ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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常識は常識じゃない?―――『人が、つい とらわれる心の錯覚』を読んで②

世の中の硬直した常識を考え直そうとした対談本。
著者は安野光雅(画家)と河合隼雄深層心理学者)。
講談社+α文庫。


1.弱音が吐けない

またまたアメリカの話になっているのだが、彼らは奥さんにも弱音を吐けないらしい。

河合:バリバリじゃないとあかんから、弱音は吐けないわけです。とくに奥さんには絶対に吐いたらいかん。弱音を吐いたらすぐ離婚されるから。友達にも言えない。友達に弱みを見せたら、やられちゃう。だから、しゃべるところといったら、ぼくらのような職業のところしかない。だから、アメリカではすごくセラピストがはやるはずなんです。
(略)彼は健康保険なしで診療しているんです。保険診療だと、そこに行ったことがバレてしまうでしょう。だから、みんな自腹を切って分析家のところにやってくるわけです。(略)しかも、遠いところからやってくるんだって。近くやったらバレるから。(P.62~P.63)


上記の引用にある話は以前に養老孟司の本でも読んだことがある。アメリカは自由競争が激しい分、簡単に弱みを見せられない。どの社会や文化も一長一短があるのだろうが、こういう話を見ると日本の方が暮らしやすいかなと思わされる。


2.教えるのではなく育つのを待つ

何歳ならこれくらいのことが出来てないといけないと当てはめることはいけないと両氏は言う。

河合:(略)一般の大人は、「心の教育として、なにをしましょうか」という発想になる。違うんだ、それをやらないようにというのを、ぼくは強調しました。
(略)心の教育が大事だからなにかをしようという発想はやめなければならない。とくに、5歳の子はこれができないといけないとか、6歳はこれをやらないといけないとか、あれがきたら、心は殺されてしまいます。

安野:発達心理学で、3歳のときはこうなって、6歳ではこうなって、7歳ではこうなって、平均がどうなってとか言うでしょう。それを聴くと、お母さんたちは心配になって「うちの子は違ってる」などと言いはじめるわけね。

河合:たとえば、スイス出身のピアジェらが「道徳的判断の発達的研究」とかいうのをやっているんですが、それだとすごくきれいに結果が出るんです。(略)ところが、なんのことはない、実際に小学校1年生の子と話しておったらわかるんだけど、(略)そう答えるように期待されていることを、彼ら自身が察しているからなんです。だから、ああいうテストや統計をあまり真に受けない方がいい。
(P.99~P.100)


あまり型にはめすぎてはいけないということらしい。変な常識に囚われすぎないようにしたいと思う。
実験心理学や行動心理学からの結果があっても、自然科学ほどの厳密さや精度があるわけではないので、あてにしるぎると失敗することになる。


3.本当の事はあるのか

河合:そのときにぼくが、キリスト教神話はバイブルではこうだけれど、日本の中でこういうふうに変遷したんですと実例で話したところ、一番にパッと手をあげた人がどう言ったかというと、「あなたどうしてキリスト教の神話と言うのか。バイブルに書いてあることはリアリティ(事実)ではないか。われわれはバイブルに書いてあることをリアリティと思っている。それを、知りもせんやつがなんで勝手にそれを神話と呼ぶのか」と突っかかってきたんです。そこで、ぼくはこう言ってやった。
「そんな質問は全然予期してなかったけれど、さすがヨーロッパの人はよく考えている。ところで、いまあなたはバイブルに書いてあることをリアリティと言われたけれど、あなたの言われたリアリティということはどういうことか、ちょっとお聞きしたい。あなたが言うキリスト教のリアリティとはなんですか」
そうしたらちょっと黙ったので、そこでぼくがすかさず、「まさかあなたは、ここに見えている壁とか天井をリアリティだとは思っておられないでしょうね。日本では、これを幻想と呼んでいる」と言ったら、満場がウワーッと笑った。
その人も、「なるほど、あなたの言う神話というのは、ディファレント・ディメンション(次元)の違う見方のリアリティをそういう言葉で読んでいるんだと理解したら、あなたの話はよくわかる」ということで降りあいをつけたんです。ほんまにそうですよね。仏教なんかでは、西洋人が現実と呼んでいることはまったく現実じゃないですからね。

安野:なるほど、異次元のリアリティというのは気が付かなかった。それはおもしろいですね。
(P.180~P.181)


