ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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人為的か?自然的か?―――『教養としての言語学』を読んで

記号と対象の関係が、自然的なのか?人為的なのか?について考えた本。
著者は鈴木孝夫(言語社会学者)。
岩波新書



著者は前書きにて、教養とは知識がたくさんあるだけではなく、その知識を自分の中で位置づけ、行動の指針となるような方向性を育てることだとし、「私の考えでは」という表現も多いが、それは言語学そのものを学生に教えるのではなく、また外国の学説を紹介することでもなく、言語学を通して私はこのように考え生きてきたという点に、講義の主眼を置いてきたためであると述べる。

活きた学問とは、こういうものの事なんだろうなあと思い、著者の姿勢は尊敬できるものだと感じた。



1. まずは記号について

あるものAが、別の特定のものBを常に(多くの場合に)示すとき、AはBの記号であると言える。
抽象的な説明なので具体化してみると「煙」は「火がある」ことを示したり、「青信号」は「進め」を示していたりすることである。
「煙」→「火」、「青信号」→「進め」


1. 自然記号

自然現象との因果関係や蓋然性と結びついた記号のこと。

例① 入道雲があると夕立が来る(「入道雲」→「夕立」)

例② カモメの群れが海にいると、そこには魚の大群がいることが多い(「カモメの群れ」→「魚の大群」)


2. 人為記号

人為的あるいは社会的な取り決めに基づく記号のこと。

例① 赤信号のときは止まらなければならない(「赤信号」→「止まれ」)

例② ドクロマークは、それが危険物であることを表している(「ドクロマーク」→「危険物」)


2. 昔から議論されていた

記号としての言葉には、自然で必然的な結びつきがあるか、社会的な約束事に過ぎないのか、ということはプラトンの『クラテュロス』でも取り上げられていた。今から2500年前くらいの頃から人間はそんなことを考えて議論していたらしい。「自然による(ピュセイ)」と「取り決めによる(テセイ)」との間におけるピュセイ・テセイ論争だ。

ちなみに、言葉とその対象の間に、何らかの必然的な結びつきがあると考えていた古代ギリシアの一部の哲学者は、原初の正しい言葉が時と共に崩れていったのだから、時代をさかのぼって求めていけば、事物と本質的必然的に対応する「真の言葉(エテュモン)」に到達すると信じて、語源学(エティモロジー)に取り組んでいたようだ。


1. 自然記号派(ピュセイ)

カッコウの名前は鳴き声に由来することが多いらしく、どこの国でもよく似ているそうだ。

大人が小児に向かって使う言葉、いわゆる幼児語には牛をモーモー、雷をゴロゴロ、などと言う擬音語(オノマトピア)が多いことや、どの言語にも動物名などは対象の発する独特の音を模した名前があることを指摘する。

言葉と対象の間にはっきりとした対応がみられない言葉の中でもpigeon(鳩)の場合のように古い時代だとpipioという形になって、昔は擬音語であったと分かるような例もあるらしい。


2. 人為記号派(テセイ)

上記にある対象との結びつきを持つように見える言葉は、そうでない言葉と比べると圧倒的に少ない。

言葉と対象の結びつきが社会的約束事であると近代になってあらためて指摘したのがF・ソシュールであるとし、恣意的契約(convention arbitraire)コンヴアンシオン・アルビトレールという考え方で説明したと言う。コンヴアンシオンとは契約、約束、慣習という意味で、アルビトレールとは勝手気まま、思いつくまま、気まぐれといった意味だそうだ。そして、言葉の慣習も時代によって変化していく。

(このP.9~P.10にある著者のソシュール理解が妥当なのかは疑問が残る、なぜならソシュールが行ったのは、ピュセイ派・テセイ派が共に前提として暗黙裡に共有していた言語名称目録観、それを転倒させた事だったからだ。この場合、むしろ前提が否定された事によりピュセイ・テセイ論争自体が成立しないという事になると私は考える)


3. 第2の恣意性

「著者の言うソシュールの恣意性」とは別に、もう1つの恣意性として「構造的”非”写像性」を提示している。

生産量や輸入量を棒グラフ、円グラフで表すとき記号と対象の間に必然的対応関係はないが「記号同士の関係」が現実の「対象同士の関係」を反映しており、これを「構造的写像性」と言い、その一方で人間の言葉には「大」と「小」という言葉などに見られるように「大」を本当に大きく書いたり、大きい声を出すわけでもないことから「記号同士の関係」が現実の「対象同士の関係」を反映しているわけではない事を指摘し、これを人間の言語の第2の恣意性「構造的”非”写像性」として提示している。


