戦時と平時と国際法―――『国民のための戦争と平和の法』を読んで②
国連や国際法、そして戦争と平和について書かれた本。
著者は小室直樹(法学博士)と色摩力夫(元外務省官僚)。
総合法令。
1993年初版。
警察と軍隊
国家権力の内部での位置づけ
「軍隊」は、半ば自律的なプロ集団として、時の政府からある種の距離をおいている。従ってこれを名実ともに統制する必要がある。「政治的統制」とか「文民統制」とか呼ばれているのがそれだ。
「警察」は、政府と一体で、行政機関の1つである。
権限の規定
軍隊の権限は「ネガ・リスト」方式で規定される。これはしてはいけない、あれは禁止だというように禁止項目以外のことなら行っても良いという規定のことだ。戦時国際法には縛られるものの「原則無制限」といわれるほど自由な行動が認められるのは、軍隊が動くときというのは平時の法秩序が乱れている時であり、また海外などの未知の地域情勢の下での活動が想定されているからだ。
警察の権限は「ポジ・リスト」方式によって規定される。これはしていい、あれはしていいというように許可されたことだけを行っても良いという規定のことだ。「原則制限」といわれるほど不自由な規定は、まず、警察の行動は軍隊とは違い国民に対して向けられるものであることが挙げられる。また、活動は平時の法秩序が保たれている状況が想定されているからだ。
活動の目的
「軍隊」の活動目的は国家の防衛である。軍隊の力が向けられるのは国内の国民ではなく、外国に対してなのだ。
それだけに軍隊を法的に規制するのは戦時国際法(の戦時法規)ということになる。ゆえに平時国際法のいう「主権侵害」の問題は起こらない。
「警察」の活動目的は治安の維持であり、酷な方の執行である。警察の力は国家の領域内にいる人に対して向けられる。
つまり、警察が国外で公権力を執行するとそれは「主権侵害」となる。主権侵害は国際法上、重大な違反であり、あってはならない。
任務の基本的性質
「軍隊」の機能は、もちろん「軍事的(ミリタリー)」な任務である。
「警察」の機能は、「文民的(シビル)」な任務である。
このような違いは国際社会のどこへ行っても1点の疑いも有り得ないことだ。
自衛隊の問題
自衛隊については、国の「交戦権」を放棄しているので「この点が外国の普通の軍隊との違いである」(林法制局長の国会答弁)と言われているようだ。
しかし、自衛隊は国内法でいくら規制しようが、海外では普通の軍隊として遇されているし、「交戦権」は個人にとっての「人権」に匹敵するもので、国家にとっては恣意的に放棄し得ない固有の権利だと考えられている。
つまり対外的には自衛隊は「普通の軍隊」であると世界は見ているし「交戦者平等の原則」の適用は当然とあると考えられている。
しかし、国内法上、自衛隊は本当に軍隊にふさわしい法的構造を与えられているかというと、否である。
それは「ポジ・リスト」方式が採用されている点だ。これは法的秩序が保たれた平時に国民に対して向けられる力を規制するための方式であって、軍隊にに対しては本ラインら「ネガ・リスト」方式が採用されていなければならない。
日本では「軍隊」と「警察」違いをわきまえていないために「戦時」と「平時」の振る舞いや対応に関する考えにおいて大きな混乱を生じさせることが多い。
国連の本質
ポイント
(1)連合国側が第二次世界大戦後の現状を維持するために作った国際機関である。
(2)アメリカ主導の下に設置され、大国一致の原則で運営されている。
(3)建前としてもユニバーサルな機関ではない。
(4)国連は「世界連邦政府」の第一歩ではない。
(5)各加盟国が一般的な政治的了解を相互に模索する場であって、それ以上のものではない。
(6)国連憲章は戦争を否定していない。
国連設立の法的根拠である国連憲章が成立したのは1945年6月26日だった、つまり終戦以前だということだ。
ゆえに第二次世界大戦後に設立されたものではない。
さらに、国連憲章が署名された1945年6月26日のサンフランシスコ会議には5大国によって招請され50か国が参加しているが、その条件は枢軸国(日本、ドイツ等)に宣戦布告したという既成事実である。
つまり、連合国(United Nations)が敗色濃厚な枢軸国に対抗してせんそうを遂行し、勝利を得た後には戦後の国際政治を牛耳るために、ことさらに終戦の前に急遽設立を企てた国際機関が「国連(United Nations)」なのだ。
訳語
「United Nations(ユナイテッド・ネイションズ)」を訳すなら本来、「連合国」となるべきだ。
だが、日本では”国際”連合と訳されてしまった。この訳が意図的なミスリードを狙ってのものなのか、それとも単純に理解不足からそうなったのかは分からない。しかし、どちらにせよ結果としては、「国際連合」という訳語は日本人に対して国連の本質を見誤らせてしまう効果を発揮した。
日本人の中の一定割合の少なくない人々は、国連のことを、国家の上位機関だとか世界連邦を志向するものであるとかの勘違いを今でもしているようだ。
実際は、5大国が拒否権という特権をもった戦後体制を維持するために始まった機関であり、現在は国家間の意見調整を行うための数ある場の中の1つにすぎない。
国連は国際社会そのものではない
「国際社会」は、そこにあるものです。即ち、自然の如く、人間に対して所与としてあるものです。「国連」は、そこにある国際社会の中で、人工的に作ったものです。「社会(ソサイエティ)」と「結社(アソシエーション)」とを混同してはいけません。
(P.181)
何らかの目的の下で、意識的に結成された機能体として存在しているのが国連である。
一方、国際社会というものはいつのまにか自然に出来上がっていた場である。すべての国々が存在し、友好的であれ敵対的であれ互いに関係を持ちながら活動する場、それが国際社会だ。
