ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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ヒトをモノとして扱う時代―――『モノ・サピエンス』を読んで③

人間が物質化・単一化している現代社会について書かれた本。
著者は岡本裕一朗(哲学・倫理学者)。
光文社新書
2006年第1刷。




「モノ化」する人間

「モノ化」する思考

著者は文化相対主義(それぞれの文化にはそれ固有の考えや価値があるので、自分の文化の基準でほかの文化を理解したり、判断してはならない)という考え方を紹介しながら、「女子割礼」に関するフランスでの有罪判決について取り上げる。
フランスの近代的な人権概念とアフリカの伝統的な風習が衝突した形だ。
このこと自体はフランス国内で起きた事件であるならばフランスの法に従えば良いだけだと思う。
これは文化相対主義を否定することではなく、フランスで起きた出来事であるがゆえにフランスの近代的な文化(人権)が相対的に優先されるべきだというだけの事である。
私の言いたいことは「人権」思想も”相対的な文化”だという点だ。そして、それは時と場合によって相対的に優先度が高くなったり低くなったりする。今回はフランス国内であったから人権思想の優先度が相対的に高かったのだ。


著者はこう述べる。

普遍的な「人権」擁護の観点からすれば、この風習はすぐに廃止すべきだと考えられるでしょう。女性差別に基づく身体への暴力であり、明確な犯罪だと言われるかもしれません。
(P.170)

現地の医師の調査によれば、最近の女子割礼は「伝統的な成女儀礼」というより、「美容」目的が多いといいます。しかも、医療機関で執り行われるため、「健康上の問題」もなくなりつつあるというのです(「朝日新聞」1999年12月9日)。とすれば、女子割礼は先進国の美容整形と同じなのかもしれません。
(P.171)

まず、「人権」擁護は普遍的なものではない、ヨーロッパの歴史の中で発生し成長した地方性のある文化である。それは世界の多くの地域で受け入れられたし、日本でも人権は非常に大事な概念ではある。確かに日本やフランスやその他の多くの国々で通用している文化ではあるが、それでも”世界中”というわけではない。
更に、最近の女子割礼を先進国の美容整形と同じだと評する意図が透けて見える点についても言及しておこう。
著者が言いたいのは、伝統や風習なんて「美容整形」のような流行と同じ程度の価値しかない、近代的な「個人」「理性」「意識」「客観性」「合理性」「科学技術」「論理的な明晰さ」といった価値こそが”普遍的”なものである、と。
要は、バイオテクノロジーなどの利用において邪魔になる伝統的な「人間の尊厳」という曖昧かつ明晰でない価値を貶めたいのだ。そのことは別の場所でも表れている。

女子割礼も、その文化圏に属する誰もが望んでいるわけではありません。とすれば、ものごとの善悪や正邪を判断する場合、文化や社会を単位とするより、むしろ個々人を中心に考えるべきではないでしょうか。
(P.172)

「個人」を単位にするべきであるというが、その個人は他者との関わりによって「個人」たりえているのだ。個人は、集団が歴史的に積み重ねてきた暗黙の了解を所与のもの(文化)として受け継ぐことで個人としての人格を形成している。歴史から切り離された個人など存在しない。人間(≠ヒト)はどうあがいても社会的な動物である。私達は他者と関わる際には言語を用いる。それは音声だろうが文字だろうが手話だろうが、私個人が勝手に作ったものではなく、歴史的に形作られたものだ。私は日本語しか話せないが、仮に英語だろうがフランス語だろうが何語で話したところで、言語を使用している時点で歴史から束縛されない自由な存在ではありえない。ある文化圏に属する諸個人の全てがその文化を望んでいるわけではないことは確かにそうだが、それは文化や社会という単位が個人という単位より劣位にあることを意味してはいない。
何らかの文化的風習というものは絶対不変ではなく、歴史を通して変化している。それは全ての個人が納得していなかったからというのも要因の1つになっていると思われる。だからこそ、他の文化(私達先進国の人権思想)を押し付けずに、見守りながら時々は意見や助言をする程度に止めるべきなのだ。アフリカの文化が変化するのに必要な時間の分だけ待つしかない。近代文明の人権思想や個人主義(という文化)を勝手に「普遍的」などと称するのは傲慢以外の何物でもない。



