながら現代の「超消費社会」における「欲望」と「監視」そして「管理」について論を進めていく。

この「パノプティコン社会」について、、私は2つの特徴を指摘しておきたいと思います。
1つは、「監視する者」と「監視される者」の非対称性です。
(略)もう1つの特徴は、監視によって人々を「規律訓練」(あるいは「調教」)するということです。
(P.209)

監視システムは、国家の領域から私的な領域へと拡散している(例えば自宅の監視カメラなど)。
それだけでなく、企業によってクレジットカードやオンライン・ショッピング、ネットサーフィンもくまなく補足されており日常生活においても管理の及ばない領域はない。
このように「監視されていることを意識しない」システムが張り巡らされ日常生活に管理の手が及んでいる。

フーコーのいうパノプティコン(少数者が多数の者を見る)システムだけが近代において発達してきたのではなく、シノプティコン(多数者が少数の者を見る)システムも同時に発達してきたとマシ―センは提唱しているようだ。
このように現代社会では消費者を監視するシステムとしてのパノプティコンと、消費者が(欲望の対象を)見世物として監視するシノプティコンとの相互作用による動きがある。
企業は消費者を監視し欲望の動向を探り(パノプティコン)、消費者は見世物をメディアを通じて監視すること欲望の形が変化していくという同時因果関係的な欲望の運動が超消費社会において展開されている。


「人間の尊厳」の終焉

アメリカでは右派、ヨーロッパでは左派がヒトに対する遺伝子操作に反対しているらしい。
そのどちらもが反対の根拠に「人間の尊厳」が損なわれるという主張をしているようだ。

フランシス・フクヤマの『人間の終わり』で示される意図を著者が紹介するところによると、

本書の目的は、ハスクリー『すばらしい新世界』が正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それは人間の自然本性を変え、我々が歴史上「人間後(ポストヒューマン)」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(『人間の終わり』九頁)

つまり、現代のバイオテクノロジーは「遺伝子操作」によって、人間の本性(ヒューマン・ネイチャー)を変えてしまい、「人間(ヒューマン)」は「ポストヒューマン」へと種を変化させるというわけです。この事態は、「人為的な進化」と考えられ、それをフクヤマは「人間の尊厳」に反すると見なし、規制すべきだと主張するのです。
(P.241)


また、ハーバマスの『人間の将来とバイオエシックス』での主張も取り上げている。

選別と形質変換を目標とした遺伝子技術と、そのために必要な、将来の遺伝子治療に向けた研究のあり方(中略)こそが、本当に新たな種類の挑戦であると言えよう。(『人間の将来とバイオエシックス』五十頁)


こうした「新たな挑戦」に対して、ハーバマスはいかなる態度をとるのでしょうか、かれによると、人間の遺伝子操作は「人間の道具か」であり、「人間の品種改良」であるといいます。
(略)このとき、かれが持ち出す論拠が、やはり「人間の尊厳」という概念なのです。
(P.242)

ところが、この概念はきわめて曖昧で、何を意味するかほとんど分からないのです。この点は「人間の尊厳」を主張する人たちからも、しばしば表明されています。
(P.243)

この部分から判断すると、「受精卵」はむしろ、「自然の体系における人間」で「取るに足らぬ存在」といえます。ですから、カントを引き合いに出して、「受精卵の尊厳」を語るのは無理があるのではないでしょうか。
(P.245)

このとき、受精卵に何もしないで重い遺伝病をもった子供が生まれることと、受精卵に遺伝子治療を施すことによって健康な子供が生まれることでは、とちらが「人間の尊厳」にふさわしいでしょうか。少なくとも、「遺伝子治療」をすることが「人間の尊厳」に反しているとはいえないと思います。
(P.246)

ポストロムによれば、バイオ保守主義は「ポストヒューマン」のイメージを、ハスクリーの『すばらしい新世界』に基づいて描いています。
(略)いま進行しつつあるバイオテクノロジー革命とは発想がまったく異なっています。というのも現在は、国家ではなく個々人の自由な選択によって、身体や精神のエンハンスメント(能力増強)を図っていくからです。
(P.247~P.248)

人間主義の考えによれば、現在の人間の本性は、応用化学や他の合理的方法によって改良することができる。それによって、人間の健康の機関を延長し、私達の知的・身体的能力を拡張し、私達の神的状態や気分に対するコントロールを増大させることができるのである。(Bostrom p.202f)
(P.248)

