ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

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言語・消費・審級・身体・真理―――『思考の用語辞典』を読んで③

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



言語


言語がほんとうに哲学の問題になってきたのは最近の事らしい。
それまで、言語は「思考の正確さをそこねながら伝える」手段と考えられてきた。
私たちは思考を他者に直接伝達できないから、やむを得ず言語という道具を使う。そして、思考そのものに誤りがなくても、言語によって思考を伝達するプロセスで誤謬が発生してしまう。

このような考え方が転換したのはドイツ観念論、とくにヘーゲルの頃からだそうだ。
言葉は自己を外化し、物にする契機だとヘーゲルは考えた。言語は思考を歪めて伝えるものではなく、社会で公共的に使われているものだと認められた。
しかし、まだ哲学の中心的なテーマは「意識」におかれていた。

現象学での「自我」というのは「弱い独我論的な自我」のようなもので、それをもとに考える。そこでも出発点はまだ意識である。

でも、1960年代頃から変わって来て、メルロ=ポンティは言語を、人間の思考そのものを可能にする媒体だと言った。
語ることは、観念を表にあらわすことではなく、言葉の意味を生きることだという。
それは言葉を使って他者と交流することで自らの存在を変形させることだ。言語は私達の思考の<身体>である。

ウィトゲンシュタインは、言語こそが1次的なもので哲学の問題はつねに日常の言葉の使い方に立ち戻って考えるべきだという。
言語の外に思考や表象のようなものがあるのではなく、すべてが言語としてはじめて可能になるのだ。

ガダマーは、ハイデガーの「世界内存在」の考えを進めて、世界内存在とは人間が言語のうちに存在することだという。
言語はただの道具ではなく、人間はいわば<言語内存在>みたいなものなのだ。

ラッセルとフレーゲは、ウィトゲンシュタインとは逆を考えていた。日常言語はつねに不完全であるから、これを改良して理想的な言語を作り出すべきだと。

オースティンの言語行為論と、それを引き継いだサールは、言葉の意味を、その内部にある意味だけじゃないと考えた。つまり、言葉は使われる現場によってさまざまに異なる意味を持ち得る。


哲学の瘤のような空虚な概念は、言語についての誤解から生まれたと考えられている。
そして、この問題を解消させるために
①明快で透明な論理構造をもたせる

②詳細な日常言語の分析を行う

③そうすれば、問題は解消するに違いない

哲学で言語のはたす役割を重視する立場には、このような流れがある。
しかし、これで問題を解消しても、また別のところに「瘤」ができるのかもしれない。




消費


消費という概念が哲学で問題になりはじめたのは資本主義社会が成立してからだったが、マルクスの『資本論』では消費の問題を十分に取り上げていなかった。
マルクスにとっては生産こそが資本主義のかなめだったからだ。

しかし現代社会ではかなめとなるのは生産ではなく消費だ。

消費者が支出を抑制→生産活動が停滞→経済が行き詰まる

現在の課題は、人間の欲望の自由は認めながら、どうやって「抑圧の少ない社会」に変えていくかということらしい。

ラカンがいうように、人間の欲望は自制的なものではない。他者の欲望の欲望として形成されるものだ。
人間の欲望には本来、空虚なところがあってシュミラークルとしてしか成立しないようなところがあるのだろう。

ボードリヤールは、消費社会で人々の欲望は人為的に作り出されたものだという。
この社会では欲望と消費のゲームが根本的な原動力になっていて、これなしでは社会は成り立たない。
現代の消費社会では財や物がコミュニケーションを目的に交換されているそうだ。

バタイユは消費を負の活動としてとらえるのではなく、システムの「呪われた部分」を燃やし尽くし、帳消しにする積極的な行為として考えている。
産み出された過剰な富は、社会そのものを破壊するような戦争や殺戮を作り出す。だから適切な方法で「廃棄」しなければならない。
「労働する人間」がやみくもに作り出す事物が、逆に人間を自然との一体性から疎外することになる。
この疎外を打破するのは社会の変革ではなく、供犠や破壊や贈与、過剰な消費、エロスなどの力で人間がその「内奥
」との一体性を回復するしかない。



審級


審級という耳慣れない言葉はアリストテレスの『分析論前書』の「相手の前提に対立する前提としての異議」をラテン語に訳すとき使われたのがはじまりらしい。

哲学ではある議論に対し、違う前提から別の議論を退治させる場合「別の審級の問題と考える」という。
つまり、審級という概念は、議論の正しさそのものじゃなく議論の正しさを調べる「場」を問題にしているのだ。

審級という考え方が場より裁きのイメージで使われるようになったのはカントからだ。
宗教の問題を哲学という審級で扱うには限界があるし、この問題については良心の声みたいなものが最終的な審級になると言ったようだ。
つまり、哲学とは場を分けるべきだということらしい。

フロイトは、人間が自分の認めたくない欲望を検閲するメカニズムとして審級という概念を使う。
第1の審級で、夢に登場していいものとそうでないものをふるい分ける。
第2の審級で、夢に登場したものを自分の望ましい形に変えさせる。
この検閲する審級が超自我である。

