ウソツキ忍者の独断と偏見に基づく感想・考察

読んだ本や、見たアニメについての感想

世界・責任・贈与・疎外と物象化―――『思考の用語辞典』を読んで④

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



世界

カントは『人間学』で、世界(Welt)とは人間が認識できる総体だと考えた。
つまり、世界の限界は、人間の知の限界と一致するということになる。

フッサールは、この世界概念を引き継いで「生活世界」というものを考えた。
生活世界は、自然科学の世界概念など、さまざまな世界概念が生まれる場そのものだ。
あらゆる経験はこの世界の中ではじめて可能になる。

フッサール現象学を引き継いだハイデガーは、共通する部分として、近代的な自然科学の世界像が人間にとって自然なものというわけではなく、まずは「自分をとりまく世界の中に生きる」ことから出発するべきだと考えていた。
つまり、事物が存在し「実存する可能性」をもたらす条件だとする点で共通しているといえる。
けれど同時に、これは実存が頽落する条件でもあると考えていた。
人間が世界に生きることの両義的な意味を提示したのだ。

メルロ=ポンティは、まず生活世界の概念から地平という要素を受け継いだ。
この考え方には、人間がまだ個人として分節されていないままの「間主観性の世界」がある。
そこから、この地平をもとに個人としての自己を形作れるようになる「間主観性の世界」を「野生の存在」と呼ぶ。

ハンナ・アーレントは、人間が作り出した世界の重要性を思考の基本軸におき「道具関連」に基づいて考える。
世界は人間が作った道具に囲まれた場だ。そして「人間の手によって作られたものはどれも美しくもなく真でもない」。
しかし、この世界は人間が互いに関係を持ち、永続的な営みをする必須の条件でもある。
それだけではなく、世界は人間が自己のアイデンティティーを確認できる共通の場、人間がリアリティーを獲得する場なのだ。
世界は人間が他者と共生し、不滅の栄誉を輝かせる場であり、それが出来るのは世界の中だけである。


責任

責任(responsibility)という語は、語源こそラテン語だけど、実は18世紀になってから登場する言葉だという。
レスポンス・アビリティーという言葉自体、応答する用意があって、その能力があるというつくりだ。

オイディプスのように古代の英雄達は、人間が責任を負えないような事柄にまで雄々しく責任を負っているとヘーゲルはいう。

では、なぜ「責任」という語が近代になって登場したのだろうか。
おそらく、古代とは違った「責任の取り方」が必要になったからではないだろうか。

近代社会において個人は、理性的な存在だとう了解が前提されている。
故に、自分の行為が理性的なものであるべく責任を負っているように思われる。
責任は理性と深い関りがあるようだ。
近代の刑法においても、責任をひきうけられる主体だけに罪を問う。狂気や疾患で理性的な判断が出来ないとみなされた者に対して刑法は責任を問わない。

しかし、技術が発展したことで、理性の理論に基づいた「責任」で割り切れない事態は見られるようにもなった。
社会システムや、出来事についての因果のプロセスがあまりに複雑になると、個人の負うべき責任の範囲がぼやけてしまい確定することが難しくなる。
結果、責任の概念自体が揺るがされることになった。

フランスの法哲学者フランソワ・エヴァルトは、責任が「社会化」されてきたという。
自動車事故の判例で、歩行者側に過誤があっても、運転手に「責任」が問われたケースがある。このことをひいて彼はこう言った。

要するに過誤の概念は、もはや責任を決定するためには適切なものではなくなった。過誤と責任は分離してしまったのである。
エヴァルト『福祉国家』)

現代で責任は、もう個人の理性的な判断だけではどうにもならない。社会全体がそれを負うように求められている。
これは個人の責任が軽くなったのではなく、ある意味で逆に責任の概念が拡大してきているのだ。
個人が自分の犯していない行為にまでかえって責任を感じ始めたりしているのが現代の責任の引き受け方の特徴にもなっている。

この現代の責任概念は、考えようによって無限に拡大できてしまう。
例えば、私達はアフリカで飢えている子供達に「責任」を感じているという議論も出来てしまうのだ。
その極端な例がレヴィナスで、他者に対して責任を負うこと、そこに自分のかけがえのなさが生まれるという。
責任をとることで「譲り渡せないアイデンティティー」が生まれるという考え方らしい。

個人のアイデンティティーは、その個人が自分について維持する「物語」で可能になるとマッキンタイアは『美徳なき時代』で指摘した。
自分が誰にどういう責任をとるかという観点から、自分のアイデンティティーを形成できるということだ。

ホロコーストで肉親を失ったレヴィナスが、ナチスの蛮行の責任を引き受けると語るのを聞くと、非常にグロテスクな印象を受ける。
しかし、これは責任概念における現代的な状況への究極の答え方(応答)なのかもしれない。

飽くまでも私見になるが、上記のような「責任」についての考察を見ると、現代社会では責任概念が崩壊の危機にあるようにも見える。
理性の理論に基づいていた「責任」は、もはや狂気の実践を要請しているようにすら感じられてならない。


贈与

贈与とは対価なしで何かを与えることだ。
しかし、実際には自分の精神的な満足だったり、相手からの敬意だったり、共同体内での地位の確保だったりする。
そのように考えると、贈与とは交換のメカニズムの1つだと捉えられる。

いわゆる原始的な共同体では、交換でなく贈与が社会形成の基本原理になるとマリノフスキーは言った。
トロブリアンド諸島のクラという交易を例にとり、首飾りや指輪などの象徴的な財が贈られ、それと一緒に経済的な財の交換も行われる。
贈与が行われることが交易のために欠かせない条件になっているそうだ。

レヴィ=ストロースは、共同体どうしの間で女性の贈与が行われる例を挙げる。
そもそも共同体が存続するためには他の共同体と交流が必要となる。その交流にかかわる重要な財として女性が選ばれるということらしい。

マルセル・モースの『贈与論』では破壊的なまでに「贈りつくす」例として北米インディアンのトポラッチを挙げている。
とにかく莫大に贈与することで自己の権力を確認し、相手も更に莫大な贈与をすることでその権力を凌駕しようとする。これは交換ではなく、自己破壊的な贈与なのだ。
モースは、トポラッチが社会的対立を友好関係に解消するメカニズムとして機能しているという。

バタイユは、この富をそもそも共同体の中に貯め込まれすぎたものではないかという。
バタイユの不変経済学によれば共同体の内部に富が過剰に蓄積されると、その共同体は崩壊するという。
つまり、トポラッチは共同体が壊れるのを防ぐための知恵なのだ。

クラストルも『国家に抗する社会』の中で、トポラッチは自己破壊的に見える行為だが、過剰な富を散逸させることで国家の形成を防いでいると述べている。
メソポタミアの歴史を見てみても、更なる富が増大するにつれ生産性の可能性も向上し、人口も増える。これに対処するために官僚機構が成立し、法や軍隊が形成され、ますます抑圧的になる。

デリダは、贈与が贈与として与えられた瞬間、それはもう何らかの対価を暗黙に要求する交換になっていると指摘する。
贈与が贈与として認識された瞬間に、その意味を変質させるアポリアとなっているのだ。
しかし、本当の贈与はあるとデリダはいう。
それは「語る」ことだそうだ。私達が会話を交わす事そのものの背後に、自分が相手を人格として認め、相手は自分を人格として認めるという無償の贈与が行われているということだ。

レヴィナスは『存在するとは別の仕方で』の中で、この無償の贈与が「挨拶」という形をとるといっていた。


疎外と物象化

疎外には2つの面がある。
1つは、自己を他なるものにすること。
もう1つは、自己を外部に表現することだ。

例えば、言語を使うことは自分を表現することだけど、言語はそもそも他人がつくったものだ。
だから、その言語を使えるようになるには、1度自分を失う必要がある。それが疎外だ。

ヘーゲルは労働についても同じように、人間は欲望を直ちに満たすのではなく、いっとき先送りして将来の収穫を目指して働く、という。
疎外は人間が労働したり自己を表現したりする限り、必ず発生するものだ。
つまり、疎外された自己だけが本物の自己だという示唆がここにはある。

マルクスは、人間が自己を表現するのは労働においてだというヘーゲルの考えを引き継いだが、範囲を大分せまく限定した。労働を資本主義的な生産活動だけに限ったのだ。
そのため、マルクスの哲学的課題は人間の本質を奪い返すためには革命しかないということになる。

物象化についても2つの面がある。
1つは、人間が物になる。
もう1つは、物が人間のように振る舞いはじめることだ。

ルカーチの思想では物象化が極端に現れるのは労働の現場だそうだ。
人→物については、生産を合理化できるよう労働者の労働プロセスが細分化され、分業化され、機械的な反復作業になる。また、労働者の人間的な個性が、機械的な生産にとって利点じゃないため「単なる過ちの源泉」になることだ。
物→人については、人々の間の流通という関係そのものが「価値」として物象化される。端的にそれが現れているのが貨幣だ。単なる交換の尺度として使われていた貨幣が貴重な財産としてあがめられるようになった。これは物象化によって人が物のような客体になったことで、それまで客体であった貨幣が価値を担う主体として機能し始めたということだ。
トーテミズムのように、社会的な結びつきを象徴する記号でしかなかったものが、逆に人間の結びつきそのものを支配し、崇拝されるようになったのだ。

