ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

読んだ本や、見たアニメについての感想

進化に目的はあるか?―――『生命と記憶のパラドックス』を読んで③

生命と記憶にまつわる66個の面白い小話を取り上げた本。
著者は福岡伸一分子生物学者)。
文春文庫。


うまく出来ている身体

ヒトのまぶたの裏には涙腺があり、そこから涙が流れている。そして涙は目頭の上下にそれぞれ備わっている涙点へと流れ、そこから鼻の穴へつながる管である涙道を通って排出される。この働きにより目は乾燥から守られ異物を洗い流しているのだ。進化によって光を感じる視覚が出来たこと自体驚くべきことだが、その上、保湿や洗浄といった機能まで備わっている。よくできていると言うしかない。著者は、飛行機に乗ったり、高層ビルのエレベーターに乗るときに生じる「耳抜き」の問題と関連させて、もう1つ例を挙げる。16世紀のイタリアの解剖学者エウスタキオが発見したエウスタキー管である。これは鼓室から喉の奥をつなぐ細い穴で、大きく口を開けたり、あくびをすると管が開口して鼓室内の圧力が解放されるもので、この耳抜きのおかげで気圧差の調整ができる。進化の過程で、生物は飛行機に乗ることも、高層エレベーターに乗ることもなかったのに、どうしてエウスタキー管のような通路があらかじめ用意されていたのだろうか?実はこれは私たちの祖先が水の中で生活していとことの、まぎれもない証拠なのだ。口と耳、目などが穴でつながっているのは魚のエラ構造の名残りである。

私たちの祖先が水中で生活していたころから、飛行機に乗ったり、高層エレベーターに乗ることを想定していることなど在り得ない。これは端的に言えば、過去の解剖学的な身体構造の名残りが、たまたま現在の私たちが置かれている環境に対して適応的に機能しただけだ。そして構造と機能の結びつきは必ずしも一義的ではないし、目的的でもない。


スーパー耐性菌

病原菌(いや、実はそれ以外の善い細菌にまで)よく作用する薬として抗生剤は広く使用されている。しかし、その抗生剤すら効かないスーパー耐性菌が出現して問題になることがある。ある病原菌Aに作用する抗生剤Aが開発されても、しばらくすると抗生剤Aに耐性をもったスーパー耐性菌Bが出現する。そして、その病原菌Bによく作用する抗生剤Bが開発されると、またしばらくしてから、その抗生剤Bに耐性をもったスーパー耐性菌Cが出現する。いつまでもイタチごっこが続くのだ。なぜそんなことになるのだろうか?実は逆説的ながら「抗生剤が広く使用されるようになった」がゆえに不可避的に生じた帰結なのである。

このように説明すると病原菌が抗生剤に抵抗することを求めて努力した結果、抗生剤の効力を無効化する能力を獲得したと思わされてしまうが、そういうわけではない。ではどういうことか?最近は細胞分裂で増殖するが、これが短時間で行われるため、時間当たりにDNAが複製される回数が多いのだ。つまり、それだけ突然変異のチャンスがある。突然変異は多くの場合、環境に対して不適応なため個体はほとんど死んでしまうが、ごくまれに適応的な(この場合、抗生剤に抵抗性をもった)突然変異が生じるのだ。通常の環境下であれば、この抗生剤に抵抗性をもった突然変異は有利だというわけではないが、抗生剤が使用されている環境下では有利に働くことになる。つまり、抗生剤を使用することによって、耐性をもった細菌が増殖するのに適した環境を人間が作り出していたということだ。

病原菌がいる→抗生剤を使おう→病気にならない
このような単純な因果関係にはならないということだ。

自然は「ああすればこうなる」といったような単純なものではない。人間が「予測と制御」に基づき、何らかの働きかけをしても、予想外の反応が返ってくるものなのだ。


虫たちはなぜ光に集まってくるのか

夜の街燈なのど周囲を虫たちがくるくる回っているのを見かけることはあるし、図鑑などでも虫を見るのが好きな人はいるだろう。しかし、蛾や虫たちをお腹側からじっくり見るという経験はほとんどないのではないだろうか(私はない)。そのことを踏まえて著者は素敵な本を紹介する。『よるのおきゃくさま』文・加藤幸子、絵・堀川理万子。