アルチュセールは最終審級論をとりだしてきた。
社会で発生した問題を考えるには経済の審級で考える必要があるという。しかし、同時に政治制度や習慣、芸術や哲学などの審級も無視すべきではないそうだ。
1つの問題は1つの層だけで決まるものではない。様々な審級で重層的に決定される。
でも、そのうちの1つの層が決定的な意味を持ち、それが経済というわけだ。
これは単純な経済決定論ではなく、重層する審級どうしの弁証法的な関係を言ったのだと強調していたようだ。


身体


哲学の営みは「死の稽古」だ。身体はつぎつぎと脱ぎ変える衣装のようなものだから、死を恐れることはない。
プラトンの描いたソクラテスはそう語った。
プラトンピタゴラス派の伝統に従って身体を精神の「牢獄」と呼んでいた。
けれど同時に身体はイデアへの道にいたるための欲望の棲み処であると考えていた。

この両義的な考えは、後にデカルトの心身2元論の道を開いた。
デカルトはこの心身問題の結び目を脳の松果体にあると見ていた。

ずっと後になって、ベルグソンが例えたように、仮に脳は精神が宿る「座」だとしても、それは帽子をかけておく「帽子かけ」のようなものにすぎない。帽子そのものを帽子かけに還元することは出来ないと言ったらしい。

マルセルが言っていたように、そもそも私達が自分の身体を「所有している」と考えるのは間違いのようだ。

自分が身体を持つ存在だと自覚するには、まず他者の身体は必要になるんだ。
自己の身体にアイデンティティーを持つというプロセスには、実は他者の身体がなければ行えないことなのだという。
ラカン鏡像段階の理論が説明しているように、自己を身体的存在として認識するには、自己の身体像より前に、他者の身体像がなければならない。

幼児は他者に愛撫され、世話され、育てられる中で自己の身体と他者の関係から自分の性格を作り上げている。
これは他者の身体を前提にした相互的な関係だ。
この自己の身体と他者の身体を結ぶ<間身体性>みたいなものをメルロ=ポンティは<肉>と呼んだ。
<肉>によって人々は他者と楽に理解しあえると考えたようだ。
身体を持つことは精神の営みにとって妨げになるわけではない。逆に他者に意志を伝える大事な前提条件を作り出している。
いわば「精神の身体」と「身体の精神」のようなものがあって、それが交差する場で「人間」が成立するのだ。

ブルデューハビトゥスという概念も、この<肉>性を別の視点から取り上げている。
1つの社会に住む人々は、ある共通の身体作法や技法を獲得する。社会の中で習慣となったその作法で、人々は互いに相手がどう振る舞うかを予期できる。
ハビトゥスは1つの社会で文化的な「身体」を築き上げている。

身体によって学ばれるもの、それは人が自由にできる知のように所有できるものではなく、人格と一体になったものである。このことは無文字社会において特に明らかである。こうした社会では伝承された知は身体化された状態でしか生きられない。知はそれを運ぶ身体から分離できないし、特別に知を呼び起こす一種の身体訓練によらなければ再構築できない。
ブルデュー『実践感覚』)


フーコーは、個人が社会で主体として存在するために、身体にどういう「調教」が加えられるかを見た。
そして、身体作法が歴史的で政治的なものとして外部から与えられると考えたようだ。


真理


真理(アレーティア)という語の語源として、プラトンの『クラテュロス』では神的な彷徨(アレー・ティア)が挙げられている。
定説のようになっているハイデガーの語源説によると、忘却されているもの(レーティア)の覆いを取り去ってあらわにするものだという。
これらの語源は古典のテクストじゃ確認できないようだ。語源からして真理とは謎に満ちている。

アリストテレスは、真理は命題に宿ると考え、「ある命題とその対象になる状態が一致すること」だとしたようだ。
更にまた違う真理の概念も考えていて、論理学の推論体系(排中律矛盾律など)は常に真で「魂の内なる言葉」であるという。
18世紀のカントの時点でも、<事実の真理>のほうの命題は受け継がれている。

けれどカントはそこで、真理の「人間学的な転回」をやってのけた。
ある命題が真理かどうかは事実と一致しているかどうかで判断できるが、そもそも、そういう判断が可能で、しかも他者との間でその判断を共有できるのはなぜかを考えたのだ。
カントの真理の概念は、命題の真理という概念から、真理そのものが可能になる条件を考えるという<超越論的な真理>の概念に移行している。

ヘーゲルの真理概念によると、真理は1つの命題で可能になるのではなく、命題が体系をなすことで初めて生まれるのだそうだ。

そして、19世紀の後半にニーチェが現れ、伝統的な「真理」を批判した。
真理は人間という動物の種族が生きるために必要な、ある錯誤のようなものだと指摘する。
人間は、それが錯誤だとしても真理というものの存在を信じざるを得ない種族なのだという。

20世紀のフーコーは、真理への意志が権力で貫かれていると指摘し、真理を「語る」ことの意味を分析した。

このような考察とは別の流れとして、論理実証主義の立場からは真理を、命題の真理だけに還元しようとする動きもあった。
初期のウィトゲンシュタインだと、真理は真理値だけにあり、その外部は「語り得ない」世界だと考えていたようだ。

後にウィトゲンシュタインはこの見方を捨てることになるが、このような試みを続けている人もいる。
タルスキは、真理の問題を、文の術語という観点から分析している。
真理は「・・・とは真である」という術語にすぎず、存在の実相でも体系でもない。
真理は1つのメタ言語的な表現にすぎないのだそうだ。