ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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政治・権利・義務・官僚制・自治―――『学問』を読んで①

119のキーワードから政治や歴史や道徳などについて考えた本。
著者は西部邁(評論家)。
講談社
2004年第1刷。




政治を問う

政治

それは、政治の本質が未来の不確実性は向けての決断という点にあることからくるものである。
(略)それはニューネス(新しいこと)の危険と同義である。
新しい目的の設定と新しい手段の動員、それが政治的ということであり、その新しさには、少なくとも事後的には、人々の賢明ならざる振る舞いがつきまとうのである。
(略)政治の表現もまた古き制度を破壊しつづけるのである。
しかして、一般に、破壊がつねに良き事態の創造であるとは限らない。
破壊が進歩であるためには、政治を古き道徳につなぎ止める慎重さがやはり要求されるといわなければならない。
(略)ヴァ―チュ(徳)の所有者たるべき者が、政治にあって、しばしばヴァイス(悪徳)を発揮する(またそうすることが許される)というのは、つまるところ、政治の相手にする未来なるものが(予測可能な)危険のみならず、(予測不能な)危機に満ちているからなのだと思われる。
(略)政治家たる者はつねに総合的なアイディア(理念)そしてグランドデザイン(大計)を持っていなければならないということになる。
だが現実にあっては、政治もまたスペシャリスト(専門家)のものとなっており、そこでステーツマン(政治家)ならざるポリティシャン(政治屋)が幅を利かす仕儀となる。
(P18~P.20)


政治とは不確実な未来に向けて決断すること

それは新しい手段により古い制度を破壊することがある(人間は賢明とは限らない)

破壊が進歩であるためには「古き道徳」につなぎ止める慎重さが必要

専門家になるのではなく全体を見通す総合的な理念や大計を持たなくてはならない(スペシャリストではなくジェネラリストへ)

権利

ライトを「権利」と訳すのには語弊がある。
「利」を「権(はか)」るという言い方には利己主義のにおいが強く漂う。福沢諭吉はそれを「権理」と訳していた。
それならば、ルールの根底は「道理は何かを権る」ことによって打ち固められる。
(略)つまり、ルール形成原理としての権理とルール応用規則としての権利とがあるとしなければならない。
(略)「道理は国民の歴史によって示される、それゆえに、権理にもとづいてルールを確認することにより、国民各位の権利の種類と範囲とが定められる」とみなすのである。
(略)サヴリンティ(主権)とは「崇高な権利」のことであり、それは、本来、神や仏のような超越的存在に宛がわれるライト(正しさ)のことをさす。そういうすごい権利を人民が持っているし持つべきだと宣せられると、人民の欲望のすべてが、少なくともあらゆる切実な欲望が、権利とみなされはじめる。
(略)主権は、厳密にいうとあくまで準主権にとどまるものは、せいぜいが「歴史の英知」(伝統の精神)がそれを授かるとするべきだ。
人間は知性と徳性のいずれにあっても、パーフェクティブル(完成可能)ではないとわきまえておかなければならない。
そうしておけば、自分の欲望が実現されることを、それが切実であるという理由だけで、基本的人権とみなしてはならないと了解できるであろう。
(P.21~P.23)

ライトいは「権理(ルール形成原理)」と「権利(ルール応用原理)」がある

つまり、(歴史に根差した<道理=正しさ>としての)権理にもとづいて国民の権利(諸個人の利益)が定められる

主権(崇高な権利)は超越者のものなので、実際には準主権というものが「歴史の英知」に授けられている

人間は不完全な存在であるから自分の欲望が切実であるとしても、それが「主権」や「基本的人権」を後ろ盾として実現させられるべきだなどと見做すことはできない。


義務

デューティ(義務)とは、そうするのがデュウ(正当、当然)の振る舞いのことを指す。
(略)英語でデュウといい日本語で義といい、その主要な意味は、「法律の基礎には徳律がある、だから徳義の命じるところが義務である」といったニュアンスのものといってよい。
(略)ルール(徳律と法律)の本質は、(略)「禁止の体系」という点にあると知ることである。
義務の本質もその禁止規則を守るというところにある。そして権利というのは「禁止されていないことは為しても良い」という意味でも許容規則から生まれてくる。
(略)いいかえると「権利と義務」とはつねに一対をなしているとはいうものの、両者は同次元で向き合っているのではない。
義務はルールを「守る」行為であり、権利はルールが守られたあとで保証される行為である。あえて言えば義務は重く権利は軽いということになる。
それもそのはず、義務も権利もともに道理によって指示されるのであるから、まずもって道理を「守る」という態度が必要になるのである。
(略)義務の観念は、国民が自らを知性的にも道徳的にも不完全であると認め、その不完全を補うべく歴史の英知としての道理には従順であろうと努めるところに成長する。
(P.24~P.26)