「手書き」の魅力とは?―――『「書」を書く愉しみ』を読んで

「書」の魅力について書かれた本。
著者は武田双雲書道家)。
光文社新書
2004年、第1刷。



1.書くことについて

デジタル技術の発達により現代社会では手紙を書くことが減り、電子メールなどが増え「手書き」よりも「デジタル書体」の方がこのまま増え続けるだろう。
情報を大量に配信でき、人間同士のコミュニケーションも広がりはしたものの、それと同時に薄っぺらくなという印象も受ける。
しかし、著者は人間が人間である限り「手書き」は無くならない。こういう時代だからこそ手書きの文字が重要になってくるという。

1人1人に想いを込めて、丁寧に書くという手紙のようなものだからこそ、字の上手い下手にかかわらず受け取ったとき嬉しくなるはずだ。
手書きの字には臨場感や温もりといったリアリティが見えてくるのだ。



2.うまい字

1.下手な人にも分かる「うまい」字

字をきれいに書くには「全体のバランス」と「黒以外の部分=余白」が大事だという。
しかし、そう言われても「お手本」のように書けるわけがない。
そこで著者は「絶対に正しいお手本」というものはなく、きれいな字とは曖昧なものだという。
上達のために大事なのは自分が「うまい」と思う字を見つけて練習していくことだそうだ。
では、字が上手くない人が「うまい」字を見つけることができるのだろうか?
著者は出来るという。
字が下手な人でも、漢字を知らない外国人でさえも、その字が上手いかどうかは判断できるそうだ。

もちろん、書のプロが見る細かい部分までは見えませんが、本来人間に備わっている、物を美しいと判断する能力さえ発揮すれば、誰もが自分の判断基準で字のお手本を選ぶことが出来ます。
(P.18)

2.「字が上手い競争」

著者が開いている教室やワークショップでは、参加者にお手本なしで字を書いてもらい、自分以外の作品で最もうまいと思えた作品を1つだけ選んでもらっている。
そうすると何度やっても1人~2人の作品に票が集中するのだそうだ。
このことから誰でも上手い字を認識し判断することは可能だという。

3.「下手な字競争」

今度は逆に下手な字を書いてもらうゲームだ。
わざと下手な字を書くためにバランスをくずしたりするのは意外と難しく頭を使うことだそうだ。
下手な字とはどのようなものか?どのような字を人は下手だと認識するのか?など新しい視点で字を見ることが必要になる。
そのことによって字の上手さについてもより深く理解できるようになるのだそうだ。
こういう逆転の発想は面白いと思う。

3.よい字

1.「うまさ」ではなく「よさ」

上手い字であれば歴史に残るのかというと、そうではないらしい。
何となく下手な字でも「よい」と評価されてきた書はたくさんあるそうだ。
その代表的な1人は良寛だ。
決してうまいとはいえないが、今でも絶大な人気があるという。
うまさ、技術、テクニックとは別のところに答えがあるようだ。
その答えは「書は人なり」という言葉にある。
つまり、手先だけでなく良寛の書にはその生き様や人生観がそのままにじみ出ているのだという。

2.「臨書」の落とし穴

臨書とは語弊があるかもしれないが簡単にいうと「お手本通りに書くこと」だ。
様々な段階があって、

①形だけを模倣する「形臨」

②作者の性格や生き方までも模倣しようとする「意臨」

③その書風を他の作品にも応用していく「背臨」

④臨書から影響を受けながら、自分の個性で書き上げていく「創作」

まであるそうだ。

ただ、気を付けなければならないのは、他人の作品を模倣することが最終目標になってしまうことだ。
目的と手段が入れ替わってしまってはいけない。

3.義務やルール

書き順やとめ、はね、はらい、など様々なルールがある。
そのような「~せねばならない」という義務に縛られすぎると、書くことの楽しみや好奇心がなくなってしまう。

書き順などは国や時代によっても変わってきたようで、中国では「右」は横画から書くことに統一されているそうだ。
日本では縦から書くことになっている。

書き順とは本来「書き易さ」から決まるものだと著者は考えており、それは人それぞれの感覚によって異なる曖昧なものだという。
実際、日本でも時代によって書き順が違っていたり、現代でも辞書によって違った説明がなされていることがあるそうだ。

著者は、単に義務やルールを否定したいのではなく、それを乗り越えていくのが面白いという。

矢のように降り注ぐ圧力とどう向き合うかでその後の書人生が決まってくるわけです。もし、ルールやプレッシャーがゼロだとしたら、こんな面白くないものはありません。
真の自由とは、束縛から解放に向かう、そのプロセスに存在すると私はかんがえます。書は、この自由と束縛のせめぎ合いのゲームを最初から最後まで味わえるという贅沢な世界なのです。
(P.65)

4.時代と書体

1.流れに逆らうから面白い

デジタル時代にアナログ
カラフル時代に白黒
立体時代に平面
ビルやコンピュータ等のハード時代に柔らかさ
複雑時代にシンプル
大量生産時代に1点もの
均一時代に個性

このように時代の進んでいる方向とは真逆にある。
過去の人達が積み重ねてきた知識や技術があって初めて書がある。そこに感謝しながら書を味わうことが今の時代を見つめる新しい視点になるのかもしれない。

2.何にどう書くか

時代や国によって、文字は粘土や、亀の甲骨、青銅、竹簡や木簡などに刻まれてきた。
その材質によっても角ばっている書体や丸みを帯びている書体など適切で独特なものになっている。

竹簡や木簡は1行1行が分かれていて縦長なので、字形を横長にした方が1行にたくさんの文字が書ける。
隷書が横長になっていったのは、そのような事情によるのではないかとも想像できてしまう。


3.手書きの「覚悟」

手書きの欠点は進むスピードが圧倒的に遅く、編集がしにくいので効率が悪いことだ。パソコンではコピーや削除、入れ替えなどが一瞬でできてしまう。
しかし、この便利ないつでも編集可能だと思って書き進めることと、書きはじめたら後戻りはしないという覚悟をもって進めることは、文章の1字1字に加わるパワーが変わってくるだろうと思われる。


5. 美意識

1.かなの余白美

かな作品の特徴として最も特徴的なのが「余白美」である。
日本人にとって、余白というのは単なる空白ではなく、そこに必ず意味が存在している。
中国にも余白を十分に意識している作品はあるが、かな作品のような余白を遊んでいる作品は見受けられないと著者はいう。

2.あいまいさの美学

かなの筆と墨と紙で書く「書」には、線の太さだけではなく、かすれ方や色まで日本人独特の感性が入りこんでいる。
このあいまいさにある種の美学が感じられると著者はいう。

先日、あるテレビ番組で音楽プロデューサーの松任谷正隆氏と対談させていただく機械がありました。氏がとても興味深いことをおっしゃっていました。「そもそも音符なんてものは存在しないのです。音というのは波のように絶えず流れているのです」
この言葉に、今までしつこく申し上げてきた「あいまい」をかんじませんか。
(P.113)

日本のひらがなの連綿(つながった字)は、素人ではどこが字と字のつながりか分からないくらい「つなぎ」の線があいまいになっている。これも日本人が持つ独特なあいまい性が反映されているといえるだろう。
また、中国語は1つ1つの漢字が独立して意味を成すが、かなは1つ1つでは意味として成り立たない。そういう日本語の言語体系が連綿を生み出した原因の1つとも考えられるのではないかと著者は主張する。

6.道具

紙、筆、墨、硯を文房四宝という。

1.紙の種類

中国でつくられる紙を「唐紙」、日本で作られる紙を「和紙」という。

原料の違いだと、
蔡倫の流れをくむ「麻紙」
自生している楮(こうぞ)を使った「穀紙」
自生しているガンピを受かった「雁皮紙」(厚く漉いたもの「鳥の子」と呼ぶ)
栽培された三椏(みつまた)を使った「三椏紙
などがある。

これらは必ずしも値段と質が比例するとは限らない。
何を選ぶかに正解はないので、とにかくいろんな紙と出会うことが大切なのだと著者はいう。

2.筆の種類

基本的には動物の毛を利用しているようだ。

馬、狸、イタチ、鹿・・・剛毛といわれ固い。墨含みはあまりよくなく、力強い線に有効。
羊、猫・・・柔毛といわれ、柔らかい。墨含みがよく、ふくよかな線に有効。

また、兼毛といって2種類以上の動物の毛を使用している筆もあり、使いやすさを考えると初心者はこちらから始めるのが良いとされている。

筆の持ち方にも種類があり、筆軸の前方に持ってくる指が人差し指1本か中指も合わせた2本かで「単鉤法」「双鉤法」と呼ばれるものもある。

3.墨の種類

液体墨ではなく固形墨についていうと、

原料は「水」と「膠(にかわ)」と「煤(すす)」と「香料」からなる。

墨には以外にも20%も水分が含まれているらしい。
膠は動物の皮から取り出したゼラチンを主成分とししてる。
煤には「松煙墨」と「油煙墨」がある。
香料は膠の臭みをとるために加えられる。梅花や甘松末、白檀、竜脳が昔は使われていた。柔らかい香りが心を落ち着かせるそうだ。