この本がすばらしいのは、ガラスの戸の外側にとまった蛾や虫たちをお腹側からまぢかに観察している、という点である。私たちは普通、こうした視点から生き物をじっくり見ることはほとんどない。標本でも図鑑でも見えるのは表(背)側だけ。でもほんとうに面白いのは裏(腹)側なのである。(P.166)


さて、なぜ虫たちは光に引き寄せられるのだろうか。

1つの仮説ではあるが、もともと夜行性の虫たちは月や星の光を手がかりに飛行する習性があり、近代になって人間が作り出した光に惑わされているのではないかという考えである。

月の光は無限遠から到来するのでほぼ平行線となり、それに対して一定の角度を保つことによって虫たちは風や障害物に惑わされずに飛ぶ方向を維持できる。ところが、近くからの人工的な光は放射状となるため、この光に対し一定の角度を保ったまま飛行すると旋回することになる。そして、少しでも鋭角を選ぶと、らせんを描いて光源にどんどん引き寄せられてしまうことになる。よく街燈などの周りを虫たちがくるくる回って引き寄せられているのはそのためだそうだ。


「懐かしさ」と「切なさ」

福岡ハカセは「懐かしさ」について考えてみた(略)たとえば私たちの世代なら、間違いなく懐かしすぎるほど懐かしく思い出す万博の記憶。でもそれは実は、あの頃そのものが懐かしいのではなく、アメリカ館の月の石や太陽の塔の内部の生命の樹に夢中になった、あの頃の”自分”が懐かしいのだ。(略)つまり懐かしさとは自己愛の一種なのだと。
(略)「切なさ」は似ているようだけれど少し違う。(略)切ない記憶は、むしろなんの変哲もない、ごく普通の日常のワンシーンなのだ。(略)
ふと気が付いた。これらはいずれも移ろいゆくものの記憶なのだ。そしてここから先が大事なのだが、その移ろいを目の当たりにしていたあの頃は、それが全く切ないものとは感じなかった。なぜなら、また次の日には同じ平凡な日常があり、つまらない学校があり、たわいもなく1日が過ぎる。(略)
でもそれは全く違う。すべての移ろいは1回限りのものとしてある。(略)だからこそ、すべての移ろいが無限に繰り返されるものだとただただ漠然と信じ、無為に生きていた自分のむちさと無垢さが悲しいのだ。つまり切なさというのは有限性の気づきである。(P.190~P.191)


懐かしさ=自己愛の一種、切なさ=有限性の気づき

普段、意味の似ている言葉の違いについてあまり気にしていなかったりするが、言葉が指し示す射程の広さと、精度の高さはしっかりと意識しておいた方がいいなと思った。そのことによって、新しい発見や気づきに出会えるかもしれないから。


寒さを耐えたから咲く

暖かくなったから、桜は花をつけるのではない。桜が花を咲かせる準備をするのは前年の夏前、6月頃のことなのだ。
植物の芽の先、いちばん細胞分裂が盛んな部分を生長点という。 生長点は葉っぱを作り出し、光合成を盛んに行うが、いくつかの細胞は花を作るため特別な分化(細胞の専門化)を果たす。花を作るためのもとになる細胞群を花芽という。形成された花芽は、そのままいったん成長を止めて休眠状態に入る。
ここで一定期間、一定量の低温にさらされることが重要で、このプロセスを経て初めて花芽が再活性化される。
再活性化された花芽は、気温が15度より低ければブレーキをかけ、高ければアクセルを踏む。そして蕾がだんだん膨らんでくる。

ソメイヨシノは、江戸時代、エドヒガンとオオシマザクラという異なる系統の交配によって偶然生まれた。このような一代雑種は、次の世代を作る能力に欠けていることが多く、ソメイヨシノもそうであった。めしべに花粉がついても種ができない。ソメイヨシノにとって花を咲かせることは文字通り「徒花」ということになる。しかし生命の意味は次の世代を残すことだけにあるのではない。自らに与えられたものを受け入れることから生命の価値は生まれる。一斉にさきほこる桜がけなげに見えるのはそのためだと思う。