4. 音声言語のメリット

①暗かったり障害物があっても機能する(色や形、動作では不利だと指摘)

②ある程度の距離があっても機能する(匂いや体から物質を出す伝達手段だと不利だと指摘)

③エネルギーの節約(匂いや体の色を変える、特定の動作では不利だと指摘)

④記号の発信者と受信者の対称性(音声以外だと発信者の負担の方が大きく受信者との関係が非対称である)

以上4点を挙げていた


音声言語にも他の言語にもメリット・デメリットはそれぞれにあるため、音声に有利な特定の状況だけを取り上げて優位性を主張するのは不当であるような印象を拭えない。例えば、音声の場合だと発した後に形を残さないので文字言語に比べると不利となる状況もある。これらの有利な点や不利な点をいくつも挙げて、どのような言語形式が良いものかを競わせても言葉の本質を知る事には寄与しないと私は考える。なぜなら本質とは「内属する不変の性質」であるから、言葉である以上、音声だろうが文字だろうが手話であろうが点字であろうが全ての形式に「言語の本質」が備わっているはずだからである。それゆえに、言葉と見なされる全てのものに共通する性質を見つけ出す方が本質的には有益であると思える。



5. 著者の言語への認識

音声言語に特権的地位を見出している点
言葉が指し示す対象の存在が自明的かつ即自的であると(無自覚に)認識している点

この2点であるように見受けられた。(そして、私はこの2つに対しては同意できない)


著者の主張の流れとして

まず、人間だけが独自の進化の道を歩んだかについて、このように述べる。

私はその重要なきっかけ、契機の1つとなったものは、人間の祖先の猿だけが音声を出すことに異常な興味を持ち、声を出すこと自体に快感を覚えるようになった偶然の変化であると考えている。(P.56)

人間の祖先となった猿は、空腹が満たされ、外部からの危険の心配もなくなったとき、ただの遊びとして、それがもたらす快感のゆえに、具体的内容がゼロの発生活動を随時に行うようになったと考えられる。(P.56~P.57)

これが歌の原型であると同時に、このような中身のない殻だけの音声が、次々と特定の条件付けのもとに、契約的つまり恣意的な意味を獲得してゆくようになったと考えられるのである。(P.58)


P.58の記述に関して「中身のない音声」はソシュールの言う記号表現(シニフィアン)であり、「獲得された意味」は記号内容(シニフィエ)に該当すると思われる。しかし、必ずしも音声中心主義という立場をとる必要はないように思われる。なぜなら文字であれ動作であれ視覚的な記号表現(シニフィアン)も「中身のない形」や「中身のない動き」として成立し得るからだ。そして、この記号表現と記号内容の結びつきの恣意性から導かれるのは、言語記号が示す対象をどのように分節するかも恣意的なものとなることだ。つまり、言葉が対象を分節化(差異化)する際の恣意性こそが「人間の言語」の注目すべき特徴であって、「構造的”非”写像性」は、その結果として現れてくる副産物なのではないだろうかと私には考えられる。


6. 感想まとめ

著者が動物行動学的な視点を通して、鳥や蜜蜂などの情報伝達を分析した結果、動物の言葉には、「記号同士の関係」が現実の「対象同士の関係」を反映しており、そこに「構造的写像性」見出した。その一方、人間の言葉には「記号同士の関係」が現実の「対象同士の関係」を反映してしないため「構造的”非”写像性」があると発見した。これは著者が昔、生物学を志していた事から生まれた独特な観点だと思う。著者は自分の頭で考えることが出来るタイプの学者で、単なる学説の羅列ではない「活きた知識」を提示できる面白い人間だ、尊敬に値する人物だと感じた。

結論としては記号と対象の間には「動物の言葉」であれ「人間の言葉」であれ自然的(必然的)な結びつきはないが、「動物の言葉」の場合、「記号同士の関係」が現実の「対象同士の関係」を反映している。「人間の言葉」の場合「記号同士の関係」が現実の「対象同士の関係」を反映してしないので、著者はこれを「構造的非写像性」と呼んだ。