湿度や寒暖によっても磨墨液の違いが出るたり、磨るときの力の具合で粒子の粗さも変わってくるのだ。
そのことによって色がのっぺりと均一にならないため味わいがでるという。奥が深い。

また、「端渓硯」という広東省の高要県からとれる高級品もあるらしい。


7.書くときのコツ

1.力を抜く

以前、サックスプレイヤーのナベサダさんこと渡辺貞夫さんにお会いする機会があり、次の質問をぶつけてみました。
「演奏するときに気を付けていることは何ですか」
するとこんな答えが返ってきました。
「いかに力を抜くかということ」
(P.162)

ただし、普段の生活でだらだらしている人が本番で力を抜いても、よいエネルギーはでないということは心に留めておかなければならない。


2.練習の裏技

練習する前や後に、道具を用意したり筆を洗うなどの手間や時間をかけられない人は多いだろう。
そこで著者が提案するのが「水道書道」である。

そういう時におすすめなのが「水道書道」。特殊な素材の紙に水をつけて筆で書くと、黒い線が出てきて、本当に墨で書いている時と変わらない状況になります。4、5分経つと線は乾いて消え、何度も繰り返し使えます。
(P.163)

3.「にじみ」と「かすれ」

「にじみ」と「かすれ」は、多少あったほうがメリハリや立体感、スピード感が出て味がでる。しかし、やりすぎは禁物だ。
これは、墨が温度や湿度、紙の質や筆の質によっても変化するので制御不可能な領域でもある。
古典作品の「にじみ」と「かすれ」を見ることが大いに参考になると著者は薦める。
練習や経験を重ね、無意識として身体の暗黙知にまで落とし込むことも大事なのかもしれない。

生物時計とは?―――『時間の分子生物学』を読んで

生物時計の仕組みを遺伝子などの分子レベルで分析した本。
著者は粂和彦(分子生物学者)。
講談社現代新書
2003年、第1刷。


1.共通の生物時計


地球上で昼と夜などの環境の違いは生物に大きな影響を与えてきた。
そのため、1日の変化に上手く対応することが生存を有利なものにする。
淘汰を潜り抜けてきたほとんどの生物たちの遺伝子には、24時間の時を刻む能力が書き込まれているという。
これが生物時計だ。

この生物時計に関して、人とショウジョウバエは、ほとんど同じ遺伝子を使っているという。
哺乳類と昆虫類が系統上で分岐したのは7億年以上前だといわれているので、共通の祖先はすでに同じ遺伝子を使った生物時計が備わっていたようだ。


2.サーカディアン・リズム(概日周期)

サーカディアン・リズムとは1日単位のリズムのことをいう。
この本のメインテーマもこれだ。

それ以外にもウルトラディアン・リズム(24時間より短い周期)やインフラディアン・リズム(24時間より長い周期)などもあるようだ。
数時間単位ではホルモンの分泌、数秒単位では神経細胞の活動や心臓の鼓動、数ミリ秒単位では細胞膜にあるチャネルの開閉がある。
長い方だと、女性の月経周期などがあり、人間は月単位だが実験用マウスなどは数日単位、他の自然界の動物だと季節単位などもあるようだ。


3.生物時計の4条件

1.自律的に動くこと

外部環境からの刺激ではなく自動的に時間を刻む能力が求められる。

2.外から調整できること

本当の時刻とズレた時、それを合わせ調整していく能力が必要とされる。

3.周期が24時間であること

概日周期と一致している必要がある。

4.環境変化(温度など)に対しても周期が安定していること

特に、変温動物は周囲の環境によって体温が変化してしまうので、それに対しても周期は安定していなくてはならない。これは温度補償性などとも呼ばれる。

環境(温度)は生体内の化学反応に大きく影響を与える。
例えば、ショウジョウバエの場合、25度→18度に変えるだけで卵から成虫にかえるまでの時間が10日→20日に変化してしまう。
しかし、どちらの温度でも生物時計の働きによって、ショウジョウバエの1日が約24時間であることは変わらない。


4.生物時計のメリット

ショウジョウバエや蝉や蝶など、明け方の早い時間に羽化する。これは時間をかけて羽を伸ばす無防備な状態なので、外敵が少ない時間を選んでいるのだが、羽化のためには数時間前からホルモンが分泌されなければならない。
夜の暗い状態では環境からの刺激を時間を知ることができないので、このときに役立っているのが生物時計なのだ。

ニワトリが早朝に鳴くのも、微かな明かりを感じ取っているのではなく、生物時計の働きによって時刻を知っているのだ。実際、雲が厚くかかった非常に暗い朝でもちゃんと鳴くことが確認されているらしい。

また、生物時計を使って、1日における昼の長さや夜の長さの変化から季節を知ったり、太陽の方角を基準に生物時計を使って移動する方向を決める生物もいる。


5.細胞分裂後も引き継がれる時刻情報

シアノバクテリアなどは1日の間に数回も細胞分裂を行うので、24時間という概日周期と関係なく生きているように見えるが、そうではないらしい。
名古屋大学の近藤孝男・岩崎秀雄のグループの研究では、シアノバクテリアは概日周期を持っており、しかも細胞分裂を経た後の娘細胞にも時刻の情報が引き継がれるということを発見したようだ。
おそらく、日中は光合成を行い、夜間はアミノ酸のもとになる窒素固定を行うということを効率良くするために、概日周期を必要とし、また細胞分裂した個体にもそれを引き継ぐ必要があったと考えられる。


6.概日周期の中枢

哺乳類の場合、脳の中の視床下部にある視交叉上核(SCN)という直径1ミリ~2ミリの小さな場所が概日周期の中枢だそうだ。神経細胞が1万個ほど集まって出来ている。

視交叉上核から取り出した神経細胞を培養し、電気活動の変化を調べたところ、単体で24時間のリズムを刻んでいることが分かった。
ただし、完全に独立しているわけではなく他の神経細胞と同調するため1個の神経細胞の刻む時間がズレても、ちゃんと調整される機能が備わっているようだ。


7.時刻を調整する刺激

生物時計を調整する刺激でもっとも強力なのは光だ。
光による調整では時刻を進めることも遅らせることもできる。

ちなみに、昔いわれていた人の1日の活動周期は25時間説だというのはどうやら間違っていたらしい。
自分の意志で明かりをつけることが許されていたアドリブ実験だったため、その明かりが影響して25時間になったそうだ。
1999年にサイエンス誌に発表された論文にでは、完全に外部からの影響を除いた環境下での実験では、ほぼ24時間となった。個人差も30分以内だったそうだ。



8.遺伝子が規定する

1.発見

18世紀にド・メランが、ミモザ(オジギ草)では歯の日周運動が日航のない状態でも24時間周期で続いていることを発見した。

動物としては、1971年にはベンザ―とコノプカが概日周期に遺伝的な異常のあるショウジョウバエを発見し報告している。

2.発現の流れ

DNA→転写→mRNA→翻訳→タンパク質(アミノ酸の連鎖)

転写の際には、不要な切り取られる部分(イントロン)と必要な部分(エキソン)が選ばれてmRNAとなる。
この切り取ったり切り捨てたりする作業をスプライシングという。

3.生物時計の部品(遺伝子)の発見

長いゲノムDNAの中から、ある1つの遺伝子を取り出すことをクローニングという。

また、染色体上の場所を頼りに原因の遺伝子を見つけ出す方法をポジショナル・クローニングという。


見つかった遺伝子は、それぞれピリオド、タイムレス、クロック、サイクルなどだ。

遺伝子は○○だと言うと簡単に聞こえるが、その発見は険しい道のりである。ピリオドに関して述べると、
まずは、「変異」が見つかったのだが、これだけだと概日周期の病気を見つけただけにすぎない。
コノプカはこれをピリオドと名付けたが遺伝子までは特定できていなかった。
その後13年たって遺伝子が特定され塩基配列が分かったが、その機能までは解明されていなかった。

このように「変異(病気)の発見」→「遺伝子の特定」→「機能の解明」が必要になってくるのだ。


9.生物時計の仕組み

1.タンパク質の量の増減

生物時計で時刻を刻んでいるのはタンパク質の増減である。
ピリオド・タンパク質の量なども24時間周期で増えたり減ったりしており、この増減によって時間を知っているのだ。
しかし、現在のところ何故すべての生物がタンパク質の量で概日周期を刻んでいるのかは分かっていないそうだ。


2.ホメオスタシス

生物は体内環境を一定に保とうとする性質を持っている。
これをホメオスタシス(恒常性)という。

体内であるタンパク質が増えすぎると、そのことが感知され、今度はそのタンパク質を減らす仕組みが作動し始めるのだ。このような制御機構をネガティブ・フィードバックという。
例えば、原料Aが酵素Cを触媒として化学反応し、産物Bが産生されると今度は、その増えすぎた産物Bが酵素Cに働きかけ抑制してしまうなどである。