安全で信頼できる生殖テクノロジーの到来は、人類の自己設計時代の始まりを告げることになるだろう。(中略)徐々に漸進的に自己変容していくことによって、私達の子孫を、現在使われているような意味で人間とは呼べないほどに、現在の人類とは違ったものに変えてしまう事ができるかもしれない。(『それでもヒトは人体を改変する』九頁以下)
(P.249~P.250)

誤解してはならないのは、受精卵の遺伝子を改変したからといって、いったんこの世に生まれ出た子供を親が意のままに操ることは出来ないということです。遺伝子を設計できるのは、あくまで初期条件だけで、能力の部分にすぎません。生まれた後、どのような人生を歩むかは、子供が個々人で決定していくことです。
(P.251)

つまり、先進テクノロジーに対して重要なのは、発展を阻止することではなく、費用・安全性・有効性を確保することです。
(P.252)

というのも、個々人の欲望を考えてみれば、「より優秀な子供」を求めるのは、親の常だといえるからです。
(略)こうした個々人の欲望を超えて、バイオテクノロジーはすでに、巨大な市場をけいせいしつつあります。
(P.253)

そして、その研究開発が国家的な威信をかけたものである現状では、それに規制をかけることはイコール国益に反することになってしまうのです。
(P.255)

たとえば、人々が「自由」を追求すれば、「平等性」が脅かされ「格差」が拡大するだけでなく、社会的な「規範」や「道徳」も崩壊し、ひいては人々の「管理」が強化されることになるわけです。こうした内的な矛盾は隠ぺいするのではなく、欲望の加速化によって出現させるべきなのです。
いまのところ、矛盾が明らかになったところで何が生み出されるかは分かりません。しかし、それを乗り越えたところに新しい時代が開いていることは間違いないでしょう。そして、「モノ・サピエンス化」への欲望を加速化させることで、私達が新たな時代へ踏み出すとすれば、そこではじめて「モノ・サピエンスの尊厳」を擁護すべきなのかもしれません。
(P.262~P.263)


大雑把な流れとしては、

規制の論拠として出た「人間の尊厳」は曖昧だしカントも無効

重度の遺伝病の人の「人間の尊厳」はどうなる

個人(親)の自由な選択なら遺伝子操作を決断してもいい

親は遺伝子の初期条件だけ決定して、あとは子供の選択で生きる

発展を阻止するのではなく、費用・安全性・有効性の確保に力を入れるべき

優秀な子を求めるのは親の(肯定すべき)欲望だし市場も大きい

国益をかけた競争になる(規制かけた国は損をする)

矛盾が出ても隠さず進め、この先どうなるか分からないけど新時代がそこに開いている



(少数の)同意できる部分と(多数の)同意できない部分とがある。

まず、「人間の尊厳」が曖昧な概念だからといって、遺伝子操作に対する反対意見としての論拠の正当性や有効性を失ったりはしない。この問題が取り扱われる土俵は「論理学」や「科学」ではなく「倫理・道徳・規範」である。だから「明晰さ」は優先順位としての地位は低く、むしろ、社会の中で多くの人々に広く共有されている倫理観や規範の方が優先度としての地位が高いのだ(逆に言えば、多くの人々が何の違和感も覚えずに「人間の尊厳」を切り捨てることが出来るなら遺伝子操作は広く受け入れられることになる)。

重度の遺伝病に対しての遺伝子操作に関してだが、これは多くの国々では受け入れられると考えられる(日本でも)。そして、少数の国々では宗教上の制約等で禁止され続けるだろう。この問題についても「人間の尊厳」の曖昧さは否定されるべきものではない。曖昧であるがゆえに文化相対主義的な観点から、それぞれの社会で共有されている価値観(人間の尊厳)の下で、様々な形をとっているため、その文化的共同体や社会の実情に合った受け入れ方がなされるべきものだ。日本ではおそらく受け入れられやすいものだと思われるので、重度の遺伝病に対しての遺伝子操作を認めることに関しては、私は同意できる。

