ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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議会、憲法、権威、コミュニティ―――『学問』を読んで②

119のキーワードから政治や歴史や道徳などについて考えた本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社
2004年第1刷。





政治を問う

議会

民主主義は(略)「もし可能ならば」、(略)「直接民主主義」の方向に傾きがちである。
(略)「議会制民主主義」の形態をとることがこれまで多かったのは、要するに、民衆が一堂に会することが困難であるという技術的理由からであったのだ。
しかし、情報技術の発達によって、(略)民衆の「議論」を世論のなかに組み込むこともできそうに思われ始めている。そしてそれは議会制の否定なのであって、地域にあっては住民投票に、国家にあっては国民投票に、」政治的決定のすべてを任せることが技術的に可能となりつつある。
パーラメント(議会)とは「議論(パール)する場所」のことであるが、議論する能力を有した者たちがそこに集まるのでなければ、議会は無意味というより有害な存在である。
間接民主主義は、(略)通常は公表されることが無いのだが、次の2つの前提に基づいている。
1つに選挙民たる一般民衆には、平均において、「政策について議論(予測と判断)する能力が無い」という前提であり、しかし2つに「一般民衆は、政策について議論できる代表者を選ぶ能力を、平均において、しっかりと身につけている」ちう前提である。
(略)したがって直接民主主義は国家のせいさくを危殆に瀕させる暴挙だといわざるをえない。
(略)代議士は、いったん議会に入ったからには、個別利益の代表者ではなく、共同利益の追求者とならなければならない。
そのことを選挙民がむしろ称揚する必要がある。だが現実は、それと逆方向に進んですでに久しいのである。
(P.30~P.32)


民主主義は、もし「直接民主主義」を行う事が出来るなら、それをやろうとする傾向がある。

全ての民衆が一か所に集まるのは技術的に無理だったので「議会制民主主義」をやってきた。

情報技術の発達によって、民衆の議論を世論の中に組み込み「直接民主主義」が出来るかもしれないと思われ始めている。

でも、実際に「議会制民主主義」が行われていたのは2つの理由による。
①民衆は政策について議論を行う能力を持たない
②民衆は「議論を行う能力を持つ人」を選ぶ能力はある

だから、「議論できる人を選ぶ事」と「議論が行われる場」が必要なので「議会制民主主義」は否定できない。

代議士は議会の中では共同利益の追求者でなくてはならないが、実際のところ選挙民は自己の利益の代表者であることを代議士に期待していることが問題である。


憲法

憲法は「国家の根本規範」であり、それは国民が(または、国民によって)共同で構成する(または、構成される)ものである。
この構成における能動と受動の差は決定的に重要である。つまり特定時代の国民が憲法を「作成」するのか、それとも行く時代にもわたる歴史の流れのなかで憲法が「醸成」されるのかの違いである。
(略)知識人・政治家は自分らの合理の基礎が過去の国民的経験のうちにこそあるとかまえなければならない、とみる経験論の賜物である。
(略)仮に成文憲法が認(したた)められるも、その憲法において国家の根本規範は「歴史の英知」(伝統の精神)によって規定される。ということが明示されている必要がある。
(略)社会価値を社会秩序の問題に適用したもの、それが規範であるから、問われるべきは、社会価値が歴史・慣習・伝統のなかで育成されていくのか、もしくは知識人・政治家の個別かつ私的な精神の中で考案されるのか、ということだ。前者の考えをとるのが良識に適っている。
(略)国民の世俗の生活にかんする根本規範(憲法)といえども、国民の持つ何らかの神聖な感覚と繋がっていなければならないということである。
他方、社会秩序は危機に見舞われていることもありうるのであり、それが「非常事態」とよばれる。このとき憲法の機能は停止され、なんらかの「非常大権」で社会秩序を回復しなければならない。
憲法は「神聖」と「非常」において(規範体系としては)開口していることを今の日本人は知らないままである。
(P.33~P.35)