このように、生物時計の部品(遺伝子)Xから合成されたタンパク質が、部品(遺伝子)X自身の転写を抑制するように働き、24時間周期での増減を作り出している。


3.生物時計の部品(遺伝子)の比較

転写を抑制
ピリオド(ショウジョウバエ)=ピリオド1、2、3(マウス)
タイムレス(ショウジョウバエ)≠クリプトクローム(マウス)

転写を活性化
クロック(ショウジョウバエ)=クロック(マウス)
サイクル(ショウジョウバエ)=BMAL1(マウス)


10.生物時計と睡眠

生物時計と睡眠には強い関係があると予想されるが、ショウジョウバエなどの実験動物では、どの状態が「眠り」なのか判別することが難しい。
ショウジョウバエにも脳はあるが小さすぎるため人でやるように脳波を調べることが困難なのだ。
そのため基準を決めるところから始めている。

1.睡眠

1.自発的・随意的な運動の低下や消失
2.外部からの刺激への反応性の低下
3.種によっての特徴的な姿勢
4.揺り動かすなどで覚醒状態に戻せる(可逆性)
5.睡眠をとる一定の場所をもつ(帰巣性)
6.睡眠の必要量の恒常性
7.睡眠の必要量は概日周期によって制御されている

これらを踏まえて、ハエの生物時計に影響を与えない赤外線をしようした装置でハエの行動や睡眠を観察する。

2.断眠

刺激を与えて睡眠を妨げる操作を断眠というが、ある遺伝子を失ったハエを12時間ほど断眠しただけで半分くらいの個体が死んだということが確かめられている。この遺伝子は「サイクル」であった。

3.哺乳類とショウジョウバエの比較の難しさ

哺乳類には覚醒状態(意識)とノンレム睡眠(深い眠り)とレム睡眠(浅い眠り)があり、それぞれ脳の異なる部位が司っている。
しかし、著者の仮説によると下等動物では覚醒中枢のオンとオフしかないという。
ハエなどの睡眠(じっとしている状態)は、この覚醒中枢がオフになっており、これを「原始的睡眠」と呼んでいる。

高等動物の場合は大脳が発達したため、じっとしている時間を積極的に他の目的に使うことにした。
覚醒中枢の働きが落ち原始的睡眠状態になっている間に、大脳の休息をしっかり取るために別の中枢を使って、積極的に脳を休めるノンレム睡眠をしたり、脳の中で何らかの別の機能を行うレム睡眠を作り出したのです。ハエの研究者としては残念ですが、哺乳類はハエに真似できない高等な睡眠をしているとも言えます。
(P116)

高等動物とは違うので脳波を観測できない。そのため動きを見るのだが、「眠っていること」と「動きを止めていること」の境界線はあいまだという。
現在のところ行動学的な類似点から眠っていると判断しているようだ。

しかし、人の睡眠を理解するためにハエの睡眠の研究が全く役に立たないというわけではない。
著者の発見した遺伝性の不眠異常をもったハエの個体の観察から、ドーパミンの働きが異常に強くなっていることを発見したことなど、人の睡眠・覚醒の調節に一役買っている物質という共通点などもある。
ショウジョウバエの睡眠の研究から学べることはまだまだあるようだ。今後の研究の進展が楽しみだと言える。

言語・消費・審級・身体・真理―――『思考の用語辞典』を読んで③

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



言語


言語がほんとうに哲学の問題になってきたのは最近の事らしい。
それまで、言語は「思考の正確さをそこねながら伝える」手段と考えられてきた。
私たちは思考を他者に直接伝達できないから、やむを得ず言語という道具を使う。そして、思考そのものに誤りがなくても、言語によって思考を伝達するプロセスで誤謬が発生してしまう。

このような考え方が転換したのはドイツ観念論、とくにヘーゲルの頃からだそうだ。
言葉は自己を外化し、物にする契機だとヘーゲルは考えた。言語は思考を歪めて伝えるものではなく、社会で公共的に使われているものだと認められた。
しかし、まだ哲学の中心的なテーマは「意識」におかれていた。

現象学での「自我」というのは「弱い独我論的な自我」のようなもので、それをもとに考える。そこでも出発点はまだ意識である。

でも、1960年代頃から変わって来て、メルロ=ポンティは言語を、人間の思考そのものを可能にする媒体だと言った。
語ることは、観念を表にあらわすことではなく、言葉の意味を生きることだという。
それは言葉を使って他者と交流することで自らの存在を変形させることだ。言語は私達の思考の<身体>である。

ウィトゲンシュタインは、言語こそが1次的なもので哲学の問題はつねに日常の言葉の使い方に立ち戻って考えるべきだという。
言語の外に思考や表象のようなものがあるのではなく、すべてが言語としてはじめて可能になるのだ。

ガダマーは、ハイデガーの「世界内存在」の考えを進めて、世界内存在とは人間が言語のうちに存在することだという。
言語はただの道具ではなく、人間はいわば<言語内存在>みたいなものなのだ。

ラッセルとフレーゲは、ウィトゲンシュタインとは逆を考えていた。日常言語はつねに不完全であるから、これを改良して理想的な言語を作り出すべきだと。

オースティンの言語行為論と、それを引き継いだサールは、言葉の意味を、その内部にある意味だけじゃないと考えた。つまり、言葉は使われる現場によってさまざまに異なる意味を持ち得る。


哲学の瘤のような空虚な概念は、言語についての誤解から生まれたと考えられている。
そして、この問題を解消させるために
①明快で透明な論理構造をもたせる

②詳細な日常言語の分析を行う

③そうすれば、問題は解消するに違いない

哲学で言語のはたす役割を重視する立場には、このような流れがある。
しかし、これで問題を解消しても、また別のところに「瘤」ができるのかもしれない。




消費


消費という概念が哲学で問題になりはじめたのは資本主義社会が成立してからだったが、マルクスの『資本論』では消費の問題を十分に取り上げていなかった。
マルクスにとっては生産こそが資本主義のかなめだったからだ。

しかし現代社会ではかなめとなるのは生産ではなく消費だ。

消費者が支出を抑制→生産活動が停滞→経済が行き詰まる

現在の課題は、人間の欲望の自由は認めながら、どうやって「抑圧の少ない社会」に変えていくかということらしい。

ラカンがいうように、人間の欲望は自制的なものではない。他者の欲望の欲望として形成されるものだ。
人間の欲望には本来、空虚なところがあってシュミラークルとしてしか成立しないようなところがあるのだろう。

ボードリヤールは、消費社会で人々の欲望は人為的に作り出されたものだという。
この社会では欲望と消費のゲームが根本的な原動力になっていて、これなしでは社会は成り立たない。
現代の消費社会では財や物がコミュニケーションを目的に交換されているそうだ。

バタイユは消費を負の活動としてとらえるのではなく、システムの「呪われた部分」を燃やし尽くし、帳消しにする積極的な行為として考えている。
産み出された過剰な富は、社会そのものを破壊するような戦争や殺戮を作り出す。だから適切な方法で「廃棄」しなければならない。
「労働する人間」がやみくもに作り出す事物が、逆に人間を自然との一体性から疎外することになる。
この疎外を打破するのは社会の変革ではなく、供犠や破壊や贈与、過剰な消費、エロスなどの力で人間がその「内奥
」との一体性を回復するしかない。



審級


審級という耳慣れない言葉はアリストテレスの『分析論前書』の「相手の前提に対立する前提としての異議」をラテン語に訳すとき使われたのがはじまりらしい。

哲学ではある議論に対し、違う前提から別の議論を退治させる場合「別の審級の問題と考える」という。
つまり、審級という概念は、議論の正しさそのものじゃなく議論の正しさを調べる「場」を問題にしているのだ。

審級という考え方が場より裁きのイメージで使われるようになったのはカントからだ。
宗教の問題を哲学という審級で扱うには限界があるし、この問題については良心の声みたいなものが最終的な審級になると言ったようだ。
つまり、哲学とは場を分けるべきだということらしい。

フロイトは、人間が自分の認めたくない欲望を検閲するメカニズムとして審級という概念を使う。
第1の審級で、夢に登場していいものとそうでないものをふるい分ける。
第2の審級で、夢に登場したものを自分の望ましい形に変えさせる。
この検閲する審級が超自我である。

アルチュセールは最終審級論をとりだしてきた。
社会で発生した問題を考えるには経済の審級で考える必要があるという。しかし、同時に政治制度や習慣、芸術や哲学などの審級も無視すべきではないそうだ。
1つの問題は1つの層だけで決まるものではない。様々な審級で重層的に決定される。
でも、そのうちの1つの層が決定的な意味を持ち、それが経済というわけだ。
これは単純な経済決定論ではなく、重層する審級どうしの弁証法的な関係を言ったのだと強調していたようだ。


身体


哲学の営みは「死の稽古」だ。身体はつぎつぎと脱ぎ変える衣装のようなものだから、死を恐れることはない。
プラトンの描いたソクラテスはそう語った。
プラトンピタゴラス派の伝統に従って身体を精神の「牢獄」と呼んでいた。
けれど同時に身体はイデアへの道にいたるための欲望の棲み処であると考えていた。