しかし、能力増強のための遺伝子操作には同意できない。現時点においては安全性も確立されてはいないが、それが反対理由なのではない。親の自由選択(エゴ)によって子供に「優秀であるべき」と人工的な操作が加えられるのは、その子の人生において重大な「実存の危機」をもたらすことになることが反対理由だ。著者は遺伝的初期条件を決めるだけで後の人生は子の自由選択に委ねられているというが、実は初期条件を人為的に設定された時点で、後の人生における自由選択の道は閉ざされている。サルトルは人間の特性について「実存は本質に先立つ」と言った。これが意味するのは「人間とは~であるべき」という本質を前もって授けられているのではない、本質から自由な存在であるということだ。しかし親の自由選択による初期条件の設定は子供に対して「あなたは~であるべき」を授けてしまっている。出生の秘密とは人生を通して付きまとってくる。人間はそこから自由になれないのだ。被投(自らの意志によらず社会に投げ入れられること)され企投(自らの意志で社会に飛び込んでいくこと)していく現存在(人間)、それが実存だ。しかし、出生の秘密として親の意志が入り込んでしまうと被投性が成立しない。自然に生まれた場合は、初期条件がどうしようもないもので受け入れるしかないものだが、遺伝子操作を伴っていると「ああも出来た、こうも出来た」ということになり他の選択肢も有り得たとして「どうしようもなく受け入れるしかないもの」ではなくなる。こうして被投性が破壊されるわけだが、なぜそれが問題かというと、被投性は企投性の足場になっているために、足場が破壊された状態では企投(自らの意志で社会に自分を投げ出していくこと)が不可能になるからだ。「企投」するためには「被投」されることが必要である。遺伝子操作は「どうしようもない初期条件」を「どうにかしえた初期条件」へと変質させ「実存の危機」を招くものとなる。「生まれた後に子供は自由に人生を選択できる」というのは全くの勘違いである。その背後には人間の「自由意志」への過大評価があるように思われる。

「発展を阻止するのではなく、費用・安全性・有効性の確保に力を入れるべき」については、まず、人間の遺伝子操作を禁止したとしてもそれは発展を阻止しているわけではない。現に動物実験は行われており、分子生物学者達などは研究を続けながら発展に携わっている。阻止されたのは「発展」ではなく、「急進的な発展」である。「費用・安全性・有効性の確保」も動物実験などを通じて現在も(ゆっくりと)進行中である。遺伝子操作に関しての実用化については急進的なやり方で控えて漸進的に行わなくてはならない。遺伝子が規定するのは身体という「内なる自然」である。進化の歴史を見ても、その変化は環境と身体の相互作用による長い長い時間をかけて行われてきたものだ。遺伝子操作を行った子供が無事に出産されたとしても、人生の終わりまでをしっかりと見なければならないので数十年を必要とする。さらに1人や2人などの少数では話にならなにので統計的に意味のある人数を長い時間かけて観察していく必要がある。しかし、いきなり大量の人々(受精卵たち)にそんな実験を行い、もし問題が生じたらどう解決するつもりなのか。だから、この実験は急進的に行えるものではなく、時間をかけて漸進的に行わなくてはならない。安全性や有効性が確保されたかを確認するためには何十世代・数千人を観察しなくてはならないだろうし、それは能力増強ではなく、重度の遺伝病治療に限定されて行われるべきであろう。本当に長い時間がかかるので規制をすぐに撤廃しようとする姿勢は間違っている。生物の体は「複雑系」だ。遺伝子を「ああすればこうなる」といったように要素還元主義的な因果関係で結ぶことはほとんどの場合できないだろう。「論理的整合性」より「現実との適合性」を見なくてはならないので何十世代という時間と、おそらく数千人規模の人生の最後までを観察しなくてはならないため、遺伝子操作の実用化と発展には本当に長い時間を必要とすることになるのだ。少なくとも100年程度や200年程度では全然足りない。
あと、遺伝子操作をするにしても「重度の遺伝病」に対するものと「能力増強」に対するものは同列に語れるものではないことも付け加えておく。

市場の拡大についても、現実に起こっていることだが、そうであるがゆえに問題なのだ。企業の目的は利潤追求だあるし、それは肯定しなくてはならない。利潤追求を否定された企業は目的合理的な経営を行う事ができないので十中八九、倒産することになるだろう。それを踏まえた上でバイオテクノロジー産業を見ていくと、利潤追求上の効率化や同業他社との競争に勝ち抜くためには、現実的に安全性の完全な確保や依頼者への心理的配慮やアフターケアなどが不十分になってしまう。これは私の単なる予測ではない。現実に代理母出産に関してアメリカなどでは過去に発生した問題である。この本の著者はP.100でタレントの向井亜紀の行った代理母出産を例に挙げていたが、成功例だけを取り上げているにすぎない。これには失敗例として企業側が利潤追求の効率化を図ったことによる不始末や、代理母出産を依頼した側とされた側で起きた裁判沙汰のもめごとなども紹介していなかった点で公平性に欠ける取り上げ方だと言わざるを得ないのだ。ここで起きている失敗は「次からは気をつけます」では済まされない。なぜなら「人間の尊厳」に関わることだからだ。「人間の尊厳」は時代によっても変わり、個人間でも完全な一致は見られないし、異なる文化的共同体や異なる社会間でも違いがあり、明晰性を見出せない”曖昧な”概念ではある。しかし、曖昧であることによって、これを取るに足らぬものと無視させる根拠たりえるわけではない。なぜなら、これは論理的な問題や科学的な問題ではなく、倫理的・道徳的な問題であるからだ。

