DNAで全てが分かるか?―――『生命と記憶のパラドックス』を読んで②
生命と記憶にまつわる66個の面白い小話を取り上げた本。
著者は福岡伸一(分子生物学者)。
文春文庫。
DNA鑑定で示されるもの
DNAの塩基配列の中に、特に、遺伝子と遺伝子とのあいだを繋いでいる、一般的には意味を持たないと考えられている領域に、個人特有のわずかな配列のバリエーションが見つかることがある。あるいは、リピートと呼ばれる繰り返し配列の長さが、人によって異なっている。DNA鑑定は、このような特徴を検出しているのである。
もしその特徴あるDNA配列が父親とされる人物とその子供とされる人物のDNAから共通して検出されれば、その2人は親子関係にある確率が極めて高い、判定される。
もしその特徴あるDNA配列が、ある犯行現場で発見された体液サンプルにも、あなたの口の内側を綿棒でこすって採取された上皮細胞サンプルからも共通して検出できれば、あなたが犯行現場にいた可能性が極めて高い、と判定される。
しかし重要なことは、DNA鑑定で示されうるのは、あくまでもこのサンプルとあのサンプルの関係性であるという点だ。その配列の独自性、唯一性が示されるわけではない。つまり私のDNA配列を銀行窓口で見せても、私の存在証明にはならない。(P.64~P.65)
「確率が極めて高い」「可能性が極めて高い」ということで、絶対に正しいわけではないようだ。その人のDNAにある、その人にしかない塩基配列の独自性、唯一性が示されているものとばかり思っていたが、どうやらDNA鑑定で示されるのは「サンプルとあのサンプルの関係性」であって「独自性、唯一性」ではないらしい。
遭難したら、どれくらい生きられるか(体重50キロ、体脂肪率20%として)
まずは生物学的な観点から
真水は1日最低でも500ミリリットル。
脂肪は1日220グラム燃やせれば足りる(成人が1日に必要とするエネルギーは2000キロカロリー、脂肪1グラムあたり9カロリー生産)、理論上45日ほど生存できる。
1日あたり60グラムのたんぱく質、またはその構成成分のアミノ酸(成人では1日あたり約60グラム自動的に分解される)が必要、体タンパク質は体重の15%ほどで、3割が失われると生命維持が危機なので耐えうる時間は1か月ほど。
実際は
生物学的にはまだまだ耐えられるはずなのにもかかわらず人は遭難するとあまりにもろいことが如実に証明されている。
フランスの医師、A・ボンバールは『実験漂流記』の中で「海難者の90%が難船後3日以内に死ぬことが示されているが、これは奇妙な事実である」と書いているようだ。
遭難して生き延びた人の言葉
A・ボンバールはこの謎に挑むために1952年、自ら実験的に大西洋を漂流し、限界に挑戦した。長さ4.65メートルのゴムボートに乗り、雨水を飲んで魚を捕まえて実に113日間も生きながらえた。
一方、S・キャラハンはヨットレースに参加中の1982年、嵐で船を失い、ゴム製の救命イカダで76日間も漂流した。
彼らは異口同音に述べている。飢餓や渇きが人を殺すのではない。その前に孤独と絶望が人を殺すのだと。
人間は水と食料だけで生きているわけではないといことだろうか。とはいえ上記の2人は、どれだけ精神力が強いのだろう。113日と76日、すごすぎる。
人が作り変えた命
自然環境での生存には適さない変異をもった生物は、本来なら淘汰されてしまう。しかし、それを選び取り、守り、育むような「選択者」が自然以外に存在すれば、その変異をもった生物は生き延びることが出来る。
ホワイトグレン
もし鳥が、何らかの突然変異によって習性が変化し卵を産んでも暖めることを放棄してしまったら、子孫を残すのに圧倒的に不利である。ところが人間がその鳥にかわって卵を暖め子孫を増やしてやることにした。なぜなら、鳥は卵を暖めないかわりに、またすぐに次の卵をつくりはじめる性質を持っていたからだ。人間は1年に300個以上も卵を産み続けるニワトリ、ホワイトグレンを選び取ったのだ。
カイコ
カイコはもともとクワコという蛾の一種だった。人間が常時、餌を供給していると幼虫は自分で餌を探すのをやめて、余力を別のこと、つまり絹糸を作り出す能力に振り向ける個体が出てきて、人間がこれを選別した。このように自分ではほとんど動けず、必要以上に大きくて厚い繭を作り、そこから出ることも飛ぶこともできない昆虫が作り出された。カイコは人間がいないと生きていけない。