この両義的な考えは、後にデカルトの心身2元論の道を開いた。
デカルトはこの心身問題の結び目を脳の松果体にあると見ていた。

ずっと後になって、ベルグソンが例えたように、仮に脳は精神が宿る「座」だとしても、それは帽子をかけておく「帽子かけ」のようなものにすぎない。帽子そのものを帽子かけに還元することは出来ないと言ったらしい。

マルセルが言っていたように、そもそも私達が自分の身体を「所有している」と考えるのは間違いのようだ。

自分が身体を持つ存在だと自覚するには、まず他者の身体は必要になるんだ。
自己の身体にアイデンティティーを持つというプロセスには、実は他者の身体がなければ行えないことなのだという。
ラカン鏡像段階の理論が説明しているように、自己を身体的存在として認識するには、自己の身体像より前に、他者の身体像がなければならない。

幼児は他者に愛撫され、世話され、育てられる中で自己の身体と他者の関係から自分の性格を作り上げている。
これは他者の身体を前提にした相互的な関係だ。
この自己の身体と他者の身体を結ぶ<間身体性>みたいなものをメルロ=ポンティは<肉>と呼んだ。
<肉>によって人々は他者と楽に理解しあえると考えたようだ。
身体を持つことは精神の営みにとって妨げになるわけではない。逆に他者に意志を伝える大事な前提条件を作り出している。
いわば「精神の身体」と「身体の精神」のようなものがあって、それが交差する場で「人間」が成立するのだ。

ブルデューハビトゥスという概念も、この<肉>性を別の視点から取り上げている。
1つの社会に住む人々は、ある共通の身体作法や技法を獲得する。社会の中で習慣となったその作法で、人々は互いに相手がどう振る舞うかを予期できる。
ハビトゥスは1つの社会で文化的な「身体」を築き上げている。

身体によって学ばれるもの、それは人が自由にできる知のように所有できるものではなく、人格と一体になったものである。このことは無文字社会において特に明らかである。こうした社会では伝承された知は身体化された状態でしか生きられない。知はそれを運ぶ身体から分離できないし、特別に知を呼び起こす一種の身体訓練によらなければ再構築できない。
ブルデュー『実践感覚』)


フーコーは、個人が社会で主体として存在するために、身体にどういう「調教」が加えられるかを見た。
そして、身体作法が歴史的で政治的なものとして外部から与えられると考えたようだ。


真理


真理(アレーティア)という語の語源として、プラトンの『クラテュロス』では神的な彷徨(アレー・ティア)が挙げられている。
定説のようになっているハイデガーの語源説によると、忘却されているもの(レーティア)の覆いを取り去ってあらわにするものだという。
これらの語源は古典のテクストじゃ確認できないようだ。語源からして真理とは謎に満ちている。

アリストテレスは、真理は命題に宿ると考え、「ある命題とその対象になる状態が一致すること」だとしたようだ。
更にまた違う真理の概念も考えていて、論理学の推論体系(排中律矛盾律など)は常に真で「魂の内なる言葉」であるという。
18世紀のカントの時点でも、<事実の真理>のほうの命題は受け継がれている。

けれどカントはそこで、真理の「人間学的な転回」をやってのけた。
ある命題が真理かどうかは事実と一致しているかどうかで判断できるが、そもそも、そういう判断が可能で、しかも他者との間でその判断を共有できるのはなぜかを考えたのだ。
カントの真理の概念は、命題の真理という概念から、真理そのものが可能になる条件を考えるという<超越論的な真理>の概念に移行している。

ヘーゲルの真理概念によると、真理は1つの命題で可能になるのではなく、命題が体系をなすことで初めて生まれるのだそうだ。

そして、19世紀の後半にニーチェが現れ、伝統的な「真理」を批判した。
真理は人間という動物の種族が生きるために必要な、ある錯誤のようなものだと指摘する。
人間は、それが錯誤だとしても真理というものの存在を信じざるを得ない種族なのだという。

20世紀のフーコーは、真理への意志が権力で貫かれていると指摘し、真理を「語る」ことの意味を分析した。

このような考察とは別の流れとして、論理実証主義の立場からは真理を、命題の真理だけに還元しようとする動きもあった。
初期のウィトゲンシュタインだと、真理は真理値だけにあり、その外部は「語り得ない」世界だと考えていたようだ。

後にウィトゲンシュタインはこの見方を捨てることになるが、このような試みを続けている人もいる。
タルスキは、真理の問題を、文の術語という観点から分析している。
真理は「・・・とは真である」という術語にすぎず、存在の実相でも体系でもない。
真理は1つのメタ言語的な表現にすぎないのだそうだ。

仏教、イスラム教、儒教―――『日本人のための宗教原論』を読んで②

宗教学的な視点からキリスト教イスラム教、仏教などを中心に分析した本。
著者は小室直樹(法学博士)。
徳間書店
2000年第1刷。



仏教

実体はない

仏教とはブッダ(悟りを開いた者)の教えではない。
法(ダルマ)という道徳法則のようなものだけがあり、これを悟った者が仏となる。
仏教の場合はすべては空である、実体を考えてはいけない。
魂もなければ、地獄も極楽もない。

死んだあと肉体は亡んでも、何か滅びないものが残っている。心のどこかにあるこの希望が霊肉二元論の背景となっている。
バラモン教ヒンドゥー教では、肉体が死んでも、その根底にあるアートマン(本来の自我)という実体を想定した。
このアートマンという実体が生まれ変わり、実在し続けるというのが輪廻転生の思想だ。
仏教は輪廻転生の思想を受け継ぎながらも、その主体であるアートマンは否定した。
魂を否定するというのは「魂」という実体が存在することを否定しているという意味である。


仏教哲学の解説書

難解無比な仏教哲学の手ごろな解説書として著者は三島由紀夫の『豊饒の海』4部作を挙げる。

松枝清顕(第1巻)→飯沼勲(第2巻)→ジン・ジャン(第3巻)→安永透(第4巻)と生まれ変わっていくのだが最後に大どんでん返しがある。
4人を観察していた本多繁邦は、清顕のかつての恋人の綾倉聡子を訪ねると、こう言われてしまう。
「松枝清顕さんという方は、(略)実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか?」
この言葉と本多が大切にしてきた清顕の夢日記を透が焼いてしまったことを的確に理解できれば三島のいっていることが分かると著者はいう。
つまり「魂」の輪廻転生はない、ということを。

仏教でいう地獄と極楽、魂の輪廻転生などは分かりやすくする例え話なのだ。


唯識

唯識とは正しくは「唯識所変」といい、「ただ(唯)識によって変じだされた所のもの」であり、私達の識(心)こそがものごとを作り上げ、決定しているということになる。

唯識論では五識(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識)に加えて第六識として意識がある。
さらに無意識の底まで降りていって我執の正体を見極める。この我執の本体を末那識(まなしき)という。
末那識のさらに奥深くに阿頼耶識という識がある。この阿頼耶識の発見こそが唯識論の最大のものだとされている。
人間が行為(現行)をすればその痕跡が残る。これを種子(しゅうじ)といい、種子は阿頼耶識の中に残って蓄積される。
この蓄積を熏習(くんじゅう)という。
まとめると「現行の種子は阿頼耶識に熏習される」ということになる。



罪と輪廻転生

仏教の「罪」はキリスト教の「罪」とは違う。
キリスト教の「罪」は原罪に根本的原因をもっている。律法を守らないという「神への反抗」から生じたものだ。
それに対して、仏教の「罪」の源は煩悩である。

罪(煩悩)を断じた人は、死ねばそれっきりとなり生まれ変わることはない。罪(煩悩)があるから輪廻転生するのだ。
輪廻転生では六道に転生する。六道とは、天道、人間界、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道である。
つまり、天道のいる仏教の神(キリスト教の神とは違う)ですら罪(煩悩)ゆえに生まれ変わっている。
天人・天上の神といえど、まだ修行中の身であり、六道輪廻から自由ではない。


空は理解しにくい

空観(空の理論)は、形式論理学を否定した1種の超論理学を使っている為に理解することが途方もなくこんなにである。
しばしば「空」のことを「無」と混同された用い方がみられる。
空が虚無と同一視されると、空観を信奉する人をニヒリストだと誤解してしまう。

正解を先にいうと、無というのは有に対立する概念であるが、空はその両者を超えた概念である。
形式論理学でいえば全く在り得ないこの論理が仏教の最も大切で重大な論理なのだ。

これを理解するために『愚管抄』の著者でもある慈円の歌を見よう。

ひきよせて むすべば柴の 庵にて とくればもとの 野はらなりけり

この歌は明快に「空」を説明している。
庵は、あるのか、ないのか。
柴を結べば庵はある。結び目を解けば庵はない。
したがって、庵はあるともいえるし、ないともいえる。
それと同時に、あるともいえないし、ないともいえない。
庵の存在、有無は、「結び」にかかっている。
結べば庵はあるし、結ぶまではなかった。結びを解けば庵はなくなる。
これが空である。
空は確かに無である。しかし、それと同時に有でもある。