バイオテクノロジーの開発競争は、現在も、そしてこの先も国の威信をかけた国益に関わるものになり続けるだろう。規制をかけることは、他国に後れを取ることになり国益を損なうかもしれない。その点には私も同意する。
では、すぐに規制を緩和して積極的に(人体を利用した)開発競争に進めば良いのかというとそうではない。ある問題の解決は、そのことによって、また別の問題を引き起こすことになるのだ。現時点におけるバイオテクノロジー開発競争の問題については、規制緩和が解決策ではないということは確かだ。

著者はとにかく進めと述べているだけにすぎない。「矛盾が明らかになったところで何が生み出されるかは分かりません」と主張し”何か”が起きたときにどうするかというと「それを乗り越えたところに新しい時代が開いていることは間違いないでしょう」と述べるだけで、どう乗り越えるかは示さない(何が起こるかは分からないので当然ではあるが)。そして乗り越えた先の「新しい世界」とやらが良いものである保証は何もないままなのだ。これでは話にもならない。結局のところ主張されているのは「新しい世界」が人間にとって良いものか悪いものか分からないけど「超消費社会」の導くままに「欲望を加速させて進み続けるべきだ」ということでしかない。おそらく欲望が満たされるのだから「新しい世界」はきっと良いものに違いないという希望的観測があるのだろう。しかし、それは余りにも無邪気で短絡的な予測、いや願望にすぎないのだ。既存の社会的な道徳・倫理・規範を敢えて壊してまで「欲望を加速」させる必要などない。


あとがきで述べられているが、

もしかしたら、ドギツイ表現と他人事のような記述をみて、戸惑う方もいらっしゃたのではないでしょうか。
(P.264)

こうした書き方をすれば、もしかしたら「カヤの外」から野次馬的に観察しているのではないか、と疑問をもたれたかもしれません。しかし、私自身は、いつも「使い捨てられるヒト」の立場に立って書いていました。
(P.266)

これを見ると中立的な立場から客観的に、この問題を取り上げているかのような印象を受けるが実際はそうではない。著者は中立の位置に立っているわけではなく、「モノ化」を積極的に肯定し推進していく側の視点でこの問題を取り上げている。ある立場を持つこと自体は自由だ、何も悪いことではない。しかし、それを隠して中立を装うことは卑怯だと言わざるを得ない。このあとがきにある中立を装った記述は残念なものだった。

この本を読んで、著者は「理性」や「意識」を中心に据えた近代合理主義に基づいて物事に取り組むことを正義としているような印象を受ける。
そうだからこそ著者は「明晰」でない曖昧な”人間の尊厳”を慮外とするし、近代的「個人」の「自由意志」に基づいた「自己決定」による選択を善いものだとし、そこに迷いがないのだ。
しかし、人間も自然も現実社会もそれほど単純なものではない。遺伝子操作についても人間を要素還元主義的に部品として扱ってああすればこうなると因果を結べるものではない(これは技術的問題ではなく原理的な問題である)。現代科学ではまだ「複雑系」についての方法論が確立されていない以上、安易な遺伝子操作によって何が起こるかは分からないままなのだ。
矛盾が出てきてもそこに突き進んだ先に「新しい世界」があるというが、その新しい世界はただ矛盾が放置されているだけの世界でしかない。それは著者が近代合理主義の反対側にあるものを受け入れていないことに理由がある。「明晰さと曖昧さ」「理性と野生」「意識と無意識」「個人と共同体」「新制度と伝統的制度」「論理と倫理・道徳」「欲望の放埓と節制」等々の矛盾するものを受け入れ、そこで生じる葛藤と緊張の中から抜き差しならぬ決断を行い、行きつ戻りつしながら漸進的に踏み出していった先にこそ「新しい世界」が開かれているのだ。
世界とは当然のことながら何らかの秩序をもっている。それは矛盾がただそこにあるだけではなく、その矛盾を抱える緊張と葛藤の中で人間が苦渋の選択を実行したときに何らかの秩序を持った世界が開かれてくるのだ。「欲望を加速させて進む」だけでは矛盾は放置されたままで「新しい世界」など開かれることはない。
欲望を加速させた結果で生じた矛盾ではなく、「近代合理主義的な価値」と「伝統的な価値」との間で生じる矛盾こそが「新しい世界」を開くために取り上げられるべきものである。そこには抜き差しならない葛藤と緊張がある。