共に生きる小さな存在
私たちの身体には腸内細菌などの微生物が存在している。その数は何と100兆個以上だと言われているそうだ。ヒトを構成する細胞の数は約37兆個だとされているから、ものすごい数である。彼らはヒトの体から栄養をかすめとっている、と言ってしまうと「寄生」という言葉が頭に浮かんでしまうが、そうではない。これは「共生」なのだ。
胎児の時は、まったくクリーンな状態で腸内細菌などはいないが、産道を通り、呼吸をはじめ、母乳を吸い、あるいは離乳食を食べるようになると外界から様々な微生物が入り込み、やがて消化管に安定したコロニーを形成する。
貢献①
そこで腸内細菌は消化管内にバリアーをつくり、呼吸や食物とともに侵入してくる悪玉の細菌類が増殖するのを防いでくれる。
貢献②
食物の中の成分を、人間がもっていない特殊な酵素で分解し、人間が利用できる栄養素に買えて手渡してくれさえする。これは多大な寄与である。
風土によって種類が違う
腸内細菌の種類は、ヒトが住んでいる地域ごとに違っている。たとえば日本人の消化管内には、海藻の成分を分解できる腸内細菌が存在する。欧米人の腸内にはいない。腸内細菌も時間をかけて風土に応じた共生関係を形成してきたのだ。
海外へ行くと、お腹の調子がへんになるのは現地の食べ物の衛生状態が悪いというよりも、自分の腸内細菌との相性が悪いだけなのかもしれない。生まれ育った場所のものを食べえることは生物学的にも合理性があるようだ。
取り出すことの出来ない色
光は波動の一種で、人並みの長さ(波長)が変わると、それにしたがい光を感知する視神経のパターンが変化する。赤いものが赤く見えるのは、赤い波長の光だけが反射され、それ以外の光は吸収されてしまうからだ。このように波長によって光をえり好みする物質を色素と呼ぶ。
紅花は色素カルタミンの原料となり、藍はジーンズを染める色素インディゴの原料となる。人間は歴史を通して、自然界から色を取り出すために試行錯誤を繰り返してきた。ところが自然界には取り出すことの出来ない色があるのだ。しかも、その取り出せない色に限って何とも言えない美しさを湛えているのだから口惜しい。熱帯アジアのトリバネアゲハや南米のモルフォといった蝶の輝かしい青。著者の福岡ハカセが愛するというルリボシカミキリのもつ深く艶やかな青。これらの色がなぜ取り出せないのかというと、その理由は、色の正体が色素ではないからである。これらの色は構造色という特殊なしくみで発せられているそうだ。
顕微鏡でモルフォ蝶の翅を見ると、小さく砕いた鏡の破片を一定の角度と感覚で敷き詰めたような構造をしている。ここに光があたると、ある波長の光(この場合は青)だけが整えられ反射される。だからちょっと角度を変えてみると、金属や鉱物のように色が微妙に変化して見える。(P.93)
このような仕組みらしい。
そして、日本には色素色も構造色もあわせもって着飾っている生物がいるという。その生物とは錦鯉である。ゴールドやシルバーに輝く部分が構造色。黒は人間のホクロと同じメラニン色素。鮮やかな斑紋は植物由来の色素。錦鯉は水中の藻類を食べ、その藻類に含まれる赤い色素を身体の表面の特別な細胞に蓄えて発色している。新潟県のような産地には錦鯉を育てるための「色上げ池」まであるそうで、コメが豊作の年は、錦鯉の仕上がりが良いらしい。天候が良いと水中の藻類の生育もよいからだろう。
人間が見ることのできる色は限られた範囲でしかない。紫色の外側(紫外線)も赤色の外側(赤外線)も見えない。たとえばモンシロチョウなr紫外線は見えて、それによって雌雄の区別や花の蜜の場所が識別できる。人間が、自分に見えているものが全てだと思うのは単なる勘違いなのだ。
感想まとめ
知らなかったことが多く、つくづく自分の無知を思い知らされる。DNA鑑定という言葉があるだけで、ある人を完璧に特定できると今まで思い込んでいたし、鶏(ホワイトグレン)やカイコ、ブルドッグについては人間と動物の付き合い方についても考えさせられるものがあった。「構造色」については自然や生物の神秘的な不思議さをしみじみと感じた。