実際、国連には多くの国々が加盟しているが、すべての国々というわけではないし、加盟条件なども存在する。
やはり、国連は社会ではなく結社なのだ。
公開外交の場
国連は、各加盟国が一般的な形で政治的了解を模索するための常設的な場である。
その特徴的な機能としては「公開の議論」という点が指摘できる。
国連には、大中小、または機能に応じて、いろいろなフォラムがあります。それらに共通して、外交の手法としては、1つ特異な性格があります。それは、公開の議論です。「公開外交」の場なのです。
(P.185)
公開で、しかも多数で議論するため「大衆討議」という形をとる。そのため率直で本音の議論をするのには向いていない。
だからこそ東西冷戦の時代は米ソは、自国の立場の宣伝のために国連を使うことはあっても、重要な問題の交渉は直接行いっていた。肝心の問題の核心については必ず国連の外で直に駆け引きをしていた。
また、「サミット」というものもある。経済大国の首脳が集まり、それぞれの国民経済や政治の運営方針を協議するものだ。
このサミットも国連の枠外で行われており、討議は非公開である。
国連での公開外交というと何だかともて善いもののように見えてしまうが、実際のところは大衆討議でしかなく、自国の立場の宣伝やプロパガンダに陥ってしまうリスクを抱えている。
とはいえ、宣伝のすべてが悪というわけでもない。他国の(建前としての)立場を知ることもできるし、そこから本音を察することもできるかもしれない。また、自国の立場を(建前として)伝えることで遠回りに本音を読み取ってもらえるかもしれない。
常設され、各国の代表がいるため、目立たぬ形で隠密に会って秘密外交の場として利用することもできる(おそらく昔から各国が行っているであろう)など利用価値はあるのだ。
大事なのは国連の本質を誤解しないことである。国連は平和の機関でもないし、国連憲章は戦争を禁止しているわけでもない。また、国際社会そのものでもないのだ。
国際法
社会と個人
「個人的なもの」や「個人間的なもの」とは全く別の次元に「社会的なもの」がある。
どうしても個人には還元できない社会的なもの、所与として暗黙のうちに、無意識に了解されている、人々に共有された慣習がある。個人の立場から見れば合理性はないことが多いが、それらを人々が共有することで社会を成立させているような前提条件、それが慣習だ。
国際社会も本質は慣習だと著者は述べる。
国民社会の構成要素が個人であるのと同じように、国際社会の構成要素は国家である。つまり、国際社会は個人か構成されているわけではない。
「社会は個人の総和ではない」、この考え方は簡単には理解しにくい。
それよりも、個人の総和が社会だとう考えの方が俗耳に入りやすいだろう。
「社会の1人1人が良くなれば社会も良くなる」「社会の人々がみんな富めば社会も富む」などだ。
しかし実際には、「社会の1人1人が悪いから、社会が良くなる」「社会の人々がみんな富めば社会は貧しくなる」ということも有り得るのだ。
このことを最初に発見したのはマンデヴィルだ。
彼の主張の要約は「個人の悪徳は、全体の美徳である」となる。
個人が悪徳(私利私欲の追求)に励むと、その結果、神の見えざる御手に導かれて、最大多数の最大幸福を実現する。
これがアダム・スミスに始まる英国古典派の根本思想となる。
また、「個人を富ます貯蓄は、社会を貧しくする」ということについても「個人の総和が社会ではない」ことを示している。
個人が貯蓄を増やせば、それだけ消費が減る。消費が減れば、それだけ有効需要も減る。その結果、GDPは減って社会全体は貧しくなる。
これらは「合成の誤謬」と呼ばれることも有る。
慣習
慣習の根源は「過去」にある。慣習の体系が各人の生まれる前から準備されているからこそ、平穏な社会生活を営むことが出来るし、平和が保たれ、その上各人がささやかながら特定の分野で創造的活動に従事することが出来るのだ。
国際法は慣習法
国際慣習の中でもっとも拘束力が強いものが「国際法」である。
国際法は慣習が必ず成文化されているということを意味しているわけではない。条文として書かれていなくなくても「慣習」として実体があるなら「不文法」として国際法が存在していることになる。
条約などの国際約束は、それを結んだ国家の間にしか効力が発生しない。
戦時国際法
国際法の分類
国際法には①平時国際法と②戦時国際法の2大分野がある。
そして、戦時国際法には3つの分野がある。
(1)戦争法
(2)戦時法規
(3)中立法
「戦争法」は、戦争という制度全体にかかわる法だ。
「戦時法規」は、実際の戦争において「交戦国」及びその個々の「戦闘員」が守るべき規則である。害敵行為の手段の制限と、戦争犠牲者の保護という2つの柱からなる。
「中立法」は、地球上の一角に戦争が起こった場合、中立を維持する国に適用される権利と義務のルールだ。
戦争とは
戦争の目的は、敵を殲滅し抹殺することではない。
国際紛争の解決手段として時刻に有利な解決の条件を作り出せれば必要にして十分なのだ。
戦争の結果、相手国の国家意思を自国に有利な方向へコントロールできればそれでよい。
戦時法規は、戦争によって無益な殺傷に歯止めをかけるべく、国際社会が大昔から現実的で地味な努力を続けながら、ともかくたどり着いた戦闘のルールの総体なのだ。
しかし、人道主義がいきすぎると軍事的必要と衝突するし、軍事的必要がいきすぎると人道主義と衝突してしまう。
大事なのは、ルールとして誰も守らない、または、守れない法を作っても無意味だという点である。
国際法は、憲法と同じく本質的に慣習法であるから、守られていないという実態があると、法として廃棄されたということになるからだ。