ヒトをモノとして扱う時代―――『モノ・サピエンス』を読んで②

人間が物質化・単一化している現代社会について書かれた本。
著者は岡本裕一朗(哲学・倫理学者)。
光文社新書
2006年第1刷。



「モノ化」する人間

「モノ化」する命

体外受精試験管ベビー)としてルイーズちゃんの無事な様子を具体例として取り上げ、不妊に悩む人の選択肢が増えるのは良いことだとする。当時は強い偏見などもあったようだ。

精子バンク・卵子バンクについても、その売買を肯定的にとらえている。

代理母出産について、不妊症の人だけではなく仕事が忙しくて休みが取れない女性や、妊娠によって体のラインを崩したくない女性たちに需要が増えているそうだ。

クローン人間に関しては、まだ世界中で禁止されているが将来的には実施されると予想しているようだ。

遺伝子診断によって男女の性別、障害の有無、容姿や能力の差異なでおを選別することが可能になる。

遺伝子組み換え人間は、まだ現実とはなっていないが、将来的に先天性の病気を治すだけでなく能力増強のための遺伝子改変も親にとって「魅惑的な技術」として実現可能性があるという。

臓器移植については、「生体からの移植」と「脳死者からの移植」の2つに分類されると紹介した上で、免疫システムの拒絶反応やそれを抑える薬を利用すると免疫力の低下を招く問題を説明する。
しかし、需要は大きくて常に不足している状態だという。そのため闇取引が絶えないのだ。
不足を解消するために法的な規制や監視を緩和するべきだという意見のようだ。
著者は2つの選択肢を提案する。
「ひとつは、脳死後の臓器提供について、すべての国民に義務化をするという方向です。」
「もうひとつは、臓器提供を有償化するというほうこうです。つまり、亡くなって臓器が提供されれば、遺族にその謝礼が支払われるわけです。」

そして、中絶胎児の細胞は最も大きな需要がある。中絶胎児の細胞は成長力・増殖力が強く、また、免疫として拒絶反応が少ないということもあり非常に価値の高い商品となっているようだ。

遺伝子操作には大量の使い捨てされる受精卵がある。簡単に成功するものではないので、大量に用意したものの中から成功したものを選び、使えない受精卵は廃棄することになる。受精卵である以上、着床するなり条件が整った環境におけば、そのまま発生が進行し赤ん坊として成長していく。それ(受精卵)を廃棄することが「(法的ではなく倫理的な)殺人」に該当するかどうかが問題になり、また、意見の分かれるところでもある。

ヒトの使い捨てなくして、バイオテクノロジー革命は進展できないのです。
(P.125)

著者はヒトのモノ化については基本的に肯定的立場であるようだ。


上記の分析と主張について私には同意できる部分と同意できない部分がある。
不妊に悩む人や、先天性の重病や難病であれば、ある程度の条件を課すことで体外受精や遺伝子診断などを利用することには異論はない。医療技術として役立てた方が良いと思っている。

しかし、それ以外の場合に関しては絶対にその必要があるとは認められない。

精子バンクや卵子バンクにしても、そこで売買された後に生まれた子供や親に心理的葛藤が生まれている問題がA・キンブレルの『生命に部分はない』(講談社現代新書)に取り上げられている。この書籍(『ヒューマンボディショップ』でタイトルが違うが同書である、著者はP.119で引用している)は著者も読んでいるので知らないはずはないのだが、あえて無視しているのだろうか?都合のわるい部分は無かったことにしているようにしか見えない。

代理母出産にしても問題なく済んだ話だけを取り上げているが、ビジネスと絡んだことによって発生した問題点や、依頼者した人と依頼された人との間で裁判沙汰になった件があったことも取り上げられていない。著者が知らないはずはないのだが。

また、クローン人間(遺伝子的同一人物)を作って一体どうしようというのだろうか?