結べば有となり「空即是色」であり、解けば無くなり「色即是空」である。


ミリンダ王の問い

ミリンダ王とナーガセーナの逸話も空の理解の見本となる。

「大王よ。もしもあなたが来るまでやって来たのであるなら、何が来るまであるかを告げてください。大王よ、轅(ながえ)が車ですか」
ナーガセーナが問うと、王は「そうではない」と答える。では、軸か、車輪か、車体か。それらの合したものか。それら以外に車があるのか。王はナーガセーナの問いにすべて否と答えた。では、そこに車はないのか。そこに存在する車は何ものか。名前だけのものか。
ミリンダ王はここに来て、空を悟る。
「轅に縁って、車体に縁って<車>という名前がおこるのです」
(P.256)

このように車を車輪などのいくつかの構成部分に分解してみせて、車という実体はないと観ずる説明を「析空観(しゃっくうがん)」という。これは小乗仏教の説く空である。
これに対し、大乗仏教では空のみしか見ていない析空観を「但空(たんくう)」であるとし、一切の事物を空であると見なしながら、同時に空でない面も見る「不但空」、すなわち中道空を明らかにするという。


縁起=因果、因縁=原因

仏教理論の専門用語として、縁起とは、まず初めには因果のことである。
庵という果(結果)は、庵を結ぼうとする人の意志を因(原因)とする。

因縁とは、「因」を直接の原因とし「縁」を間接の原因とする。
庵についての縁は、柴や縄などである。
因縁がなければ、庵は存在しない。因縁によって「結ばれ」たからこそ庵ができて存在するのだ。


ナーガールジュナの「中論」

ナーガールジュナは縁起を「縁によって起こること」と解しているだけでなく、もっと広い論理的な依存関係の意味にとっている。
つまり、単純因果関係ではなく同時因果関係を考えている。

単純因果関係では、A→BなどのようにAがBを決めるということになる。
同時因果関係では、A⇔Bなどのように互いが因となり果となる。両者とも相互依存関係を通して同時に決まる。

諸事物も相互に依存することによって成立しているという「空」の構造である。


イスラム

神髄はひたすら『コーラン』にある

イスラム教は「宗教の戒律」、「社会の規範」、「国家の法律」が全く一致しているだけでなく、ユダヤ教キリスト教、そして仏教を知る上でもこの上ないテキストになると著者はいう。

キリスト教の三位一体説のような曖昧で分かりにくいことはなく、イエスは神ではなく優れた予言者にすぎず、マホメットは最も優れた予言者にすぎない。
神=アッラーはただ一人に決まっていて、三人が一体であるというようなことはない。

また、仏教のように実体を否定するような難解な理論はなく、天国や地獄などを実体的なものとして述べられている。

イスラム教は、ユダヤ教キリスト教を高く評価しているが、最終的な正しい解釈の仕方はすべて『コーラン』にあるとしている。

これをこう信じ、こう表しなさいと具体的に全てが決まっているということが大変重要な点である。


六信

イスラム教では何をどう信じればいいかがはっきりと決まっていて、これを六信という。

第一に神(アッラー)であり、『コーラン』には99の特性が記されている。

第二に天使(マラク)であり、キリスト教と違い天使の位置がはっきりしている。

第三に教典(キターブ)であり、『コーラン』を筆頭に『トーラー』、『詩篇』、『福音書』の4書となる。

第四に預言者(ナビ―)であり、特に重要なのは最後にして最大の預言者マホメットである。

第五に来世(アーキラット)であり、仏教の輪廻とは違って、最後の審判の後に赴く天国と地獄である。

第六に天命(カダル)であり、「天地間のすべてのことは、神の意志による。例外はない」との命題を信じることだ。


五行

イスラム教では勤行(修行)も明確に定まっており、この点もキリスト教とは違う。

第一に信仰告白であり、「アッラーの他に神なし。マホメットはその使徒である」と絶えず口に出して唱えることが定められている。

第二に礼拝であり、毎日5回、決まった時間にメッカの方向に向かって礼拝しなければならない。

第三に断食であり、イスラム暦9月(ラマダン)に1か月間、日の出から日没まで何も食べてはいけない飲んでもいけない(老人や病人、妊婦や旅行中の人などはやらなくてもいい)。

第四に喜捨(ザカート)であり、仏教の喜捨と違ってこれは義務となっている。

第五に巡礼(ハッジ)であり、イスラム暦12月にカーバ神殿を中心に行われる儀式への参加である。


イスラム教ではこれら六信五行をはじめ、『コーラン』に従う行動をとってはじめて信者たりうるのである。


法源

歴史が進展し社会が複雑になってくると『コーラン』の中の用語の解釈や、命令の施行規約が必要になり、細目を補わなければならない。そのため『コーラン』に次ぐ法源がつくられて10まである。

第一法源コーラン
第二法源『スンナ』
第三法源イジュマー
第四法源『キヤース』
第五法源『イスティフサーン』
第六法源『無記の福利』
第七法源『慣習』
第八法源『イスティスハーブ』
第九法源イスラム前の法』
第十法源『教友の意見』

イスラム法の解釈は、この法源の順に従って検討され判断がなされる。
コーラン』以外は十分な理由が存在すれば変更不可能というわけではない。

ちなみに『コーラン』の原著者はマホメットではない。
アッラーの教えを大天使ガブリエルが、マホメットに発信しそれを世に広めたのだ。


聖戦(ジハード)

イスラムには聖戦という教義があり、現世で戦死をすれば最後には天国が待っている。
これは考えるだけでも如何に強力な軍隊になりうるか想像できる。
とはいえ『コーラン』には「騒擾(そうじょう)がすっかりなくなるまでは戦い抜け、しかし向こうが止めたなら汝らも害意を捨てねばならない」とも書かれており、イスラム側から好戦的態度をとることに抑制をかけている。


儒教

官僚制

孔子儒教の祖なのかというと孔子自身も「述べて作らず」と否定している。
つまり、昔の聖人がいったことを総合して述べているだけだと言っているのだ。
しかし、事実上は孔子が作ったといっても過言ではない。原始宗教を受け継いで体系的な宗教にしたのだから。

さて、儒教理解のキーワードは官僚制度である。
儒教の目的とは高級官僚を育成するための教養を与えることで、そのための宗教なのだ。

巨大帝国は官僚制なしではすまされない。


儒学の転換

6世紀末にできた巨大帝国・隋の誕生により大きな転換があった。
それまで推薦で選んでいた官僚を「科挙」というペーパーテストで選ぶようにしたのだ。
そのため貴族などの身分の高い者だけでなく、身分が低くても才能と実力がある者が選ばれるようにもなった。

科挙の転換

15世紀初頭に明の第3代皇帝(世祖永楽帝)が朱子学に基づいた科挙の教科書(『四書大全』『五経大全』)を作ってしまった。
このことにより、文章力や古典知識などの受験テクニックはあるが、決断力や政治力に乏しい官僚ばかりになり大事件が起こるとまともに対応できなくなった。

宦官とのパワーバランス

科挙のみに基づいた官僚制が千年近くも続いたのは宦官とのパワーバランスがあったからだ。
宦官は高級官僚ではないが、その権力と能力は侮れないものがあり、組織としてのヒエラルキーもあり官僚化していた。
この科挙の官僚制と宦官の官僚制の2つが相互にチェックス・アンド・バランシズしあうことによって制度が保たれていた。
しかし、上に示した科挙官僚の堕落により明の時代ではバランスが崩れ、宦官の方が力を持つようになる。

宗教のアウトラインとキリスト教―――『日本人のための宗教原論』を読んで①

宗教学的な視点からキリスト教イスラム教、仏教などを中心に分析した本。
著者は小室直樹(法学博士)。
徳間書店
2000年第1刷。



宗教の定義

宗教を定義することは、実はものすごく難しい。
この本では、マックス・ウェーバーの説をとっている。
その説では、宗教を「エトス(Ethos)」としている。簡単に訳すと「行動様式」つまり行動パターンである。
人間の行動を意識的にであれ無意識的にであれ突き動かしているもののことだそうだ。

アウトライン

啓典宗教と非啓典宗教

宗教は大きく分けると「啓典宗教」と「非啓典宗教」がある。
「啓典」とは最高の教典のことである。
イスラム教における『コーラン』、キリスト教における『福音書』、ユダヤ教における『トーラー』などがそれだ。

この意味での啓典は仏教にも儒教にも、ヒンドゥー教にも、道教にも法教にも、ゾロアスター教にもマニ教などにもない。

啓典宗教は存在論オントロジー)に貫かれているのが特徴で、キリスト教イスラム教、ユダヤ教においては神の存在が最大の問題である。

さらに、啓典宗教には教義(ドグマ)という絶対に従わなくてはならないものがある。
そして、神は絶対であるからドグマや神が「そうしろ」と命令すれば異教徒の殺戮などの<狂信>が発生する。

個人救済と集団救済

例を挙げると

個人救済→キリスト教イスラム教、仏教など。

集団救済→ユダヤ教儒教など。

旧約聖書』で神が救うのはユダヤ民族全体であって、個々の人間を救済しない。
儒教でも徳のある君主が良い政治を行えば経済も文化も人心も良くなり、作物もよく育つ。しかし、個人の救済はしない(孔子の高弟である顔回が象徴的な例)。