著者は政治思想上の立場の分類として3つを挙げる

リバタリアニズムは、共同体の規範からの個人の自由を尊重する立場で国家権力からの制限についても否定的であるため小さな政府を志向する。しかし、自由競争は弱肉強食でもあり、個人の自由と安全のためには国家権力を要請するしかないという矛盾をかかえている。

ネオコンサバティズムは、「家族」「道徳」「宗教」「教育」「愛国心」などの共同体の規範に価値を置き、社会秩序を維持するために大きな政府を志向する。

上記2つはネオリベラリズムを理解するための比較対象としてあげられている。
ネオリベラリズムは、福祉や平等の達成のために大きな政府を志向する一方、「経済に対する国家の介入に反対」する「市場原理主義的」立場であり、これは「強い国家」と「個人の自由」という相矛盾する側面を持ち合わせている。

そして、このネオリベラリズムは「強者の論理」として成立しており、ロールズが「無知のヴェール」で説明するような弱者との立場の逆転という想像力を欠いたものであることを指摘している。
このネオリベの社会における自由とは「~できる(能力)」のことであり、市場原理主義の立場での能力とは「お金」であるという。

「居住の自由」や「服装の自由」が法で保証されていても実際には「お金」がなければ実現できないことを具体例として挙げながらこう述べる。

そうだとすれば、消費者社会においては、「お金」がその人の「能力」となる、といえるでしょう。「お金」はあらゆる商品(モノ)と交換することができます。
(略)こう考えると、ネオリベラルな世界では、「自由」かどうかは「お金」のあるなしに左右されることがわかります。
(略)こうした、「お金」に価値が一元化された世界では、「お金」がなくなったとき、ヒトは「自由」を失ってしまうのです。
(P.196)

ここでは、お金がないと不自由な生活になるという程度の当たり前のことしか述べていない。
だが、著者の意図としては、現代はもう「超消費社会」となっているということを強く印象付けながら再確認を行い、これに逆らっても仕方がない、この在り方は肯定するしかないということが言いたいように見える。
個人の欲望の自由に対しての予想され得る異議申し立てについて「今はもうこんな時代なんだよ」と先回りして牽制しているといったところではないだろうか。


「モノ化」する社会

著者は、ICタグGPSを例にとり、その有用性は認めつつ、張り巡らされたネットワークとして機能している点を指摘していく。
いわゆる「監視社会」というものだが、この分析の精度を上げるためフーコーパノプティコンについての考えを見直しながら現代の「超消費社会」における「欲望」と「監視」そして「管理」について論を進めていく。

この「パノプティコン社会」について、、私は2つの特徴を指摘しておきたいと思います。
1つは、「監視する者」と「監視される者」の非対称性です。
(略)もう1つの特徴は、監視によって人々を「規律訓練」(あるいは「調教」)するということです。
(P.209)

監視システムは、国家の領域から私的な領域へと拡散している(例えば自宅の監視カメラなど)。
それだけでなく、企業によってクレジットカードやオンライン・ショッピング、ネットサーフィンもくまなく補足されており日常生活においても管理の及ばない領域はない。
このように「監視されていることを意識しない」システムが張り巡らされ日常生活に管理の手が及んでいる。

フーコーのいうパノプティコン(少数者が多数の者を見る)システムだけが近代において発達してきたのではなく、シノプティコン(多数者が少数の者を見る)システムも同時に発達してきたとマシ―センは提唱しているようだ。
このように現代社会では消費者を監視するシステムとしてのパノプティコンと、消費者が(欲望の対象を)見世物として監視するシノプティコンとの相互作用による動きがある。
企業は消費者を監視し欲望の動向を探り(パノプティコン)、消費者は見世物をメディアを通じて監視すること欲望の形が変化していくという同時因果関係的な欲望の運動が超消費社会において展開されている。


「人間の尊厳」の終焉

アメリカでは右派、ヨーロッパでは左派がヒトに対する遺伝子操作に反対しているらしい。
そのどちらもが反対の根拠に「人間の尊厳」が損なわれるという主張をしているようだ。