遺伝子診断にしろ遺伝子操作にしろ、重病・難病者に利用するのは賛成である。しかし、単なる能力強化に利用するのは行き過ぎである。そこまでする必要性がない。それを行う人が出始めると、社会的影響は大きいので、単純に「個人の自由選択」という問題に還元できることではない問題だ。

臓器移植に関しても、不足を解消するために法的な規制や監視を緩和すると、そこから別の問題が発生するので不足を解消しさえすればいいわけではない。安易な規制緩和では問題の困難さが、より大きく複雑になる可能性もある。

卑劣なレッテル貼りによる印象操作についても異論を挙げさせてもらう。

新たな技術が開発・導入されるとき、しばしばこの手の反対意見が沸き起こります。その背景にあるのは、科学技術に対する根拠のない恐怖感で、実際、「体外受精からは化け物が生まれる」と信じ込む人もいたようです。
(P.96)

クローン人間についての知識がない大学生にクローン人間のことを質問すると、彼らは得体の知れない怪物について聞かれたかのように感情的に反発します。ある人物をそっくりそのままコピーした人間、と素朴にしんじているようです。しかし、これはまったくの誤解です。
クローン技術で生まれた赤ちゃんは、通常の分娩で生まれた赤ちゃんと何も変わりません。
(P.102)

ここでは人体の利用に関して反対の立場をとっている人たちが「偏見」と「無知」に陥っている人ばかりであるような不当な印象操作が行われている。
わざわざ偏見を持っている人や知識のない人だけに聞いて人体利用に反対だったことを取り上げているが、世の中のほとんどの人が分子生物学の知識なんて持ち合わせていない。だから、賛成派も反対派も両方が知識不足の人達だ。そして、知識がある人達の間でもこの問題は賛否両論ある。
著者と反対の立場にいる人達は、さも無知であるがゆえにそう主張しているのだという卑怯な印象操作をしていると言わざるを得ない。

また、「ある人物をそっくりそのままコピーした人間、と素朴にしんじているようです。しかし、これはまったくの誤解です。」とあるが、少なくともクローンについては遺伝子的な同一人物であるから、まったくの誤解というわけでもない。
さらに「クローン技術で生まれた赤ちゃんは、通常の分娩で生まれた赤ちゃんと何も変わりません。」というが、何らかの意図の下、人口的に操作を加えられている点で何も変わらないというわけではない。
通常とは違うことは認めなければならないだろう。


臓器移植の問題についても同意できない部分がある。

国が臓器移植法で臓器売買を禁止するのは勝手ですが、ドナーを十分に確保できていないのに禁止や制限条項ばかり加えていたら、助かる患者さんも生命を落とすことになってしまう。偉い方々はすぐ、「臓器は物ではなく、それを売買することは人間の尊厳を汚す」だとか、「臓器売買を認めてしまうと、無知で貧しい人々がドナーとなり、弱者からの搾取に繋がる。また、レシピエントの間にも、臓器を買って生き延びる金持ちと、買えずに死ぬのを待つしかない貧乏人の間に不平等が生じる」と臓器売買に反対するけど、無償なら人間の尊厳を損なわず、貧富の差が生じないとでも言うのでしょうか。きれいごとばかりをいってはいけない。金持ちは日ごろから莫大なカネを払って、最先端医療を受けたり、各種スポーツやフィットネスクラブに通って健康なカラダを作ることができます。今でも十分過ぎるくらいに、貧富の格差はあるんです。貧しい人々は自分の臓器を売ったおカネで幸せな暮らしを買う。そうした自己決定権に難癖をつけ、タダで奪う方がよほど人権侵害であり、金持ちの驕りではないでしょうか。
(一橋文哉、『ドナービジネス』五十八頁)

いかがでしょうか。臓器ブローカーの自己正当化の弁にすぎないといって、切り捨てることはできないはずです。
(P114~P.115)

「臓器ブローカーの自己正当化の弁にすぎないといって、切り捨てることはできないはずです」と言っているが、これはやはり臓器ブローカーの自己正当化の弁にすぎない。金持ちが最先端医療を受けたりフィットネスクラブに通うことと臓器移植を同列に並べられないし、「無知で貧しい人々からの搾取」へは反論できていない。「貧しい人々は自分の臓器を売ったおカネで幸せな暮らしを買う」というが臓器を売ったからといって幸せになれる保証などない。「自己決定権に難癖をつけ」ということの方が”きれいごと”である。無知で貧困にあえぎ、借金や脅迫など弱みを握られている人々が自由な意志で「自己決定」していると言い張って通用するわけがない。
著者は、一橋文哉の文章が本当に「切り捨てることができないはず」だと思っているのだろうか。まともに取り合う価値のない稚拙な理論でしかないのだが。