天国と地獄

キリスト教、仏教、イスラム教、ユダヤ教儒教、このなかでいわゆる天国と地獄がある宗教をすべて挙げよ。
答えは出ましたか?
正解は、天国と地獄があるのはイスラム教だけである。
(P.60)

どの宗教にも天国と地獄はありそうなものだが、何とイスラム教にしかないそうである。
キリスト教の文学作品には出てくるが、キリスト教自体が説いたものではないようだ。
神の国」も天国ではなく、この世がそのまま神の国になるのだそうだ。

仏教の場合だと、地獄や極楽も含めてすべてが仮説であり、例え話として伝播したものがイメージとして独り歩きした部分もあるという。


終末論

仏教では、罪がある限り人は輪廻を繰り返す。悟りを開いた人だけが涅槃に入り、もはや輪廻しないのだ。だから生まれ変わることもない。

キリスト教では、救われない人は「神の国」に入れず消滅してしまう。救われた人は永遠の命を得る。

仏教とキリスト教ではまったくの反対である。
キリスト教においては永遠の死とは最大の罰であるのに、仏教においては永遠の死が最大の祝福の状態となる。


規範の一致

イスラム教は「宗教の戒律」と「社会の規範」と「国家の法律」が全く一致する。
そのため、宗教学的に宗教の事を理解しようとすると1番よい見本となると筆者はいう。



神の命令のみに生きるキリスト教

まず神がある

キリスト教とは、まず神があり、その神の教えが法である。
それに対し仏教は釈迦の教えではなく、まず法(ダルマ)があり、それを発見し広めたのが釈迦である。

いわば、キリスト教は「神前法後」であり、仏教は「法前仏後」である。


原罪

アダムとイブが神の命令に背き、禁断の木の実を食べた罰として楽園から追放され労働せねばならなくなり、永遠の命を否定され土に還ることになった。その子孫である全人類まで連帯責任を負っている。

パウロの説では「キリストは、その罪を全汁いに代わって一身に負うために降臨した」となっている。

そこで疑問が2つ出てくる。

①キリストは、なぜ他人の罪まで負うことができるのか?
②罪が赦されたとすれば、人類は死ななくなるのではないか?


①に関しては、救世主の贖罪死によって、無条件、無限な愛(アガペー)が発動されて原罪が赦された。
これは第2イザヤの「苦難の僕(しもべ)」に基礎を置くものだという。


②に関しては、人の死は仮の姿であり、肉体は朽ち果てるが最後の審判のときに神が完全な肉体をくださるということだ。
最後の審判で有罪が下ると永遠の死となる。これが「本当の死」だ。


予定説

予定説とは、誰が救済され誰が救済されないかは、もう決まっているというものだ。
これは人間の論理でみると、理不尽にも見える。なぜなら、今からどんなに善い行いをしようとも悪い行いをしようとも、救済されるかどうかに影響を与えないからだ。もう誰が救済されるかは決まっている。

これを理解するのはキリスト教徒でも難しいらしい。
理解のためのポイントとなるのは、予定説では「人間の意志の自由を認めない」というところだ。

5世紀の初め、ペラギウスが意志の自由を主張し、アウグスティヌスと論争になった。
結局ペラギウスは弾劾され、神の意志のみを絶対視するキリスト教では人間に自由な意志を認めないのだ。
つまり、善い行いをする者も悪い行いをする者も、神を信じる者も、信じない者も、本人の自由な意志でそうしているのではなく、神が予めそのように決めていたという理屈らしい。



神義論

神義論とは、神が義であることを証明する理論。神の義(ただ)しさを弁証する方法という意味だそうだ。
ウェーバーは神義論を完全に解決したのはヒンドゥー教キリスト教であるといった。

善人が辛苦にまみれた人生を歩んでいたり、悪人が安逸をむさぼっているような現実についてもこう答える。

恩恵を与えて救済するか、恩恵をあたえないで救わないかは、神の自由な選択による。神に選ばれるか選ばれないかは、人間には少しの関係もなく、如何ともすることは不可能なのである。というこの予定説によれば、義人の苦難も悪人の栄えも、神がかくのごとく決めたもうたと説明できるので、神義論として完璧なのだ。
(P.110)

神の意志は、人間ごときの倫理観や論理では推し量ることができないということだろうか。
理屈として筋は通っていても心情として納得するのは確かに難しいものがあると思う。


キリスト教に戒律はない

福音書』に記された神の命令は、すべて人間の心の持ち方、考え方、心構え、良心に対する命令であって、外面的行動に関する命令はない。

外面的行動であれば規範を守ったか守ってないかが客観的に分かるが、内面的規範は守ったか守ってないかがはっきりしない。
神を信ずるということについても「心でただ信ずる」ということであって外面的行動で判別は出来ないのだ。
この点が、同じ啓典宗教でもイスラム教やユダヤ教とは異なっている。

ユダヤ教でもイスラム教でも信仰は重要だが「信仰だけ」ではなく外面的行動によってその戒律を守らなければならない。
仏教でも釈迦が定めた「戒」と、僧伽(サンガ)の「律」を守る必要がある。


ユダヤ教の一派から独立した宗教へ

ユダヤ人から見ると、イエスの律法遵守の仕方は正しくない。律法遵守の解釈は「タルムード」に拠らなければならないが、イエスはそれを尊重していない。

パウロは、律法を正しく守ったからといって神の前に正しい者とされることはないと律法遵守を否定した。というよりも人間はいくら努力しても律法を守ることは出来ない。正しい人は1人もいないと言ったのだ。

人々はみな正道を離れて、腐敗・堕落に身を任せている。善をなす者はいない、ひとりもいない。
(「ローマ人への手紙」第3章 12)

誰も神の前に正しい者とされることはなく、律法はただ、人々の心に罪の自覚を起こさせるにすぎない。
福音書』は、ここまではっきりと書いているわけではないが、この趣旨を分かりやすく意識的に明言したのがパウロである。

このことでキリスト教は、ユダヤ教の一派ではなく、はっきりと独立した1つの宗教となった。
ユダヤ教の異端ではなく、異教となったのだ。



宗教改革は原点回帰だった

中世カトリック教会ではおかしなことに信者たちに聖書を読ませていなかった。
他の啓典宗教である、イスラム教は物心つくかつかないかの頃から真っ先に『コーラン』を読ませ暗記させる。
ユダヤ教でも子供の教育の最重点は『トーラー』を読ませ暗記させることにある。

1つ目の理由は、各国語訳が大分おくれて、その成立はプロテスタントによってなされるまで待たなければならなかったことである。

2つ目の理由は、中世ヨーロッパの民の識字率はきわめて低く、10%にも満たなかったという説や2%以下だったという説まであるという。
それに対し、11世紀のサラセン諸国では、識字率は100%に近く、ギリシア語を解する人までザラにいたそうだ。

このような理由で聖書が読まれていなかった為、多くの人が正しい教えを知らないままだった。
多くの人々が正しい教えを知らないのをいいことに、カトリック教会は自分たちの都合のいいことばかりを民に吹き込んでキリスト教は曲がっていった。

免罪符に憤慨したルターが宗教改革を行ったのは間違いないが、カトリック教会の腐敗はそれよりももっと早くから始まっていたのだ。

ルターの功績は、むしろ予定説への回帰を促したことだろう。
アウグスティヌス派の修道士として徹底的に戒律を守り修行に専念してきたマルティン・ルターは、ついに、修行や善行の積み上げのような行動によって救済に至ることは不可能であるとの真理に到達した。
人間に自由な意志はないのだから善行を行うことはできない。もし行うとすれば、それはすべて神の恵みのおかげである。

キリスト教が近代文明を作った

キリスト教宗教改革で本来の姿に返り、ヨーロッパに広がった。これが近代資本主義、近代デモクラシーの精神の基礎として動き始める。

契約

キリスト教の契約は絶対神と人間の契約であるから、現在使われている「契約」とは意味が異なる。
これは一方的に降りてくる命令のようなもので、いわばタテの契約である。
これを人間同士の対等なヨコの契約に転換することによって近代デモクラシー(社会契約)や近代資本主義(売買契約)が発生していくことになる。

契約は文面だけが問題であって、社会関係(身分の上下、力の大小、仲の良し悪し・・・)によって解釈が変わる約束とは異なるものである。

労働

修道院のテーマは「祈り、かつ働け」であった。
パウロが、この行動的禁欲(大事なことをするために他の事を断念して全身全霊で打ち込むこと)を最高の義務としたことで労働と救済が結び付き、目的合理的な考えを発芽させる契機ともなった。

そして、修道院にあった上記の厳しい規範が世俗にも適用されるようになる。
それを象徴するのがベルーフ(beruf)という言葉だ。
現在では「職業」と訳されるが、宗教的な直訳だと召命(神から与えられた使命、天職)という意味だ。
神が使命として与えた職業義務の思想である。