フランシス・フクヤマの『人間の終わり』で示される意図を著者が紹介するところによると、

本書の目的は、ハスクリー『すばらしい新世界』が正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それは人間の自然本性を変え、我々が歴史上「人間後(ポストヒューマン)」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(『人間の終わり』九頁)

つまり、現代のバイオテクノロジーは「遺伝子操作」によって、人間の本性(ヒューマン・ネイチャー)を変えてしまい、「人間(ヒューマン)」は「ポストヒューマン」へと種を変化させるというわけです。この事態は、「人為的な進化」と考えられ、それをフクヤマは「人間の尊厳」に反すると見なし、規制すべきだと主張するのです。
(P.241)


また、ハーバマスの『人間の将来とバイオエシックス』での主張も取り上げている。

選別と形質変換を目標とした遺伝子技術と、そのために必要な、将来の遺伝子治療に向けた研究のあり方(中略)こそが、本当に新たな種類の挑戦であると言えよう。(『人間の将来とバイオエシックス』五十頁)


こうした「新たな挑戦」に対して、ハーバマスはいかなる態度をとるのでしょうか、かれによると、人間の遺伝子操作は「人間の道具か」であり、「人間の品種改良」であるといいます。
(略)このとき、かれが持ち出す論拠が、やはり「人間の尊厳」という概念なのです。
(P.242)

ところが、この概念はきわめて曖昧で、何を意味するかほとんど分からないのです。この点は「人間の尊厳」を主張する人たちからも、しばしば表明されています。
(P.243)

この部分から判断すると、「受精卵」はむしろ、「自然の体系における人間」で「取るに足らぬ存在」といえます。ですから、カントを引き合いに出して、「受精卵の尊厳」を語るのは無理があるのではないでしょうか。
(P.245)

このとき、受精卵に何もしないで重い遺伝病をもった子供が生まれることと、受精卵に遺伝子治療を施すことによって健康な子供が生まれることでは、とちらが「人間の尊厳」にふさわしいでしょうか。少なくとも、「遺伝子治療」をすることが「人間の尊厳」に反しているとはいえないと思います。
(P.246)

ポストロムによれば、バイオ保守主義は「ポストヒューマン」のイメージを、ハスクリーの『すばらしい新世界』に基づいて描いています。
(略)いま進行しつつあるバイオテクノロジー革命とは発想がまったく異なっています。というのも現在は、国家ではなく個々人の自由な選択によって、身体や精神のエンハンスメント(能力増強)を図っていくからです。
(P.247~P.248)

人間主義の考えによれば、現在の人間の本性は、応用化学や他の合理的方法によって改良することができる。それによって、人間の健康の機関を延長し、私達の知的・身体的能力を拡張し、私達の神的状態や気分に対するコントロールを増大させることができるのである。(Bostrom p.202f)
(P.248)

安全で信頼できる生殖テクノロジーの到来は、人類の自己設計時代の始まりを告げることになるだろう。(中略)徐々に漸進的に自己変容していくことによって、私達の子孫を、現在使われているような意味で人間とは呼べないほどに、現在の人類とは違ったものに変えてしまう事ができるかもしれない。(『それでもヒトは人体を改変する』九頁以下)
(P.249~P.250)

誤解してはならないのは、受精卵の遺伝子を改変したからといって、いったんこの世に生まれ出た子供を親が意のままに操ることは出来ないということです。遺伝子を設計できるのは、あくまで初期条件だけで、能力の部分にすぎません。生まれた後、どのような人生を歩むかは、子供が個々人で決定していくことです。
(P.251)

つまり、先進テクノロジーに対して重要なのは、発展を阻止することではなく、費用・安全性・有効性を確保することです。
(P.252)

というのも、個々人の欲望を考えてみれば、「より優秀な子供」を求めるのは、親の常だといえるからです。
(略)こうした個々人の欲望を超えて、バイオテクノロジーはすでに、巨大な市場をけいせいしつつあります。
(P.253)

そして、その研究開発が国家的な威信をかけたものである現状では、それに規制をかけることはイコール国益に反することになってしまうのです。
(P.255)