「モノ化」する遺伝子

著者は、<個性=他人との差異=他人との差別>として「生まれの不平等」と「ヒトのモノ化」との関係について考えていく。

政治家の世襲や実業界との血縁ネットワークに言及しながら、ひとまず「ヒトが不平等に生まれる」という事実を確認していく。
そして、医者や芸能人、スポーツ選手にもジュニアが多くなっている点を指摘する。
ハイデガーサルトルが「被投性(この世界に存在するようになったのは自分の選択によるものではない)」という側面を表現したことを取り上げながら「家」が子供の可能性を制約するということを主張する。
家族とはコード(規則や慣例)として<何が出来る/出来ない>を区別して規制をかけるものだという。

ここでは、身分制や世襲制ということを言っているのではなく、家庭環境がその子供に大きく影響を及ぼすというだけの分かりやすい話だ。
確かに、その意味では「不平等」といえるだろうが、このくらいなら許容範囲内であろうと私は思う。

著者は、この「生まれの不平等」に対して「能力主義」を持ち込んでも<平等>は達成できないという。
徒競走を例に出し、こう述べる。

ただ、<足の速さ>に対応する遺伝子が(略)どの遺伝子かは別にして、「親から子へ遺伝子が相続される」ことは否定できないのです。
そうだとすると、徒競走は最も露骨に「生まれの不平等」を明らかにする場ではないでしょうか。
(略)もちろん、遺伝子がすべてを決定するという「ハードな遺伝子決定論」に与するわけではありませんが、遺伝子の役割を軽視することもできません。
(P.151)

また、マット・リドレーの『やわらかに遺伝子』から引用しながら、与えられる教育(環境)を同じにして結果、遺伝子の役割が大きくなり、能力の差は遺伝子に還元されていくという主張をする。

そして、マイケル・ガザにガの『脳のなかの倫理』を引用し、複数の遺伝子の組み合わせをも解明することで、複雑な知的能力を司る遺伝子も暴かれる可能性があることを示唆する。

さらに、ビル・マッキベンの『人間の終焉』を引用し、受精卵の遺伝子の一部を改変し能力増強された子供が生まれてくる可能性にも言及する。

もちろん、これらは実現された事ではないし、技術的な問題もまだある。しかし、単なる空想の話というわけでもないという。

上記のようなことが、もし実現したならば遺伝子操作によって多くの人が能力増強を行い、「生まれた家の不平等」や「生まれ持った遺伝子の不平等」がなくなり、ほとんどの人が「人工的に改変された遺伝子」をもった能力的に均一で平等な状態になることも可能だという主張である。

こうした「遺伝子ラジカルズ」に対して「優秀な家系」である「遺伝子強者」は、ただ手をこまねいて見ているだけではありません。遺伝子操作を禁止して、「生まれの不平等」を永続化しようとするでしょう。そうでなければ、自分たちも子供の遺伝子を操作して、家系をさらに優秀なものにしていこうとするかもしれません。こうして、遺伝子操作競争がはじまるのです。
(P.159~P.160)

この遺伝子操作競争の在り方として、ナチスのような「集団の優生学」ではなく、親の自由意志(欲望)の選択による「個人の優生学」が展望されると、そんな予感がしているらしい。
バイオ産業が消費者のニーズを探りながら商品開発に励んでいるそうだ。


大雑把な流れを整理すると、

「生まれた家の不平等(家柄主義)」と「生まれ持った遺伝子の不平等(能力主義)」があって人間は平等じゃない。

「遺伝子操作で生まれた子供」は能力増強できる。

優秀な家系(遺伝子強者)は遺伝子弱者の行う遺伝子操作を妨害するか、もしくは遺伝子操作競争に参加してくる。

結果、「遺伝子強者」にしろ「遺伝子弱者」にしろ、どちら側も多くの親が自由意志で受精卵にどのような遺伝子操作を加えるかを選択し、能力増強された子供が生まれる。そうなると、能力の差がほとんどない均一な集団となる。あと、遺伝子の選別や改変の過程で多くの受精卵は排除(使い捨て)される。
このように人間はモノとして扱われ、単一化していき、使い捨てられる。

これらは、現在において実現していることではない。著者は、将来そのようになる可能性があり、これは単なる空想やSFの話ではなくなったということを述べているだけだ。

しかし、この主張には私は異論がある。
まず、著者の立つ前提として「優秀な遺伝子」と「劣等な遺伝子」というものがあるのは事実だとしている点だ。
ある能力が(仮に遺伝子に依存しているとしてそれが)優秀かどうかは「事実」ではなく「解釈」にすぎない。
例えば、ある人は<足が速い>という事実があっても、それが「優等」か「劣等」かは周囲の環境や状況によってどちらにも解釈され得るのだ。
<足が速い>方が優れているに決まっていると思う人の方が世の中には多いことは私も分かっている。
では、このような状況だとどうだろうか。
猛獣が身を隠し待ち伏せしているところに美味しい果物のなる木があったとして、そこを目がけて複数の人が走り出したとする。当然、<足が速い>者が先に到着するだろう。しかし、真っ先に餌食になって命を落とすのは、その<足が速い>者となる。この場合、「優等(生存に有利)」と「劣等(生存に不利)」の解釈は逆転することになる。
こんなめったにない特殊な例(作り話)を持ち出しても説得力は薄いと思われるのでもう1つ出そう。

