ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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それって本当に家族の常識?―――『人が、つい とらわれる心の錯覚』を読んで①

世の中の硬直した常識を考え直そうとした対談本。
著者は安野光雅(画家)と河合隼雄深層心理学者)。
講談社+α文庫。

1.家族の断絶は悪いのか

新聞などで、やたらと「家族の断絶」が取りざたされ、何やらものすごく悪いことが起こっているように書き立てられていることに関して、著者は異論を唱える。以下引用

河合:(略)当たり前のこと、必然的に起こっていることなのに、いかにも悪いことをしているような錯覚に陥るんです。子供が親から離れていくのは当たり前でしょう。
断絶していても、昔は家の中にちゃんと仕掛けがあって、ことされ言葉で「家族いっしょに」なんて言わなくても、親父が座っているだけで家全体がおさまっていた。「みんながご飯をたべているあいだはいっしょにいるのよ」なんて言わんでも、一家に囲炉裏が1つしかなかったから、とくに冬なんかそこにいるよりしようがなかった。あっちの部屋に行ったら寒いから。なんやかや言わなくても、長い伝統というのはあらゆる仕掛けをうまいぐあいにつくっていたわけです。(P.23)

意識的につくらなくても、知識としてではなく「知恵」として無意識に組み込まれた伝統が上手く機能していたということだと思うが、この伝統的な仕掛けを戦後になって生活様式の急激な変化が壊してきたのだろう。著者はヨーロッパと比較してこう述べる。

ヨーロッパなんかは、長い歴史の中で核家族というのを作っていったから、子供は居間にいなくちゃならないとか、きちんと言葉で教えている。子どもをそういうふうに鍛えながらおおきくしていくのと、そんなことを言わんでも全部できていた国との差ですね。(P.24)


文化的な違いや歴史的な違いが生活の中に現れている。著者は変わってしまった日本について、いまさら後戻りはできないなら、かわりに新しいシステムをつくったかというと、それもやってない。だから今は家族関係が難しいのは当たり前だと言う。

では、どうすればいいのだろうか?
新しいシステムといっても意識的に、設計主義的につくって上手くいくのだろうか疑問がのこる。
たとえ具体的ではなかったとしても、「家族関係の在り方」について大きい枠組みというか、方向性のようなものが決まれば、それに沿うような形で「(意識主義的ではない)手入れ」によって作り出すことは出来るかもしれない。しかし、そのためには、まず大筋の合意が認められた価値観の共有がなされているという前提が必要になる。そのこと自体、伝統や歴史を見直すことによってなされる価値の再発見というプロセスを経なければならないだろう。そうすれば、過去にあった「囲炉裏が1つしかない」という仕掛けのようなものが次第に出来てくるのかもしれない。


2.虐待に関する日米比較


著者両氏は母性原理的な日本と父性原理的なアメリカとを比較して虐待に関する考えを述べている。
アメリカでは父親が子供に性的虐待をするケースが多いことや、男同士で仲が良いと同性愛を疑われることも多いという。安野・河合の両氏も対談の雰囲気に関しても我々日本人には何とも思われないだろうが、アメリカ人が見たら「ぼくらを同性愛だと思いますよ。」と述べている。

河合:ただアメリカなんかでは、父親による幼児虐待があまりにも多いから、みんなものすごく神経質で、ぼくらみたいな職業の者(臨床心理学者など)は、そういうケースの患者がきて、それを見つけることができなかったら、法的な責任を問われるんです。
たとえば、ぼくのところになにかの問題のある女の子が来たとするでしょう。ぼくが1年間その子を治療してもまるで治らない。ところが、その子がよその石のところに行って、実は幼児虐待だったということがわかったとしたら、ぼくはなにか罪にとわれるはずですよ。アメリカではそれくらい神経質になっている。
だからみんな、なんでもかんでも幼児虐待じゃないかということで、必死になりすぎているところがある。ぼくはこれもちょっと危ないと思うんですよね。そうなると、子どもはつくり話をするようになるんです。
それを期待されているということがわかるから、子どもにしたってそう言ったほうが気楽だしね。(略)(P.51~P.52)

ここで思い出したことがある。以前に精神科医和田秀樹の本で、子どもが性的虐待されたと作り話を医師に訴えたことで、多くのアメリカの父親が冤罪を被せられたという話だ。本の中では医師とのやり取りで誘導されていた疑いもあることが示唆されていて、なぜそんなことになったのか疑問だったが上記の引用部分で納得がいったというか辻褄があったように思う。つまり、医師はうっかり幼児虐待を見逃してしまうと後で罪に問われることになるため、それを恐れて幼児虐待がないかをしきりに探った。そのせいで子どもは、そう期待されていることを無意識的に察知して虐待の作り話を医師に訴えてしまうケースが相次いだ、といったところであろう。あと、アメリカ人の「ホモ恐怖症」についても似たような話が書いていたことも付け加えておく。



虐待の被害者の立ち直り方に関しても日米では異なった傾向があるようだ。

河合:だから、それはものすごい傷つきますよ。ただ、関心するんだけれど、そこから立ち直ってくる子がけっこういて、それはすごいです。日本の場合ですと、そういう子は父親に対する恨みが晴れないから、なかなかよくならない。こっちはこの子は少しはよくなってきたなと思っているのに、当人は「お父さんが憎い。あいつに必ず仕返しをしてやろう」ということで、治ると損みたいな気になっている。これでは、なかなか治らないのも当然です。
ところが、アメリカの子はそんなことは考えない。もともと個人主義の国だから平気なんです。だから、治る時は完全に治る。
「(略)先生もわたしと同じようになってみなさい。絶対立ちなおれんから」なんて言われたら、こっちは困ってしまう。「アメリカのみなさんは頑張っておられる」とか言ってもだめですよ。だから、ものすごくむずかしい。なんとか恨みが、「わたしはわたしの人生を生きます」というふうになるのに相当の時間がかかります。(略)そういう不幸があって、わたしはお父さんのせいでこうなったんだと言っても、一度は聞いてくれるけれど、なんべんも言うとったら誰も相手にしてくれなくなる。「おまえは弱い人間だ」というだけの話です。日本やったら、なんぼ言うたって聞いてくれるからね。(P.53~P.54)


アメリカだと悪いことをするやつが多いから、すぐ法律ができて被害者も臨床の精神科医のところへ行くようになっているため、ショックも大きいが治すのも早いらしい。日本のいいところは、ちゃんと家族で持ちあいして、アメリカほど問題が起こらないところだそうだ。