たとえば、人々が「自由」を追求すれば、「平等性」が脅かされ「格差」が拡大するだけでなく、社会的な「規範」や「道徳」も崩壊し、ひいては人々の「管理」が強化されることになるわけです。こうした内的な矛盾は隠ぺいするのではなく、欲望の加速化によって出現させるべきなのです。
いまのところ、矛盾が明らかになったところで何が生み出されるかは分かりません。しかし、それを乗り越えたところに新しい時代が開いていることは間違いないでしょう。そして、「モノ・サピエンス化」への欲望を加速化させることで、私達が新たな時代へ踏み出すとすれば、そこではじめて「モノ・サピエンスの尊厳」を擁護すべきなのかもしれません。
(P.262~P.263)


大雑把な流れとしては、

規制の論拠として出た「人間の尊厳」は曖昧だしカントも無効

重度の遺伝病の人の「人間の尊厳」はどうなる

個人(親)の自由な選択なら遺伝子操作を決断してもいい

親は遺伝子の初期条件だけ決定して、あとは子供の選択で生きる

発展を阻止するのではなく、費用・安全性・有効性の確保に力を入れるべき

優秀な子を求めるのは親の(肯定すべき)欲望だし市場も大きい

国益をかけた競争になる(規制かけた国は損をする)

矛盾が出ても隠さず進め、この先どうなるか分からないけど新時代がそこに開いている



(少数の)同意できる部分と(多数の)同意できない部分とがある。

まず、「人間の尊厳」が曖昧な概念だからといって、遺伝子操作に対する反対意見としての論拠の正当性や有効性を失ったりはしない。この問題が取り扱われる土俵は「論理学」や「科学」ではなく「倫理・道徳・規範」である。だから「明晰さ」は優先順位としての地位は低く、むしろ、社会の中で多くの人々に広く共有されている倫理観や規範の方が優先度としての地位が高いのだ(逆に言えば、多くの人々が何の違和感も覚えずに「人間の尊厳」を切り捨てることが出来るなら遺伝子操作は広く受け入れられることになる)。

重度の遺伝病に対しての遺伝子操作に関してだが、これは多くの国々では受け入れられると考えられる(日本でも)。そして、少数の国々では宗教上の制約等で禁止され続けるだろう。この問題についても「人間の尊厳」の曖昧さは否定されるべきものではない。曖昧であるがゆえに文化相対主義的な観点から、それぞれの社会で共有されている価値観(人間の尊厳)の下で、様々な形をとっているため、その文化的共同体や社会の実情に合った受け入れ方がなされるべきものだ。日本ではおそらく受け入れられやすいものだと思われるので、重度の遺伝病に対しての遺伝子操作を認めることに関しては、私は同意できる。

しかし、能力増強のための遺伝子操作には同意できない。現時点においては安全性も確立されてはいないが、それが反対理由なのではない。親の自由選択(エゴ)によって子供に「優秀であるべき」と人工的な操作が加えられるのは、その子の人生において重大な「実存の危機」をもたらすことになることが反対理由だ。著者は遺伝的初期条件を決めるだけで後の人生は子の自由選択に委ねられているというが、実は初期条件を人為的に設定された時点で、後の人生における自由選択の道は閉ざされている。サルトルは人間の特性について「実存は本質に先立つ」と言った。これが意味するのは「人間とは~であるべき」という本質を前もって授けられているのではない、本質から自由な存在であるということだ。しかし親の自由選択による初期条件の設定は子供に対して「あなたは~であるべき」を授けてしまっている。出生の秘密とは人生を通して付きまとってくる。人間はそこから自由になれないのだ。被投(自らの意志によらず社会に投げ入れられること)され企投(自らの意志で社会に飛び込んでいくこと)していく現存在(人間)、それが実存だ。しかし、出生の秘密として親の意志が入り込んでしまうと被投性が成立しない。自然に生まれた場合は、初期条件がどうしようもないもので受け入れるしかないものだが、遺伝子操作を伴っていると「ああも出来た、こうも出来た」ということになり他の選択肢も有り得たとして「どうしようもなく受け入れるしかないもの」ではなくなる。こうして被投性が破壊されるわけだが、なぜそれが問題かというと、被投性は企投性の足場になっているために、足場が破壊された状態では企投(自らの意志で社会に自分を投げ出していくこと)が不可能になるからだ。「企投」するためには「被投」されることが必要である。遺伝子操作は「どうしようもない初期条件」を「どうにかしえた初期条件」へと変質させ「実存の危機」を招くものとなる。「生まれた後に子供は自由に人生を選択できる」というのは全くの勘違いである。その背後には人間の「自由意志」への過大評価があるように思われる。