「義務」とは徳義に則って正当・当然とされる振る舞いの事である

ルールの本質は「禁止の体系」にある

権利と義務は対をなしているが同次元ではない

まず(~するなという禁止)義務が守られたあと、その禁止されていない範囲で(~しても良いという)権利が保証される

人間は不完全であるから、権利も義務も「歴史の英知」に基づいた道理によって規定されている


よく誤解されやすい部分として「義務を果たした者に権利が与えられる」というものがある。
こので著者が述べているのはそのようなことではない。それは「両者(権利と義務)は同次元で向き合っているのではない」と明確に述べていることからも分かる。
権利と義務が対をなしていても次元は異なるのだ。高い次元には義務があり、低い次元には権利がある。いわばタテ方向の対である。
では、同次元で権利とヨコ方向の対をなすのは何であろうか。著者は何も述べていないので私の独断になるが、それはやはり「責任」ではないかと思われる。
そして、責任においても権利や義務と同様に「歴史の英知」に基づいた道理に準拠するかたちで、その妥当性が問われることになると考える。


官僚制

官僚のことを役人ととらえるのは、官という言葉が政府にかかわることからくる、間違った理解である。
ビューロクラット(官僚)は、ビューロが「机布」を意味することからも分かるように、組織の事務あるところかならず存在する。だkら、正しくは、政府官僚のほかに(企業官僚をはじめとする)様々な民間官僚がいるとしなければならない。
(略)組織を不要とするのでない限り、官僚の存在を受け入れなければならない。
そして組織が必要なのは、未来の不確実性を個人たちが合理的に予測し切ることは困難であるという事情による。
(略)しかし彼らを、マックス・ウェーバーのいったように単なる技術者つまり「魂なき専門人」とみるのは行き過ぎである。国家の政策の種類も範囲も、役人の作成する政策立案書に決定的に依存している。行政府の役人は立法府の政治家が立案した政策を具体化しているだけではないのである。
その指示的機能に注目すれば、役人には「選挙の洗礼を受けない政治家」という側面がある。それが、選挙によって不安定化させられている現代の政治にとって安定化要因となっているということすらできる。
役人における官僚主義が目立つようになるのは、当該の国家における国家理念や国益目標が不明瞭になる場合においてであろう。そういう場合、役人集団は(略)既得権益を固守せんとしはじめる。
そこに集団主義が成長する。
しかし国家理念や国益目標が曖昧になるのは、少なくとも民主主義にあっては、国民自身が官僚主義に陥っていることの現れなのではないか。
役人のことを公僕というが、国民にあって公心が乏しく、それゆえ民主主義を通じて公共的な目的が正しく認定されないということになると、役人は公僕としての「自尊と自立」を失っていくということである。
(P.36~P.38)


官僚は「組織の事務」であるから政府にも民間にもいる

つまり組織があるところには必ず「官僚=組織の事務」がいる

官僚は政治家が立案した政策を具体化してるだけではなく「選挙の洗礼を受けない政治家」という側面がある

はっきりとした国家理念や国益目標がないと既得権益の拡大や維持くらいしかやることがなくなる

民主主義国家において国家理念や国益目標がないのは国民自身が官僚主義に陥っており、また公心が乏しいことが原因だ


自治

自由は「自分に理由がある」という意識から生まれるものであり、その意識は「自分に関連した」事柄は自分が最も強く感じ、強く考え、強く知っている(ことが多い)。という経験に発している。
(略)そうだとすると、セルフ・ガヴァメント(自治)、つまり「自分に関連したこと」については「自分で舵取りをする」ことの欲望もまた普遍的としなければならない。
しかし、社会・歴史という名の時空にあって、自治は必ずしもオートノミー(自律)と同じではない。
(略)いかなる自治体もほかのいくつもの自治体と相互依存の関係にあり、(略)自治体への干渉を「内政不干渉」の原則とやらによって排除するのは不合理かつ不可能である。
自治は相互干渉をどの程度に留めるかとうルールの中にしかないと認めるべきであろう。
(略)要するに、自治体相互のあいだの依存関係が強すぎると、自治体の安定性が脅かされるのである。
現代において自治外の自律が揺るがされているについてはもう1つの理由がある。それは、自治体構成員(たとえば地域共同体の住民)の定住性が弱くなったという点である。
住民で言うと、インハビタント(住民)とは「ハビット」(慣習)の中に「インする」(入る)人々のことをさす。だが住民の定住性が弱くなれば慣習も弱くなり、それゆえ地域自治の道徳的基盤が脆くなり自律できなくなる。
(略)自律性、つまり安定したリズムで動くことが可能になるためには人々のあいだで慣習がおおよそ共有されていなければならないのだ。
自治外の自律性が保たれ、それに伴って自治体構成員が「自尊と自立」を享受できるには、慣習の変化が漸進的なものに留まる、ちういわば保守主義の条件がなければならない。
(P.27~P.29)


自由とは「自分に理由がある」という意識から生まれ、そこから「自尊と自立」という欲望も形成される。

自由という意識を持った主体が「自尊と自立」という欲望を達成する手段としての「自律」は完全に行われるわけではない。

いかなる自治体も、他の自治体との相互依存の関係にあるため「干渉」を排除しることは不合理かつ不可能である。

自治は相互干渉をどの程度に留めるかというルールの中にしかない(自律の妥協)。

自治体の安定性を揺るがすのは、この「相互依存性の強さ」の他にもう1つ「住民の定住性の弱さ」がある。

住民(インハビタント)は、慣習(ハビット)の中に入る(インする)人々であり、慣習の共有が地域自治の道徳的基盤になっている。

「自尊と自立」を享受するためには自律性が保たれなくてはならない。そのためには慣習の変化が漸進的なものに留まる必要がある。