異次元のリアリティというのは色即是空みたいな話ということだろうか。
いやはやしかし、文化や歴史そして宗教の違いというのは実際にあるんだなあと感じさせられるエピソードだ。
日本人の感覚だと「古事記」も「日本書紀」も神話という歴史的財産として受け継いでいるわけだけれど、キリスト教ファンダメンタリストの人達にとっては「バイブル」は神話ではなく、歴史的事実ということなのか。


4.西洋は魔法、日本は輪廻


昔話にかんしても違いがあるということをブルーノ・ベッテルハイムという精神分析医との対談でおもしろい話が出たと紹介している。

河合:日本の昔話では狐が人間になったりするんだけれど、西洋の場合は、もともとは人間なんです。カエルの王様にしても、そのカエルはもともとは人間なんです。もともと王子さんだったけれども、魔法で帰るにさせられていて、最後に人間に戻ってくる。だから、魔法というものがあって変身しているわけ。
ところが、日本の昔話の場合は、なんのきっかけもなくキツネが人間になったりする。そこに魔法という概念はない。(略)
そこで、魔法による変身というのは日本にはないんだという話をしていたら、ベッテルハイムがおもろいことを言いました。「キリスト教文化には輪廻という概念がないから、変身を考えざるをえないんです」。これ、すごい指摘でしょう。
(P.197~P.197)


上記に続けて、共著者の安野が子供の頃、「実はおれはキツネなんだ」というウソをついたら友達のハルちゃんは信じてしまったことを引き合いにだし、ひょっとしたら前世ではキツネだったかもしれないとか、子どもなりにアイデアが浮かんできたりするのも輪廻の概念があるからで、キツネが人間になる話をきいたとき魔法なんて言わなくても不思議に思わないと述べていた。
昔話の中から、このような違いをすくい上げて分析していくのはすごいし面白いと感じる。



5.自由に遊ばせる度胸


子供たちに、やりたいように遊ばせている幼稚園の方が、保護者からの評判が悪いらしい。「先生がなんにもしてくれへん」と言ってくるそうだ。そのことについて著者は、ほんとうは自由に遊ばせるほうが先生にとっても、すごくエネルギーのいることなんだという。危ないと思いながら、ずっと見守っていなければならないからだ。その点に関してスイスと比較してみていた。

河合:それに、スイスあたりではみんな保険に入っているから、園児がケガをしても、先生は責任を問われないんです。学校内でケガをしたときのための保険は学校がかけている。治療費が保険で出て、それで終わりなんです。
だから、ぼくもよく言うんだけれど、格好で子どもを好きなようにさせようと思ったら、学校が保険をかけなきゃいけない。日本だったら、学校で生徒がケガをしたら、先生の責任を問われたり、訴訟騒ぎになったりするけど、向こうは、「訴訟したかったらしてください。裁判で決まればお金を払います」という考え方。そういうことを教育委員会がちゃんとやってくれて、先生を守るわけです。
(P.226


国によって制度が違っているようだ。これに関しては日本も取り入れていいのではないかと思う。


6.まやかしは増殖する

新聞などに載る記事や投書も、常識だと思ってはいけないようだ。

安野:言っても、そのことを新聞記者がまたまとめて短くして載せちゃうでしょう。そんな十行くらいで書けるわけがないんでね。だから、わたしはああいうときは絶対にコメントしないことにしている。

河合:とくにひどい新聞記者は、最初から書くことを決めていますから。それで、自分の書いていることなのに、自分のかいたのでは権威がないので、それに有識者の名前をつけるわけ。「先生、こうですよねえ」と言うから、「ええ、まあ」なんてうっかり相槌を打ったら大変だ。(略)

安野:(略)新聞に必ず投書欄がありますね。これは投書する人の声なんだから、一見、新聞記者の声じゃないみたいだけれども、選ぶのは担当者ですから、たぶん自分の主張に即しているのしか載せない。(略)
それと、投書欄というのは、(略)実はマニアがいるようですね。大半が投書マニア。で、マニアは、どういう意見を出すと紙面に載るかわかっている。(略)

河合:しかも、この新聞にはこういう意見が載りやすいとか、使い分ける。
(P.229~P.230、P.234)

何も考えずに、それを常識だと受け入れる方が楽なのかもしれないが、私達は考え続けなければならない。それが本当に常識たりえるかどうか、疑いのまなざしを向けながら。