憲法の構成において2つの考え方がある。
①ある時代の国民が意識的に「作成」するのか
②長い歴史の中で無意識的に「醸成」されるのか

社会価値は歴史・慣習・伝統の中で育成されると考えるのが良識に適っているので”②長い歴史の中で無意識的に「醸成」される”とみるべきである。

さらに社会価値(根本規範)は国民の持つ何らかの神聖な感覚と繋がっていなければならない。

しかし、その一方で、社会秩序が危機に陥った時は憲法の機能が停止するので「非常大権」によって社会秩序を回復しなくてはならない。

したがって、憲法は「神聖」と「非常」において開口している。

権威

(略)ウェーバーも指摘したように、支配は、服従しようとする意思が前提とされていて初めて、可能となるのである。
(略)人々は自らの所属する集団の上位者が発する命令を「進んで、しかし密かに」受容せんものと構えているのだ。
(略)服従への自発的意思は支配者に権威を認めるところに発生する。
というより、権威こそは被支配者に服従の構えを誘発させる支配者の資質のことなのだ。
(略)個人主義のいきわたった現代では、それは、「古瀬の発揮としての独創性が権威の源である」ということだと解されている。だが、人間の個性がいかにして形づくられるのかと問うてみなければならない。
(略)「伝統を引き受けてそれを現在において表現する」、つまり、「再び在らしめる」能力が個性だ、というのがその解答である。
(略)これは伝統を、つまり「持続に宿る英知」を権威とみなすことに他ならない。
権力の正当性は伝統という名の正統性につながれていることによって保証されるのだ。
それもそのはず、カリスマ性といい合法性といい、それが正当とみなされるには根拠が必要であり、根拠にこそ権威が付与されるのだ。その根拠は、どこをどう探しても、伝統性でしかありえないのである。
民主主義社会の権力が動揺しがちであるのは、その権威によって裏打ちされていないからだ。
というのも、主権者たる民衆の欲望は、多くの場合、伝統的なるものとしての権威を授かるには余りにも低俗であるからである。そのことを隠蔽するために民主主義が価値としてもてはやされるのだ、とみておくべきであろう。
(P.42~P.44)


支配が行われる前提には服従しようとする意思がある。

権威とは、その服従しようとする意思を誘発させるものである。

その仕組みは、まず、
①現在において尊重されているという事実がある

②その効果が長い間にわたって持続してきたことへの尊敬がある。

③その持続の始発点はどこかという探究が始められる。

このようにして伝統(持続に宿る英知)を権威とみなすことになる。

民主主義の主権者たる民衆の欲望は、伝統的なるものとしての権威を授かるには低俗すぎるため権力が動揺しやすい。


コミュニティ

(略)共同体における感情や規範の共有は、戦後における個人的自由の価値と衝突する。それゆえ、肯定的な文脈で地域社会のことに言及するときには、コミュニティという英語を宛って、そこの地域社会はアメリカにおけるような契約社会の性格を強く持っている、と想定されるのである。
しかし「契約」の前段階にいわば「暗黙の同意」があるのが普通である。(略)人々の間に共同の価値・規範があってはじめて各人の利害をめぐって調整を行う事が出来る。
ほかの言い方をすると、あらゆる集団は下部構造では(テンニースのいった)ゲマインシャフト(感情共有体)であり、上部構造ではゲゼルシャフト(利害調整体)だということである。
そして前者では黙認が、後者では契約がそれぞれ主要な意思疎通の方法となる。
(略)我が国では、奇妙なことに、市民が国民に対置されている。国民がナショナリズムをはじめとする共同の価値・規範を背負っているのに対し、市民は個人的自由の担い手だとされる。
(略)共同性を拒否するような市民が安定したコミュニティを作れるわけがない。また、どんな地域社会もほかの地域諸社会とインターリージョナル(域際的)な関係を有している。その域際関係に全体としていかなる枠組みを与えるか。それは国家的枠組みをおいてほかにあろうはずがない。
(略)自分たちのことを国民ではなく市民とよぼう、というような態度に理のあろうはずがない。数ある共同体のうちで、最も個(人)的なのが家族であり、最も集(団)的なのが国家である、と考えるべきだ。
(P.45~P.46)


共同体は感情や規範を共有する集団として、コミュニティは個人が自由に契約を結んだ社会として語が使用されている。

しかし、「契約」の前段階には「暗黙の同意(感情や規範の共有)」がある。

下部構造に感情や規範の共有された共同体があり、上部構造に契約によって利害調整を行う(いわゆる)コミュニティがある。

個人的自由の担い手である市民は、下部構造(共同体)を否定する性格を持っているため上部構造(いわゆるコミュニティ)を形成することは出来ない。

最小のものとして家族、最大のものとして国家という形態をもつ共同体に反逆して(共同体の構成員ではない市民が)コミュニティを作り上げられるということは有り得ないことである。