このことによって行動様式(エトス)が変わった。
経済活動は利己的動機ではなく、神と隣人とを愛するための方法であると信じられるようになったのだ。




キリスト教によって資本主義の精神が発芽したのだった。

価値・還元・換喩・狂気・空間―――『思考の用語辞典』を読んで②

哲学に関する100の概念の内容を説明している本。
著者は中山元(哲学者・翻訳家)。
ちくま学芸文庫
2007年第1刷。



価値

価値とは何か?と問われたときに、どのように答えればいいだろうか。
価値というような根本概念を説明するために「価値」という語を使う羽目に陥ってしまう。
他にも「真理」や「善」を説明しようとすると、どこかで「真なるもの」や「善きもの」についての了解を前提としなくてはならない。
このような概念は互いに循環的な性質や自己言及的な性格をそなえている。

価値(value)はラテン語valorで、これは動詞valereからきている。価するという意味のほかに「能力がある」とか「意味する」という意味をもっている。このような価値という語には「本源的な力」とか「妥当する」という二重の意味があるようだ。

価値という語の二義性についてはプラトンの『クラテュロス』で「言葉そのものに価値があるのか、それともただの記号にすぎないのか」ということが語られていた。そこでは明確な答えはでなかったけれど、ずっと後になってからはっきりと説明を示したのがソシュールだ。

その答えとは「言葉は他の言葉との間の差異の関係のうちだけで意味をもつ」だ。これを「価値」という概念で示した。
その語の価値は、そこ語自体に備わっているのではなくて、ある言語体系の中での関係性によって発生するものだそうだ。
ソシュールは価値を体系とその要素の関係としてとらえた。
価値は実体的に存在するものでも、何かに還元できるものでもないのだ。



還元

還元、リダクション(reduction)は「連れ戻す・ある状態に変える」というラテン語の動詞reducereからきた言葉である。
reの「もどす」には2つの意味がある。
①変化するまえに戻す、元に戻すという意味。
②形作られるよりも前に戻す、要素の段階にまで戻すという意味。

①は削り落とすという還元で、長所はそれまで見えていなかったものが見えるという点だ。
短所は、下刷り落とした部分が見えなくなってしまうという点になる。
例えば、ヒトは人間である前に動物でもある。そこから社会性を削り落としてヒトを見てみると人間に備わっていた社会性によって隠されていたものが見えてくる。だけど、欠点として削り落とされた社会性を見失ってしまう。

②は構成要素にまで分解するという還元で、長所は明晰で厳密な知識が得られる点だ。
短所は、構成要素にまで分解してしまうと元のものとは違う状態になり、全体性を失ってしまうという点になる。
こちらの方の還元は科学の分野でよく行われる。

哲学でよく使われる還元は①の「削り落とす」方だ。

哲学として還元という操作を一番深く追求したのはフッサールだと思われる。
彼は「現象学的還元」と「超越論的還元」の2つを提起した。

でもフッサールがこの操作をわざわざ「還元」とよんだのはなぜなんだろう?世界観の根底には、ある純粋な認識機構が存在しているはずだとかれが考えいたからだろう。還元という操作によって社会的な差異を超越し、すべての人に共通な純粋な認識機構を、意識の「核」としてとりだせるという信念。
(P.128)

意識は還元できるものだとう前提や信念があり、それを踏まえた上で2つの還元的操作を提起したということらしい。

現象学的還元」は人間が世界を認識するときに、それまで素朴に前提されていた世界への見方や世界観などを排除することだ。何かを認識するときに当たり前とされているものを「削り落とす」というわけだ。

「超越論的還元」は現象学的還元をしてもまだ残っている心理的な自我としての要素を更に還元して世界を構成する超越論的な主観性をとりだすものだそうだ。

ただこの還元という手続きには、還元のあとでなにかのこるものがあるという考えをひきだしやすいという問題がある。『イデーン』第1巻の頃のフッサール自身、還元のあとで純粋な自我がのこり、これが超越論的な自我として、現象学を遂行する根拠になると考えていた。こういうものを想定してしまいがちなところに、還元という手続きの落とし穴がある。
(P.130)

この点を指摘したのが晩年のメルロ=ポンティだったそうだ。
還元を行う際にどうしても切り離せないものがあったり、還元そのものの可能性を提供するものがあるのではないかと考えたらしい。それは人間の了解そのものの土台になる「野生」的な領域で、言語的なものだそうだ。

人間の間主観的な領域である「ことば」を十分に考慮に入れず、主体と他者を結ぶ言語の役割を無視して純粋な意識の「核」のようなものがとりだせると思うこと自体に無理があると考えられる。



換喩

換喩は「近いものに置き換える、すりかえの例え」だといえる。
例えば、「やかんが沸く」などと言うとき、実際に沸いているのは水だが私達は普段の生活の中で自然にそういう言い方をしている。

こういうすり替えは論理学にはなじまない。なぜならやかんは沸かないのだから。

とはいえ、そもそも人間の判断の根底には比喩の働きがあるのかもしれない。
ニーチェがいうように、総合的判断は人間の経験的な認識そのものだから、私達の認識は根本的に換喩と誤謬推理でなりたっているようだ。

「これは樹である」といったとき、概念と事物の換喩を行ったことになる。なぜなら樹は人間の認識における1つの分節方法であって、自然のありようと同一だという保証はないからだ。

認識において、言語よりまえに比喩や象徴がはたらいているということをカッシーラーも『シンボル形式の哲学』でいっていたそうだ。

フロイトは精神病の置き換えパターンを分類していたようだ。
ヒステリーは連合による置き換え。
強迫神経症は概念的な類似性による置き換え。
パラノイアは因果関係による置き換え。

ヤコブソンはソシュールの統合と連合の区別に基づいて、統合は換喩のはたらきであり、連合は隠喩のはたらきであるとした。
そうすると人間の語る文は、隠喩によってささえられた言語の豊かな世界の中を、換喩による置き換えの力で進むといえるだろう。

ラカンフロイトの洞察を引き継ぎながら欲望論を展開し、置き換えは換喩によって行われ、圧縮が隠喩によって行われると考えた。
しかし、ラカンフロイトのように換喩が単に意識の検閲をごまかすためのメカニズムとは考えない。この換喩をつくりだすのは欲望の力だと考える。主体はみしらぬ欲望の力に動かされ、正体がわからないものを欲望し、そのものに到達しようとする。でも主体の欲望の対象がないために換喩に頼らざるをえないのだ。


狂気

かつて狂気は神聖なものであったそうだ。少なくともプラトンの時代には両義的なものだったようだ。
プラトンにとって詩人とは一種の狂気によって神と交流する通路をもった存在だったらしい。
狂者のふるまいは、中世までだと、ある社会においては予言者や集団のリーダーの素質とみられることがあったようだ。
しかし、近代に入ると理性が良いものとして尊ばれる一方で、狂気は悪いものとしてその地位を落としていった。

フーコーは、狂気が文化的な現象であり、その社会の歴史と伝統によって何が狂気で何が狂気でないのかが決まると考えた。
近代西洋哲学では理性的でないものを排除することによって、狂気は理性の他者として「心理学的な地位」を得たという。
フーコーの視点からは西洋哲学において普遍的なものだと考えられてきた絶対的な理性のようなものが無いということや、それがある歴史性のもとで、ひとつの地方的区分の結果として生まれたものだったということを明らかにした。

フーコーとは違う視点からバタイユこう考える。
理性が思考するためには、自分の外部に排除せざるをえないものがある。でもそれを狂気と考えることはできないと。
狂気は理性そのものに棲みついているのかもしれない。

フロイトは誰もが、ある程度は精神疾患と倒錯をかかえているという。
しかし、フロイトは「なぜ狂気が発生するのか」と考えるのではなく、逆に「なぜ私達は狂者にならないのか」と考えた。

ドゥルーズフロイトを引き継ぎつつも批判する。
精神分析の理論は主体の欲望を吸い上げ、社会的な秩序へと収斂させてしまうと。



空間

現代で空間というと抽象的で均質な科学的空間を考えてしまうが、実は、この空間概念はかなり新しい考え方らしい。

原子論を提示したデモクリトスは、空間を原子運動が可能になるための条件として「空虚」を考えていたようだ。

プラトンの空間は、事物を存在させる母胎のようなものとして想像していた。『ティマイオス』ではイデアに基づいて物質を作り出す場が必要だとしていた。この場が「コーラ」と呼ばれるプラトンの考えた空間だという。

カントは空間を人間が外部の事物を認識するために必要な条件だといっている。そして、空間と時間はすべて経験にさきだち、人間の経験そのものを可能にするという意味でアプリオリなものと呼んだ。

ベルグソンによると空間で物質を認識する運動は、概念でものを考える運動と同じで、人間が言語をつかって抽象的に判断できることが、空間において物質を把握し、物質において空間を認識するための条件だという。
そして、空間や概念の認識よりもっと手前に、もっといきいきとした生そのものみたいなものを純粋持続と呼んだ。

メルロ=ポンティは、この純粋な持続を身体の比喩で考えた。
認識の手前に人々の認識の<地>になるような共通の媒体みたいなものがあると想定し、これを世界の<肉>と呼んだ。これは、さまざまな個人を貫いて存在する<大きな身体>みたいなものとして想定されている。