「発展を阻止するのではなく、費用・安全性・有効性の確保に力を入れるべき」については、まず、人間の遺伝子操作を禁止したとしてもそれは発展を阻止しているわけではない。現に動物実験は行われており、分子生物学者達などは研究を続けながら発展に携わっている。阻止されたのは「発展」ではなく、「急進的な発展」である。「費用・安全性・有効性の確保」も動物実験などを通じて現在も(ゆっくりと)進行中である。遺伝子操作に関しての実用化については急進的なやり方で控えて漸進的に行わなくてはならない。遺伝子が規定するのは身体という「内なる自然」である。進化の歴史を見ても、その変化は環境と身体の相互作用による長い長い時間をかけて行われてきたものだ。遺伝子操作を行った子供が無事に出産されたとしても、人生の終わりまでをしっかりと見なければならないので数十年を必要とする。さらに1人や2人などの少数では話にならなにので統計的に意味のある人数を長い時間かけて観察していく必要がある。しかし、いきなり大量の人々(受精卵たち)にそんな実験を行い、もし問題が生じたらどう解決するつもりなのか。だから、この実験は急進的に行えるものではなく、時間をかけて漸進的に行わなくてはならない。安全性や有効性が確保されたかを確認するためには何十世代・数千人を観察しなくてはならないだろうし、それは能力増強ではなく、重度の遺伝病治療に限定されて行われるべきであろう。本当に長い時間がかかるので規制をすぐに撤廃しようとする姿勢は間違っている。生物の体は「複雑系」だ。遺伝子を「ああすればこうなる」といったように要素還元主義的な因果関係で結ぶことはほとんどの場合できないだろう。「論理的整合性」より「現実との適合性」を見なくてはならないので何十世代という時間と、おそらく数千人規模の人生の最後までを観察しなくてはならないため、遺伝子操作の実用化と発展には本当に長い時間を必要とすることになるのだ。少なくとも100年程度や200年程度では全然足りない。
あと、遺伝子操作をするにしても「重度の遺伝病」に対するものと「能力増強」に対するものは同列に語れるものではないことも付け加えておく。

市場の拡大についても、現実に起こっていることだが、そうであるがゆえに問題なのだ。企業の目的は利潤追求だあるし、それは肯定しなくてはならない。利潤追求を否定された企業は目的合理的な経営を行う事ができないので十中八九、倒産することになるだろう。それを踏まえた上でバイオテクノロジー産業を見ていくと、利潤追求上の効率化や同業他社との競争に勝ち抜くためには、現実的に安全性の完全な確保や依頼者への心理的配慮やアフターケアなどが不十分になってしまう。これは私の単なる予測ではない。現実に代理母出産に関してアメリカなどでは過去に発生した問題である。この本の著者はP.100でタレントの向井亜紀の行った代理母出産を例に挙げていたが、成功例だけを取り上げているにすぎない。これには失敗例として企業側が利潤追求の効率化を図ったことによる不始末や、代理母出産を依頼した側とされた側で起きた裁判沙汰のもめごとなども紹介していなかった点で公平性に欠ける取り上げ方だと言わざるを得ないのだ。ここで起きている失敗は「次からは気をつけます」では済まされない。なぜなら「人間の尊厳」に関わることだからだ。「人間の尊厳」は時代によっても変わり、個人間でも完全な一致は見られないし、異なる文化的共同体や異なる社会間でも違いがあり、明晰性を見出せない”曖昧な”概念ではある。しかし、曖昧であることによって、これを取るに足らぬものと無視させる根拠たりえるわけではない。なぜなら、これは論理的な問題や科学的な問題ではなく、倫理的・道徳的な問題であるからだ。