今度は作り話ではなく、現実の話だ。
遺伝子突然変異により、11番染色体にあるヘモグロビンβ鎖の6番目のアミノ酸に置換(グルタミン酸→バリン)が生じることがある。この鎌状赤血球症では、赤血球の形に異常が生じて酸欠になりやすく生きていくのに不利となるが、マラリア原虫に感染されたとき異常な形の赤血球によってマラリア原虫を倒してくれるのだ。それ故に、マラリアが比較的多く発症するアフリカなどでは、正常な赤血球しか持ってない人よりも逆に生存に有利となる。
つまり、「鎌状赤血球症」や「正常な赤血球」は個体をとりまく環境によって優等(有利)か劣等(不利)かが変わってくるのだ。

それなら、自分が今おかれている社会において都合のいい遺伝子を選択して能力増強すればいいだけだ、という反論がくることが予想されるが、その反論は論理的には不可能だ。
なぜなら、人間が置かれている社会環境も自然環境も、時代と共に変化し続けるからである。特に現代では変化のスピードはより速くなってきている。遺伝子操作を施した受精卵が大人になるまでの20年くらいの間に、社会で有利とされる能力も変わっていることになる。遺伝子操作は受精卵にしか施せない。大人になってからだと約37兆個の細胞があるので必要な組織や器官の細胞だけに限定しても、その数は膨大なものとなり実現不可能だ。

結局のところ、能力が低い遺伝子とか、高い遺伝子なんてものは存在しない。あるのは環境に適応してるかどうか、生存に有利な遺伝子とか、生存に不利な遺伝子とか、有利でも不利でもない中立的な遺伝子があるだけだ。しかも、自然環境であれ、社会環境であれ、時代や場所によって変化するので、どの遺伝子が「優等」か「劣等」なのかを一義的に決めることは出来ない。

現実問題として、頭が悪いとか、運動が苦手とか、見た目がブサイクだとかいった劣等感を持っている人は(私も含めて)たくさんいる。
それが、家柄や遺伝子に依拠している部分があることも否定はできない。しかし、この「生まれの不平等」を解決する方法を「遺伝子操作」に求めることについては反対である。
「生まれの不平等」自体にネガティブな価値しか認めていない点が間違っているのだ。上記に示した通り、時代や地域によって社会環境や自然環境が変化するために、今この場所における評価が低かったとしても、それは将来において逆転しうるものなのだ。この「生まれの不平等(人それぞれ違う)」は、変化に対応する可能性を温存しておく意味がある。それが多様性(いろんな特性をもった個体が存在する)意義なのだ。
著者の主張だと、個体(個人)という単位でしか物事を見ていないせいで能力に恵まれない者が存在する意義や価値を捉え底ないっている。そのために「遺伝子操作」にようる「生まれの不平等」を解消して平等で均一な状態を作ろうなどと考えてしまうのだ。
頭が悪く、運動能力が低く、見た目も不細工な(私のような)恵まれない人がいても、自分自身を無価値だと否定する必要は全くないし、他者から見下されたとしても、その蔑視には何の正当性もありはしない。
なぜなら、種としての多様性を確保し、環境の変化に対応するための可能性を確保するという役目を果たしているのだから。

「生まれの不平等」を解消するという建前のもと行われる「遺伝子操作による能力増強」は、本音としては「もっと良い思いがしたい」という身勝手なエゴでしかない(その欲望そのものが悪なのではなく「遺伝子操作」に頼って解決を図ることが間違っている)。しかし、もし将来的に遺伝子操作によって能力増強が成功したとしても「良い思い」ができるなんて保証はない(更に言えば、実はそれが成功すると思っていること自体がテクノロジーに対する余りにも無邪気で短絡的な楽観でしかない)。状況の変化により「優れている」という価値評価が逆転して「劣っている」という価値評価になっている場合もありうる。

重度の先天性の病気を治療するための遺伝子操作は条件付きで認められるべきだとは思うが、とりあえずは健康体で生まれてくることが可能であるにも関わらず、更なる能力増強を行う事は不必要なものである。