バイオテクノロジーの開発競争は、現在も、そしてこの先も国の威信をかけた国益に関わるものになり続けるだろう。規制をかけることは、他国に後れを取ることになり国益を損なうかもしれない。その点には私も同意する。
では、すぐに規制を緩和して積極的に(人体を利用した)開発競争に進めば良いのかというとそうではない。ある問題の解決は、そのことによって、また別の問題を引き起こすことになるのだ。現時点におけるバイオテクノロジー開発競争の問題については、規制緩和が解決策ではないということは確かだ。

著者はとにかく進めと述べているだけにすぎない。「矛盾が明らかになったところで何が生み出されるかは分かりません」と主張し”何か”が起きたときにどうするかというと「それを乗り越えたところに新しい時代が開いていることは間違いないでしょう」と述べるだけで、どう乗り越えるかは示さない(何が起こるかは分からないので当然ではあるが)。そして乗り越えた先の「新しい世界」とやらが良いものである保証は何もないままなのだ。これでは話にもならない。結局のところ主張されているのは「新しい世界」が人間にとって良いものか悪いものか分からないけど「超消費社会」の導くままに「欲望を加速させて進み続けるべきだ」ということでしかない。おそらく欲望が満たされるのだから「新しい世界」はきっと良いものに違いないという希望的観測があるのだろう。しかし、それは余りにも無邪気で短絡的な予測、いや願望にすぎないのだ。既存の社会的な道徳・倫理・規範を敢えて壊してまで「欲望を加速」させる必要などない。


あとがきで述べられているが、

もしかしたら、ドギツイ表現と他人事のような記述をみて、戸惑う方もいらっしゃたのではないでしょうか。
(P.264)

こうした書き方をすれば、もしかしたら「カヤの外」から野次馬的に観察しているのではないか、と疑問をもたれたかもしれません。しかし、私自身は、いつも「使い捨てられるヒト」の立場に立って書いていました。
(P.266)

これを見ると中立的な立場から客観的に、この問題を取り上げているかのような印象を受けるが実際はそうではない。著者は中立の位置に立っているわけではなく、「モノ化」を積極的に肯定し推進していく側の視点でこの問題を取り上げている。ある立場を持つこと自体は自由だ、何も悪いことではない。しかし、それを隠して中立を装うことは卑怯だと言わざるを得ない。このあとがきにある中立を装った記述は残念なものだった。

この本を読んで、著者は「理性」や「意識」を中心に据えた近代合理主義に基づいて物事に取り組むことを正義としているような印象を受ける。
そうだからこそ著者は「明晰」でない曖昧な”人間の尊厳”を慮外とするし、近代的「個人」の「自由意志」に基づいた「自己決定」による選択を善いものだとし、そこに迷いがないのだ。
しかし、人間も自然も現実社会もそれほど単純なものではない。遺伝子操作についても人間を要素還元主義的に部品として扱ってああすればこうなると因果を結べるものではない(これは技術的問題ではなく原理的な問題である)。現代科学ではまだ「複雑系」についての方法論が確立されていない以上、安易な遺伝子操作によって何が起こるかは分からないままなのだ。
矛盾が出てきてもそこに突き進んだ先に「新しい世界」があるというが、その新しい世界はただ矛盾が放置されているだけの世界でしかない。それは著者が近代合理主義の反対側にあるものを受け入れていないことに理由がある。「明晰さと曖昧さ」「理性と野生」「意識と無意識」「個人と共同体」「新制度と伝統的制度」「論理と倫理・道徳」「欲望の放埓と節制」等々の矛盾するものを受け入れ、そこで生じる葛藤と緊張の中から抜き差しならぬ決断を行い、行きつ戻りつしながら漸進的に踏み出していった先にこそ「新しい世界」が開かれているのだ。
世界とは当然のことながら何らかの秩序をもっている。それは矛盾がただそこにあるだけではなく、その矛盾を抱える緊張と葛藤の中で人間が苦渋の選択を実行したときに何らかの秩序を持った世界が開かれてくるのだ。「欲望を加速させて進む」だけでは矛盾は放置されたままで「新しい世界」など開かれることはない。
欲望を加速させた結果で生じた矛盾ではなく、「近代合理主義的な価値」と「伝統的な価値」との間で生じる矛盾こそが「新しい世界」を開くために取り上げられるべきものである。そこには抜き差しならない葛藤と緊張がある。